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海外経験ゼロ・英語嫌いを乗り越えた、日本人唯一のFIFAコンサルタント

2016.10.04 / 竹中 玲央奈

杉原海太氏

海外にいくというルートがあると知ったときに、ワクワクしたんですよ。そして、これをやらないと、死ぬときに後悔するだろうなと。そう思ったんです。32歳という年齢も関係なく、躊躇せずに行きました。(FIFAコンサルタント・杉原海太)

 

元サッカー日本代表キャプテン・宮本恒靖氏がFIFAマスターに進学して、話題になったことを覚えていますでしょうか?

スポーツの歴史、組織論、マーケティング、法律などの全般的な知識に関する修士過程であるFIFAマスターを修了し、現在、日本人唯一のFIFAコンサルタントとして活躍するのが、杉原海太氏です。

杉原氏は世界中でサッカーを根付かせるために世界各国を飛び回り、各国が抱える課題にアプローチ。協会の仕組みづくりやクラブライセンス制度の導入、さらに根本的な財源確保の方法まで、幅広いサポートをしています。

元々英語も得意ではなかった杉原氏が32歳で脱サラを決意し、海外に、そしてスポーツ界に飛び込んだのは一体なぜだったのでしょうか。

大学時代に発足したJリーグがサッカーにのめり込む契機に

僕はFIFAで働いていながらサッカー経験はありません。やっていたのはテニスと野球です。僕の幼少期は野球の人気がダントツでしたし、高校サッカーは人気でしたけど、プロのリーグがなかったですからね。ちなみに僕は兵庫生まれなのですが、0歳で川崎市麻生区に引っ越しました。そこからずっと、社会人になって1人暮らしをするまで川崎市民です。ただ、川崎って工業地帯から典型的な新興住宅街まで南北に長くて、都心に繋がる電車が幾つも東西に通っている。僕の実家のエリアは小田急線ですけど、都内に通勤・通学する人も多いので”川崎市民”という認識はそんなに強くないんです。そういう意味で川崎の南北の一体感を創りだしたフロンターレはすごく偉大なことをやってくれたと思っていますね。

実は中高とスポーツをやっていなくて、大学入学後にサークルでやり始めた野球が初めて取り組んだスポーツです。その後、テニスにのめりこみました。中高にもっとスポーツに打ち込んでいれば満足したと思うのですが、20歳前後の時期に、仲間と一緒にうまくなっていき、自分自身も上達していく経験を得られた事が逆に大きかったのかなと思います。その結果じゃないですけど、30歳前後で“この先何をするか”と考えたときに、”スポーツ”というものが浮かびました。

具体的なサッカーとの出会いを話すと、大学4年時です。Jリーグがスタートしたときですね。そこで日本代表とJリーグのブームが来ました。その後、初めてW杯に出たり、中田英寿選手が海外にも行ったりして、日本サッカーが下から上に登っていくストーリー性があった。加えて徐々に海外サッカーの情報も入ってきていたんです。その流れでどんどん好きになっていったのですが、そこで「サッカーを仕事に出来ないかな」と思いはじめました。

ただ、冷静に考えてその難しさも痛感しました。具体的なルートが見えてこなかったんです。僕がサッカー界を志した時期は2001〜2003年あたりだったのですが、当時は今と違ってスポーツマネジメントを学べる大学や大学院は日本には少なかったですし、インターネットで検索をしても、情報も、先人の存在も見つけられなかった。その中で数少ない情報を発信されていたのが、今もスポーツ界で活躍されている鈴木友也さんのHPでした。彼はアメリカの大学院を修了しアメリカでスポーツビジネスに携わっており、HPで情報を発信していたんです。僕は当時、大学院を修了した後に入社したコンサルティング会社で働いていたのですが、HPを読む中で鈴木さんもコンサル出身ということを知って、「バックグラウンドも似ているし、”この人が出来たのなら自分にも出来ないことはないのかな?」という考え方に至ったんです。例えばそこで鈴木さんが、スポーツ界の外から中に入った方では無く、元々スポーツ界にネットワークを持っていた方だったら、諦めていたかもしれません。

また、ちょうどそのときから留学をして外の世界からスポーツ界に入ったという人がぽつぽつ出始め、サッカーや野球界にもちょっとずつ現れたんです。あとは、僕の頃はリバプール大学に留学される方も結構出始めました。リバプール大学が日本でメジャーになったのが2000年代前半くらい。西野努さんという元浦和レッズの方が入学されて、彼がリバプール大学に通う中で更新していたブログが、リバプール大学が日本でメジャーになる一因だったのかなと思います。自分もめちゃくちゃ読んでいましたよ(笑)

AFC時代の杉原海太氏AFC時代の杉原さん(前列右から5番目)

1年間の浪人期間を経てFIFAマスターへ進学

そういうこともあって決意をし、海外に渡ったのは33歳。脱サラをしたのは32歳です。1年間英語を勉強してきたのですが、これまで受験英語しかやったことなく、留学どころか海外旅行すら一回も行っていなかった中で、実際の会話やTOEFLをやらなければいけなくて、このハードルが高かったですね。定められたTOEFLのスコアがないと、学校に応募ができない。会社に勤めながらその目標を達成するのは無理だろうと思い、退職しました。

30代でそういう決意をしたのは、やはり鈴木さんのHPを読んで「その手(留学)があるのか!」と思ったからなんですね。当時は例えばFC東京のフロントで働くのであれば東京ガスに勤めなければいけないと思っていたくらいですから。海外にいくというルートがあると知ったときに、ワクワクしたんですよ。そして、これをやらないと、死ぬときに後悔するだろうなと。そう思ったんです。32歳という年齢も関係なく、躊躇せずに行きました。

また、コンサルの仕事の中で2つほど大きなプロジェクトを成功させて、達成感が生まれたんです。そのときに改めて「これから先どうしていこうか」というようなことを考えて、就活時代に本質的には解決できなかったことをもう1回考えるようになりました。そこでスポーツ界への道を決心し、FIFAマスターに進もうと道を決めました。

僕は2004年の9月から2005年の7月までFIFAマスターに通っていました。受験は書類の応募と小論文の2つです。ペーパーテストは、しいえて言えばTOEFLですね。そのスコアシートを送って、論文を書いて、という感じです。それが通ると電話インタビューがあります。その結果で合否がでるんです。

余談ですが、英語ができない人間にとって何が一番嫌かっていうと、電話なんですよ。顔が見えればリアクションとかも分かるのですけど、電話はそれがない。メールなら自分のペースで打てるし、分からない単語があれば調べられるから安心してできます。ただ、電話はそれができない。それでもって、突如連絡がくるんです。『◯時に連絡します』というのを知らされていれば準備ができるのですけどね。

ただ、ラッキーだったのが、FIFAマスターを受験した時の電話インタビュー相手にだった教授が、英語が母国語ではない方だったんです。そのせいか、正直そんなに喋れてはいないんですけど、通ったんです。でも、『あなたは英語準備コースへ行きなさい』と言われました(笑) FIFAマスターは9月の中旬に始まるのですが、8月の中旬くらいに渡英して3週間ほど、FIFAマスターが提携しているレスターにある大学で語学研修があるんです。そこで英語を勉強して、正式なプログラムに進みました。

FIFAマスターでは委託された学術機関で様々なことを学びます。レスター、ミラノ、ヌーシャテルにある3大学に3,4ヶ月ごとに移動して勉強しました。早稲田大学と九州大学と北海道大学を1年間で通うみたいな感じですね。レスターでスポーツの社会学や歴史学、ミラノではマーケティングやファイナンスを学びます。そしてヌーシャテルではスポーツの法律です。

杉原海太氏

運と縁で入り込んだAFC。そしてFIFAコンサルタントへ

FIFAマスターといっても卒業後の進路は全く保証されていません。その中で僕はAFCを経てFIFAコンサルタントとなれたのですが、縁と運もあるかなと。英語も苦手で、それまでに海外経験もなかったので、卒業後は日本に帰るつもりでしたから。海外で働くなんてことは全くもって思っていなくて、帰国したらJリーグやJFA、Jクラブで働けたら万々歳と思っていたんです。

ただ、就職活動に入ったときが、たまたまAFCが規模を拡大して人を増やし始めた時期だったんです。僕はFIFAマスターの5期生なんですけど、先に3,4期生がAFCに何人か行っていて、高い評価を得ていました。そういう経緯もあり、5期生にはアジア人が僕を含めて3人いた中で、僕はAFCで6ヶ月間のインターンの機会をもらうことができました。今は採用を積極的にやってはいないんですけど、当時は人を増やす段階だったのでラッキーだったな、と思います。そして、結果的には3ヶ月のインターンの後に採用をしてもらったんです。

AFCは当時46の国・地域の協会を抱えていたのですが、その国に対して支援を行うことをやっていました。僕が携わっていたのは運営系、オフザピッチのところです。スポンサー関連まではいかなかったですけど、もっとベーシックな所。人員体制を整えることや、組織の枠組みを作るという部分ですね。このような業務を中心に8年間、AFCで働いたのですが、その中でFIFAからお誘いが来て、現在に至るということです。

FIFAコンサルタントとなって2年半ちょっと経ちますが、大変さより楽しさのほうが全然、勝っています。AFCのときはアジアだけでしたけど、アフリカやオセアニア、北中米など様々な所に行く機会もあって、その国の文化やどういうサッカーをしているかがわかるんです。ですから、普通は5年で得られるものが2年に凝縮されたように感じるというか、それくらい強い刺激を受ける毎日です。大変といえば大変なんですけど、学びが多すぎますね。

“コミュニケーション”がスポーツ界を変える

“スポーツ界”とはけっこう曖昧だと思っています。普通の業界よりもいろいろな職種がある。例えばサッカークラブなのか用品メーカーなのか、それとも小売店で売る側につくのか。いろいろなタイプの人がこの業界で働いているので、全部に共通してコレだと言える“この世界で働くために必要な資質”というものはないと思います。ただ、強いて言えばコミュニケーション力かなと。

僕がFIFAの中で評価されているなと思う部分は"日本人らしい仕事ぶり”。日本にいるとみんなは気づかないんですけど、外に出たらその特性がわかるんです。丁寧に仕事をやるとか、相手を思いやって仕事ができるという点。西洋では上から目線でガツン!と押し付ける人もいます。みんながみんなそうという訳ではないんですけどね。日本人はどっちかというとソフトで、相手の話を聞いて話が出来る。そこはコミュニケーションの基本といえば基本なんですけど。海外に行ったら対話の中でガンガン行くべきだ!と仰る方もいると思いますが、僕は逆の考えを持っています。日本人の持ち味で勝負をしてもらえればよいなと思いますし、ある意味それで僕はここまで来られたので。

スポーツってすごく多面的だと思うんですよ。競技という軸があり、そこにビジネスという軸も入ってきて、それと同時に社会的、教育的なものでもある。そういういろいろな価値が複合的にあり、はっきりと目に見える価値だけを提供しているという訳ではないですよね。スポーツの中でビジネスというと放映権と看板と広告と…と思う人がほとんどだと思いますし、一般のビジネス界の方で、スポーツに対して企業・サービスの露出以外のビジネス的可能性を本当の意味では感じていない人は多いんじゃないかな、という印象はあります。

ただ、それは逆も然りで、スポーツ界側が説明していないからというのもあるんです。『このスポーツは露出以外にもビジネス的にこういう活かし方があって、御社の課題の解決に繫がりますよ』と働きかけることが足りていない。昨今の流れで言えば、ビジネス的なアプローチでスポーツが持続的に社会課題解決を図る事のお役にたてる可能性もある。そして、そうする事で、スポーツ自体も税金に頼らず持続的に発展できると思うんですよ。そういう意味ではスポーツ界とビジネス界の間のコミュニケーション不足で、より相手のことがわかればしっかりとビジネスになるんです。

だからこそ、スポーツに関わる人が、競技のこともビジネスのことも分かって、教育的な価値も社会的な価値も理解していればスポーツの持続的な発展に繋がることになるんじゃないかなと思いますし、そのためにもコミュニケーションというのは重要なんです。自分とは違うタイプや分野の人とでもいろいろ話せるということは、その中から様々なことが学べ、様々な角度から物事を見る事ができるようになりますから。そういう力がスポーツ界に求められていることなのだと僕は思います。