【前編】異国の地から日本代表へ。豊嶋邑作が歩むのは、ロシアW杯出場に向かうビクトリーロード

2015.02.12 森 大樹

豊嶋邑作

 

今回はモンテネグロ1部・FKロブチェン所属、豊嶋邑作選手のインタビューです。豊嶋選手は4歳からサッカーを始め、中学時代にはアンダー世代の日本代表にも選出されており、柏レイソルの下部組織でプレーした後、単身海外に渡り、ご活躍されています。本田圭佑選手や香川真司選手等の海外組選手以外にも日本代表入りを目指して、異国の地で活躍している選手がいることを知って頂ければと思います。

 

海外から帰国後、Jリーグの下部組織に入団

 

サッカーを始めたきっかけを教えてください。

サッカーは4歳で始めました。父親の仕事の関係でコスタリカに移り住むことになりました。まだ日本人に対する差別もある中で、言葉も分からないところに放り込まれました。幼稚園での授業も当然何を言っているのか分かりません。日本でいう住宅地のようなところに住んでいたのですが、周りに子供はたくさんいるものの、遊びの輪には何一つ入れてもらえなかったです。入れてほしいと言っても日本人はあっちに行けと言われます。一番酷い時にはチャイムを押して遊びに誘いに行くといきなり生卵をぶつけられました。

 

-4歳の子供には堪え難い試練ですね。

半年くらいそんな状況の中で、言葉も少しずつ覚えてきた頃に公園でみんながサッカーをやっているのを知りました。でも僕はどうせ入れてもらえないと思って、端の方で遊んでいると声をかけられたんです。今日は人数が足りないからお前も入れてやるよと言われました。だから僕がサッカーを始めたきっかけは好きだからではなく、ただ単に友達をつくりたい、遊びたいというのが理由です。

ただやるなら全員負かして認めさせてやりたいと思うようになりました。始めた頃は、周りに自分を認めさせるために一番サッカーですごい技をやりたいと考えていたので、どうしたら良いか父親に相談しました。そうしたら、オーバーヘッドをすることだと言われました。なので、サッカーを始めて一番初めに覚えたのはボールを蹴る技術などではなく、オーバーヘッドでした(笑)今までのサッカー人生を振り返っても、純粋に楽しくてやっていることは多分ないですが、サッカー自体自分を色々な面で成長させてくれるものでもあるので、今でも続けています。

 

豊嶋邑作

 

日本にはどのタイミングで帰ってくることになるのですか。

初めて海外(コスタリカ)に行ってから約3年後に帰ってきました。日本は野球が盛んで、野球もやってみて好きなりました。今思えばコスタリカに行かなければ僕はサッカーをやらずに野球をやっていたかもしれません。父親も中学まで野球をやっていたので。

 

帰国後はJリーグの下部組織に入団されていますが、どういった経緯があったのでしょうか。

初めは地域の少年団のサッカーチームでやっていました。実家は田舎街で、小学校にも子供が全学年合わせても200人くらいしかいませんでした。僕が所属していたその少年団のチームは、試合に11人揃わないこともよくありました。とりあえず応援に来ていた妹を人数合わせに入れたりすることもあったくらいです。中学校にも当然サッカー部がなくて、クラブチームに入らないとサッカーを続けられなかったんです。そこで親が探してきたのがJリーグの下部組織で、そのチームのセレクションを受けることにしました。小学校2年生になる時にコスタリカから帰ってきたので小学2年、3年、4年と3回、地元茨城の鹿島アントラーズの下部組織のセレクションを受けたのですが、いずれも落ちてしまいました。そこで父から人と同じことをやっていても受からないと言われ、1年間必死に練習しました。5年生になる頃にはアントラーズはセレクションなしで来て欲しいというお話を頂きました。ただ鹿島は遠くて通いきれないというのがあり、柏レイソルの方も受けて合格したので、そちらに行くことにしました。

そこから中高とレイソルの下部組織で、評価してもらい、ずっと1つ上の学年に混ざって練習をしていました。県のトレセンから始まって、関東選抜、東日本選抜と段階的に選抜チームにも選ばれるようになり、中学校2年の頃から代表(U-14、U-15)にも呼んでもらえるようになりました。

 

一気にサッカー選手への道を駆け上がり始めたように思えますが、身体的にも技術的にも急激に成長する時期にあって、苦労されたことはなかったのですか。

僕はドリブルを持ち味としているのですが、当時のチームのサッカーと少し合わない部分がありました。色々と指摘されることも多く、自分のプレーを捨ててまでそちらに合わせるべきなのか、悩みました。でも合わせたところでプロになってもそこから先がないと感じていましたが自分を貫けば試合には出られない。その葛藤は3年間ずっとありました。

海外に行って自分の武器を磨くしかない

 

レイソルの下部組織に2009年まで在籍した後、2011年から海外クラブ(ベルギー2部・CSヴィゼ)に入団されていますが、それまでの期間はどうされていたのですか。

ケガをしていました。そこから僕のケガとの付き合いが始まりました。グローインペイン症候群といって恥骨、股関節のあたりに慢性的に疲労が溜まるとそれが抜けなくなってしまうもので、痛くて朝起きられないくらいです。腹筋に力が入れられなくなってしまいます。2010年はリハビリに費やしました。かなり辛かったです。傍から見たらただのプー太郎ですから。

 

茨田陽生、豊嶋邑作

ライバルである柏レイソル・茨田選手

 

復帰できるようになってからはどういった方向性でチームを探されたのですか。

海外一本でチームを探しました。高校でなかなか思うように自分をアピールすることができない中で、小学校時代からライバルで切磋琢磨してきた※茨田(敬称略)というやつがいました。彼とはずっと同じように1つ上の学年に混ざってやっていて、そいつには負けてたまるかと考えていました。茨田は高校時代の壁も物ともせず、そのままトップチームに昇格してプロになりました。自分はレイソルではプロになれず、大学に行くのか他のJのクラブに行くのかという選択がまずはありました。大学に行っても4年後にあいつは越えられないと思いましたし、他のJ2のクラブに行ったとしてもJ1で活躍するあいつには勝てる気がしませんでした。では自分が勝つためにどうしたらいいか考えた時に海外に行って自分の武器を磨くしかないと決めました。

※茨田:現柏レイソルMF茨田陽生選手。各年代の代表に選出されており、2012年ロンドン五輪の際にはU-23日本代表予備登録メンバーとして酒井宏樹選手(ブラジルW杯日本代表)とともに選出された。

 

半年間ベルギー2部・CSヴィゼ在籍した後、モルドバ1部・FCオリンピアと契約されていますが、海外の数あるクラブの中でそこを選ばれた理由を教えてください。

ちょうど攻撃の選手がケガでいなくなって、すぐに欲しいという連絡が代理人から入りました。

 

海外に在籍して長いと思いますが、やはり自分の武器が磨かれている感覚はありますか。

ありますね。今持っているもので高校生に戻ることができたならドリブルをチームに認めさせることができたと思います。当時は中途半端で自信は持っているけれど、アンチドリブラーを認めさせるほどではなかったんです。メッシとかロッベンのようなレベルではないけれど、自分では自信を持っていたので、人のせいにしているところもあったと思います。

 

【後編】へ続く