5歳で右足を失った男が、日本代表のエースに上り詰めるまでの物語

2016.03.03 竹中 玲央奈

エンヒッキ・松茂良・ジアス

 

 

病気や事故で足を失った人々が行うアンプティサッカーは2008年に日本に上陸した新興競技である。しかしながら、ここ数年で目覚ましい躍進を遂げ、2014年に行われたW杯では史上初の決勝T進出を果たした。ここではアンゴラ代表に0-1と惜敗して大会を去ったものの、そのアンゴラ代表は準優勝。世界の頂点に立つのも遠い未来の話ではない。そのアンプティサッカーを日本に持ち込んだのが、現役で日本代表の中心選手としても活躍する、エンヒッキ・松茂良・ジアス選手である。

 

幼少期に不慮の事故で右足を失う

 

-エンヒッキ選手はブラジルのご出身ですよね?

ブラジルのサンパウロ州で生まれて、19歳のときに日本に来ました。母親が日系ブラジル人で、父親がイタリア/スペイン系のブラジル人です。いろいろな血が混ざっているので、ハーフなのかクォーターなのか…自分でもよくわかっていないんです(笑)

 

-アンプティサッカーを始めたのは、いつ頃なのでしょうか。

10歳くらいのときに周りの友達とやり始めました。5歳の時に交通事故で右足を切断してしまったのですが、サッカーを始める前の事故でしたし、そもそも両親もあまりサッカーに興味がなかったんです。

 

-出身がブラジルなのに意外ですね。

ほとんどの子は父親から誘われてサッカーを始めると思いますけど、僕はそういうのは全く無かったんです。周りの友達はサッカーばっかりやっていたんですけどね。

 

-足を失った交通事故は、どういったものだったのでしょうか。

信号を待っていたときに突然車が自分に向かってきて、そのままひかれたんです。一瞬「うわ、何かがきた!」と思ったんですけど、そこから覚えていません。意識が戻ったときには右足が切断されていて、血だらけになっていました。気付いたのは病院ではなく、道です。でも、痛みは全く感じていませんでした。

 

-そのときの心境は。

幼かったので、いろいろ深くは考えられず「これは一体どういうことなんだろう」と。何が起きているかがわからなくて、自分の足が無くなっている。それにびっくりしたというのが大きかったです。「これからどうなるんだろう」と思いました。

 

 

アンプティーサッカー代表への道のり

 

-それからアンプティサッカーを始めたと。10歳で始めるまで5年の月日があります。

入院を何ヶ月かして、退院しても最初は車いす生活をしていました。そこから少しずつ歩けるようになったんです。最初から松葉杖で歩いていたわけではなくて、歩きづらい器具を使っていました。その後3年間はそういう生活を送っていて、8,9歳くらいからはボールで遊んでいたかもしれないですが、しっかり蹴り始めたのは10歳くらいからです。

 

-アンプティサッカーはブラジルにはあった競技なのでしょうか?

実はブラジルでは30年以上の歴史があります。11歳くらいのときに家にあった新聞を読んでいたら、たまたまそこにアンプティサッカーのブラジル代表がW杯で優勝したという記事があったんです。僕は僕で通常のサッカーをやっていたんですけど、それがちゃんとした競技というのを知らなかったんですね。なので、その記事を見たときに代表レベルでも活動をしているしっかりした競技だと知りました。

 

-生まれたサンパウロで競技生活を始めたということですね。

ただ、その当時はサンパウロに選手がいなかったんです。僕は7,8歳くらいから障がい者センターに通っていて水泳と卓球をやっていたのですが、サッカーをやっている人はいなかった。なので、そのセンターの人達に「アンプティサッカーをもっとしっかりと出来ないか」と相談したら、13歳のときに全国大会がリオデジャネイロで開催されることを教えてもらいました。そこに出たいと思って、先生たちにどうにかして行けないか、と相談をしたら、陸上や水泳や卓球をやっている生徒から選手を募ってくれて、大会に出ることができました。人数はかなりギリギリだったんですけどね。

結果は全敗でした。それもただの敗戦ではなく、25-0とか23-0とか、大敗です。ただ、僕にとっては初めてのアンプティサッカーの大会だったのですが、新人賞を貰ったんです。その会場にいた当時のブラジル代表のエースだったマリオ選手が僕に『君はちゃんと練習をしたらいつかブラジル代表になれるよ』と言ってくれたんです。彼がそう言ってくれるのであればブラジル代表も実現できるんだろうなと思い、本格的にアンプティサッカーをやりたい、という気持ちになりました。

 

-本格的にやるためにチームを変えたりはしたのでしょうか。

まだ中学生でサンパウロからは出られなかったこともあり、健常者と一緒にプレーをしていました。ただ、初めて出た大会の後に他のチームからの誘いもあったので、サンパウロにまだチームがないうちは他のいろいろな場所のチームから毎年大会に出ていました。

 

 

日本に渡り、アンプティーサッカーの普及活動へ

 

-ブラジル代表に選ばれたのはいつごろなのでしょうか?

18歳のときに呼ばれました。初めて大会に出た13歳から18歳の5年間の間でものすごく成長したんです。自分としては“ようやく”という感じだったのですが、晴れてデビューをすることができました。

W杯に行く前に1ヶ月くらいブラジル代表の合宿をやったのですが、初日のことは未だに覚えています。嬉しかった一方で、練習でミスをした時に凄く怒られたんです。「まだ呼ばれるべきじゃなかったのかな」、「まだまだ俺は代表レベルじゃないのかもしれない」とその時思いました。自分を叱った人は当時のブラジル代表キャプテンです。でもその選手が合宿の最終日に『すごく成長したよ』と言ってくれて、それがすごく嬉しかったですね。

 

-ブラジル代表に18歳で選ばれた翌年に19歳で日本に来ています。

W杯を終えてブラジルに帰ってから数カ月後に、日系人のいとこが務めている日本の外資系企業で障がい者雇用をやるということで、それを紹介してもらいました。日本に研修に来た後、無事に正社員になりました。

入社後、いとこから※杉野監督を紹介してもらって、それから一緒にアンプティサッカーの普及を始めました。最初は、杉野監督が先生をしていた知的障がい者サッカースクールでお世話になって、子どもたちと一緒にボールを蹴っていました。そこで僕がプレーしている動画を友達にとってもらい、それを使って色々な人にアンプティサッカーを紹介する、という形から日本でスタートしました。

※杉野監督:杉野正幸氏。アンプティサッカー日本代表監督。

 

-エンヒッキ選手がアンプティサッカーを日本に持ち込んだということになるのでしょうか。

まあ…そういうことになりますね。

 

エンヒッキ・松茂良・ジアス

 

-日本に行くことに抵抗はなかったのでしょうか?

昔から日本に来るのが夢でした。親戚がもともといたこともあって何回か遊びに来ていましたし、2回留学でも来ているんです。ただ、2004年と2007年に沖縄へ行った時は日本で生活するのは無理だなと思いました。今はこうやって普通に日本語を話せるのですが、その当時は全然話せなかった。日本語を理解することができなかったですし、生活できない、とも思いましたね。おじさんとおばさんの家にいたのですが、『帰ったほうが良いんじゃないか』とまで言われました。それで結局ブラジルに帰ったあと、ブラジル代表になり、W杯に出て、数ヵ月後に日本の企業に就職する話がでました。タイミングが良かったですね。

ちなみにブラジルは小中学校が合わせて8年間、高校が3年間なので、日本に比べて学校に通う期間が1年足りないんです。大学は4年間で同じです。自分は大学に入るのをやめて日本に来ました。入学することは決定していたのですが、日本に行けるチャンスかなと思ったので。もちろん迷いましたけど、こういったチャンスはまたあるかわからないですしね。大学は最悪、ブラジルに戻れば出られると思ったんです。それで1人で来て、最初はいとこと一緒に3ヶ月ほど住み、その後沖縄留学時代にお世話になったおじさん夫妻が千葉に引っ越してきたので、そこに住みました。

日本語は当時は話せなくて、ひらがな・カタカナくらいは勉強していたんですけど、漢字は分からないし、おじさんは沖縄の人でポルトガル語もあまりわからなくて。毎日帰っておじさんとおばさんとご飯を食べている間、話をずっと聞いているうちにだんだん理解できるようになりました。最初は黙って聞いているだけの状態でしたが、少しずつ話せるようにもなりました。あとはサッカー仲間も増えてきて、自分が頑張って日本語を話すしか無い、と思ったのもあります。

 

-語学学校などには通っていないんですね。

そうですね、勉強はあんまりするタイプではないです(笑)。毎日電車に乗って広告を見て、これってどういう意味なのかな?と気にしたり、テレビを毎日見て「これはどういうことだろう」と考えて、調べるようにしました。

 

-アンプティサッカーを広めるのは大変でしたか?

最初は広めようと深くは考えず、遊んでいる中でどんどん仲間が増えてきたという感じです。自分が色んなことを頑張ったのではなくて、何人かにアンプティサッカーを紹介したら気にいってくれて、広めてくれました。第一歩だけ僕がやって、後はみんながやってくれたんです。

 

エンヒッキ・松茂良・ジアス

 

いつか日本代表を世界チャンピオンに

 

-日本代表としてプレーをしていらっしゃいますが、日本国籍はいつ頃取得したのでしょうか。

実は、まだ取っていないんです。名前にある“松茂良” というのはおじいちゃんの名前で漢字でも珍しいんですけど前から使っていました。国籍はまだブラジルです。代表に関しては特別に認めてもらっています。そのあたりはまだあまり厳しくないんです。ただ、パラリンピックの競技になったら、国籍を持ってないといけないですね。

 

-やはり、パラリンピックの競技になることが夢であると。

パラリンピック競技となって、パラリンピックに出るのが世界中のアンプティサッカー選手の目標だと思うし、出るだけでなく、勝ちたいと思っています。

 

-今まで、日本の国際大会における成績はどのようなものなのでしょうか。

W杯には2012年までに2回出ていて1度も勝てませんでした。ですが、2014年のメキシコ大会で初勝利ができて、かつその前の大会で13-0で負けたトルコに3-0で勝って、グループリーグを1位で通過しました。その後アンゴラに1-0で負けてしまったのですが、アンゴラは準優勝をしたんです。だから日本のレベルはすごく上がっています。毎回新しくて上手い選手が出てくるので、その結果かな、と。

 

エンヒッキ・松茂良・ジアス

 

-切断障がいを持った方にとってアンプティサッカーが果たす役割は大きいと思います。

最初に日本でアンプティサッカーを始めるときは、一緒にサッカーをやってくれる人を探しましたが、蓋を開けてみたら、みんなが事故にあって落ち込んだり、人生が終わったと思っている人が多かった。だから彼らに『アンプティサッカーを始めたことによって人生が変わった』と言ってもらえるのはすごく嬉しいです。自分としてはそれが主な目的ではなかったんですけど、人の人生の役に立てたと思うとやっぱりすごく嬉しい。

本当に自分が楽しみたかっただけなのですが、みんなが『ヒッキに感謝だよ』と言ってくれると、日本に来てよかったと思います。

 

-ですが、アンプティサッカーは普通にサッカーを始めるよりも難しいことだと思います。

昔、日本にアンプティサッカーがなかった頃には想像ができないものだったと思います。『足がないのにそんなことができるか!』と言われたりもしました。でも、僕が見せたら『できるんだ!』と驚かれたんです。人って見たことのないものは分からないし、想像も付かない。なので、僕はいつもみんなに“やれば出来る!”“やろうと思えば何でも可能性はあるんだ”ということを言うんです。僕も最初からできたわけじゃないです。好きでやり続けていたからできるようになったんです。一人ひとりの気持ち次第だと思いますし、やり始めてすぐに上手くなる人もいれば時間がかかる人もいます。そこには個人差があるのですが、僕としては“うまくなりたい!”という強い気持ちを持つことが何よりも大事だと思います。

 

-少し競技面からは離れますが、仕事とアンプティサッカーの活動以外の時間帯での趣味などはありますか?

自分はサッカー馬鹿なので(笑)サッカーは国内外両方を見るのですが、特に海外サッカーが好きですね。起きたらまず携帯でサッカーニュースを読んで、テレビをつけたらサッカーの試合を探して見ます。あとはサッカーゲームもやりますね。夜通しやることもあります。他のことももちろんしますが、メインはサッカーです。

 

-好きな選手はいますか?

 

今はネイマール選手ですね。効率のよいサッカーも良いと思いますが、見ていて面白い選手が好きで、驚かせてくれるようなプレーが好きなんです。ネイマール選手はそういう面でもすごいなと思います。そもそもネイマール選手が所属しているバルセロナ自体が本当に強いですし、面白い。ゲームをやっているような感覚ですよね。

 

-最後に、ご自身の目標を教えて下さい。

アンプティサッカー日本代表のことを考えると、日本が世界に勝つためにはもっとレベルアップをしなければいけないと思っています。そのためには競争力を高めていかなければいけないですし、選手の数も増やさないといけないと感じています。それはすぐに出来ることではないですが、少しずつやっていければと思っています。

あとはもっともっといろいろな人にアンプティサッカーを知ってもらいたいと思っています。それができることによって全てが繋がっていくと思います。障がいを持っていない人もアンプティサッカーを知り、他の人に伝えてもらいたいです。

僕は日本代表として世界一にもなれるんじゃないかと思っています。ポーランド代表は僕らと同じ時期に競技を始めたのですが、彼らはこの前のW杯で4位になりました。そう考えると優勝は不可能ではないです。まだまだ長い道のりではありますが、いつか日本代表として世界一になれたら、と思います。