“ミスター千葉ロッテ”初芝清が進む、監督としての第二の人生

2015.12.11 竹中 玲央奈

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「母親を楽にさせたい」という思いでプロを強く意識し始める。

現役時代はプロ野球・千葉ロッテマリーンズ一筋でプレーをした初芝清氏。2005年限りで引退後、現在は都市対抗野球などにも出場し、プロ野球にも人材を輩出しているセガサミー野球部の監督を務めていた。

 

-初芝さんが野球を始めた経緯から教えて下さい。

私は東京出身ですが、途中で家庭の都合で埼玉県の坂戸というところに引っ越しをしています。それまでは東京でボーイスカウトをやっていました。坂戸に移ってからも継続してやりたいと思っていたのですが、引っ越した先にボーイスカウトがなかったんです。ただ、転入したクラスの友達が野球をやっていました。僕も東京にいたころから野球は好きで、遊び程度にはやっていたので、その友達から一緒にやらないかと誘われて始めたのがきっかけですね。

 

-当時はみんながやっているようなメジャースポーツといえばやはり野球だったのでしょうか。

野球しかなかったですね。それ以外に何があるか聞かれても答えられないです。ただ、その地域にもしボーイスカウトがあったのなら、野球はやっていなかったかもしれませんね。

 

-巡り合わせですね。所属したチームは強かったのでしょうか?

強かった印象はありました。でも、発足して何年も経っているチームではありませんでした。私がチームに入ったのは小学4年の終わり頃だったのですが、5、6年生の選手というと誰がいたか名前が出てこないくらいでした。

ただ、監督は厳しい指導をする人で、目の前に親御さんがいてもその姿勢を全く変えない方だったのを覚えています。

僕は入った時、最初はキャッチャーだったんです。小学生では体格が大きい=キャッチャーをやってみろ。みたいな流れはありましたから(笑)でも、私は※田淵さんが好きだったので、むしろキャッチャーがいいとは思っていたんですけどね。

※田淵幸一氏:元プロ野球選手。現役時代は阪神タイガース、西武ライオンズの主軸打者として活躍。その後もコーチや解説者として活躍。

 

-高校時代は投手だったんですよね。

小学5年生のときからピッチャーをやるようになりました。キャッチャーには向いていなかったからだと思います(笑)

 

-そこで才能が開花したのでしょうか。

投げるのは楽しかったですね。それで打者を抑えるということに楽しさがありました。

 

-そのまま中学にも進んで野球をやられたということですね。

そうですね。ただ当時は今みたいにシニア※でやるというのがメジャーではなかったので、どうしても部活の方で続けたいというのはありました。

※リトルシニア:中学生を対象とした硬式野球。

 

-プロを本格的に意識し始めたのはいつ頃からなのでしょうか。

昔から思ってはいましたが、明確にプロを意識し始めたのはやはり高校の時でしょう。自分がプロに行きたいというのもありましたし、母子家庭だったので、親を楽にさせてあげたいという気持ちがありましたよね。それで高校から直接プロになりたいと考えていました。しかし、ドラフトで指名はされませんでした。就職することは考えておらず、プロ一本というくらいの気持ちでやっていましたし、もちろん大学進学も家庭の事情でまず無理です。そうなると結局就職しか無いわけです。

そんな時に社会人野球の東芝府中から練習参加をしてみないかというお話を頂きました。それでセレクションも兼ねて練習に参加させてもらいました。当時はまだドラフトの時期が遅かったですし、選手枠が空いているわけではなかったのですが、練習を見た監督さんが会社に無理を言って僕のために枠を1つ増やしてくれたそうです。

 

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社会人野球でプレーする選手を現在は指導者として見ている

 

-高校3年でプロを目指した中で叶わなかったときの心情はいかがでしたか。

確かにドラフトにはかからなかったんですけど、挫折というよりは社会人でまた野球ができるということで気持ちを切り替えられたように思います。高校の時はプロになれたらいいな、という感じでしたが、社会人野球に進んでからは”プロになりたい”から”絶対になってやる”という強い気持ちに変わりました。

 

-プロに入ってから立てた目標はどういったものだったのでしょうか。入ってからこそが難しい、大変な世界だったと思います。

それはもう、選手みんなのレベルが高いですからね。自分の力でどこまでできるんだろう、というのはありました。まずプロに入って心がけたのは、人一倍練習をすることです。他の選手が練習から上がる前には絶対に自分は上がらないと決めました。自分が最後にグラウンドを出るというくらいの気持ちで取り組んでいました。

 

-監督やコーチの方にもそれが響いたのでしょうか。

後々考えれば、それが1つのアピールになったのかなとは思います。でもアピールをしようと思ってやっていたわけではないですし、自分が練習して上手くならない限りプロではやっていけません。社会人野球時代から自分が上手いと思っていたこともないです。結果としてプロにはドラフト4位で入ることができましたが、ドラフト1,2位で球団から「絶対に来てくれ!」というような順位で指名されたわけではないのです。だからまずは自分がうまくなるために練習しなければいけないということは心がけていました。

 

-少し話が前後するのですが、投手から野手に転向したのはいつだったのでしょうか。

社会人野球に入った時です。その頃にはあまりピッチャーをやりたくなくなっていて、打つほうがやりたいと思っていましたし、東芝府中に練習参加した時も、その時点でピッチャーではダメだと言われていました。決して速い球を投げられるわけではなかったですからね。社会人野球の選手の技術を相手にすると僕の力でピッチャーは無理だと判断されたということです。

 

-ポジションの転向というのはそう簡単にできるものではないと思います。

いや、そうはいかないですよ。社会人野球に進んで、野手転向が決まってからは毎日ノックを当時のコーチがつきっきりでやってくれました。ボールを受ける数、バットを振る数というのは本当に多かったです。当時の東芝府中というのは周りからもあそこにだけは絶対に行きたくないと言われるほど厳しい練習をするチームでした(笑)でもそこで練習できる体力が付いたというのは大きかったです。プロに行ってもその体力があった分、練習量を多くこなすことが出来ました。

 

初芝3

 

公式戦初打席で本塁打を放つ

 

-入団してからはどのように中心選手まで上り詰めたのでしょう。

ルーキーの年から一軍のキャンプに連れていってもらうことができました。ただ、3月のオープン戦でヒットを打って、セカンドにスライディングをした時に肩を脱臼したこともあって、開幕一軍は外れました。しかし、ファームの公式戦初打席でホームランを打ったんです。そこからもそれなりに打っていた中で、5月の遠征の際に一軍合流が決まりました。

ただ、怪我で離脱するまでオープン戦で打ってはいたものの、一軍に上がった後もまたしばらくはずっと控えでした。当時はサードのレギュラーに※水上(善雄)さんがいたからです。ただ、救いというか良かったのはロッテが弱かったということです(笑)例えば10点差がついてしまうようなゲームがあると若手にチャンスをもらえるんです。そこである程度結果を出さなければ一軍と二軍を行ったり来たりすることになるかと思いますが、なんとか結果も付いてきました。

※水上善雄氏:元プロ野球選手で福岡ソフトバンクホークス現・二軍監督。現役時代は主にロッテの中心選手として活躍。初芝さんがルーキーだった1989年は主にサードで76試合に出場。(同年初芝さんは70試合出場)

 

-チームが負けている状況だったからこそチャンスが回ってきたということですか?

そうですね。勝っている状況ではまずチャンスはなかったので、不謹慎かもしれないですけど、試合中は早く点差がついてくれないかな、と思っていました(笑)それくらい試合に出るというチャンス自体がなかった時代なので、そういう意味ではロッテに入って良かったかなと今振り返って思います。

 

-プロに入ってからは順風満帆にキャリアを進んできているように思います。

でもその裏で数少ないチャンスをものにするために自分は人一倍練習をしてきたという自信はありました。練習をしていれば絶対に打てると常に言い聞かせていました。

 

-練習を誰よりもやり続けることはプロ入り後も一貫してやっていたのでしょうか。

そうですね。若いうちに練習量をこなしておくというのは、その後のプロ生活にも大きく関わってくると思いますし、やっておかなければいけない年齢というのもあるでしょう。それが貯金となるわけではないですが、年を取ってきた時に活きてきますよね。

 

-プロ野球選手になりたいという夢を持つ人もたくさんいると思いますが、彼らにアドバイスをするとすればどういったことを伝えたいですか?

練習するということももちろん大切です。しかし、そもそもみんな簡単に「プロになりたい」と口にしますが、そのために何をやっていますか?ということです。そこまで意識を高く持っているのかと問いたいです。社会人野球に関してもチーム数自体が少なくなってきていますから、ある程度選ばれた人間しか入って来られません。さらにその上にあるプロを目指すために、自分はどのようにしていかなければいけないのか、という意識の部分が今の学生やアマチュア選手達には薄いと感じています。

 

-そこの部分に関しては、初芝監督はずっと持ち続けていたのでしょうか。

はい。プロは入るところではなく、活躍するための場所です。その難しさはあります。

 

-選手生活をロッテ一筋で終えましたが、そこは感慨深かったのではないでしょうか。

そうですね。しかし※最後の年を除けば1回しかAクラスの経験がなく、17年間プロでやってきてほとんどがBクラスだったことになります。だから勝つ喜びを知らないというところはあります。1回Aクラスになった時はオリックスが優勝した年で、ロッテは2位でしたが11ゲームも離されていました。優勝争いをした2位ではないということです。だから、勝つことの喜びを知ることができたのは、本当に最後の年だけです。

※2005年の千葉ロッテ:初芝さん現役最終年。レギュラーシーズンは2位で終えたものの、プレーオフで3位西武、1位ソフトバンクを破り、パ・リーグ優勝、日本シリーズへの出場権を獲得した。日本シリーズでもセ・リーグ王者の阪神に対し、4連勝し、日本一に輝いた。進出したアジアシリーズも制し、アジア王者となっている。(初芝さんの出場は日本シリーズまで)

 

初芝4

-”このチームで優勝できる”と思った時期はありましたか?

2005年のシーズン終盤にあったソフトバンクとの4連戦はうちが4勝したら順位を逆転できるという、重要なカードでした。そこで3連勝して、あと1つで勝てばひっくり返るというところまでいきましたが、負けてしまいました。その日がちょうど引退セレモニーの日だったのですが、こういうところを勝たないと優勝はできないんだな、とは思いました。

 

-それでも最後にプレーオフを勝ち上がり、日本一となって現役の最後を飾るというのは誰でも経験出来るものではないと思います。恵まれた選手生活でもあったのではないでしょうか。

そうですよね。でも恵まれているならもっと優勝経験がしたかったです(笑)私は弱かったロッテ時代を知っていますから、今のようにお客さんも入って、ある程度戦えているのを見ると楽しいです。

 

-ロッテが弱いところから強くなっていく中で感じたやりがいや面白みはありましたか?

面白みを感じるといったことはありませんでした。結局は勝っている試合が多ければ楽しいですし、皆勝利が欲しいですから。

 

-タイトルを取りつづけるのも良いかもしれませんが、1つのチームに居続けて最後に優勝して喜びを分かち合えるというところに多くの人は親しみを持つのかなとも思います。

いやいや、それはどうですかね(笑)

 

-ファンの皆さんも温かった印象があります。

私はそういう印象よりもゲッツー(ダブルプレー)を打ったら大ブーイングが起きるようなイメージが強いです(笑)でもそれくらい期待されていたということかもしれません。

松坂大輔との対戦はワクワクした。

 

-千葉マリンスタジアム(現・QVCマリンフィールド)と言えば球場初ホームランを打ったのが初芝さんでした。

球場のこけら落としの試合で、対戦相手は巨人、ピッチャーは宮本(和知)さんでしたね。高めに抜けたチェンジアップを打ちました。ただその次の回に原(辰徳)さんがバックスクリーンにホームランを打って、僕のホームランは霞んでしまいました(笑)

 

-現役時代に対戦した選手で、一番衝撃的だった選手は居ますか?

松坂大輔選手がプロに入ってきた時は夏の甲子園の決勝でノーヒットノーランを達成していたということもあって、マリン(千葉マリンスタジアム)での初登板の日はワクワクしました。一体どういうボールを投げるんだろう、とすごく楽しみにしていました。僕も生で見たことはなかったですから。お客さんもたくさん入ってスタジアムは超満員でした。お客さんがたくさん入るだけでも僕はワクワクするんですよ。 そこで打てばより目立てますからね。

 

-逆境のような状況を力に出来る選手だったということでしょうか。

相手チームがこの試合に勝てば優勝という試合で、僕はほとんど打っていましたね。なので、僕が出ていた試合で優勝を決められて、胴上げされたのはおそらく1回だけです。その1回はたしか西武戦だったと思いますが、胴上げを見たくなくて、僕は早々に後ろのロッカーに下がりました。

 

-スポーツ選手としては羨ましいメンタリティですね。

でも自分が打てば必ず勝ちに結びつくか、というとそうとも限らないので難しいものです。ただ運良くそういう試合は勝つことが多かったですね。

 

-引退セレモニーが行われる試合でデッドボールを受ける、なんていうこともありましたね。それにはベンチも客席も湧いていました。

そうですね。結局その後にもう1回打席が回ってきましたが、結果はライトフライでした。 デッドボールを投げたのは左の中継ぎのピッチャー(編集部注:元ソフトバンク 三瀬幸司投手)だったのですが、前の対戦でも当てられていたんですよ。それを選手もファンも知っているじゃないですか。たしかその後のプレーオフでもデッドボールだったので、3打席連続ということになりますかね(笑)

 

社会人野球は日本の野球界の中では最も目立たないが、そこにも魅力がある。

初芝5

 

-引退後はかずさマジックのコーチになりましたが、指導者としてやっていこうと考えていたのでしょうか。

いや、全く考えていなかったですよ。当初は解説をやっていましたから、プロでそういうチャンスがあればとは考えていましたけど、社会人野球で指導をするという考えはなかったです。

 

-どういった経緯でそこまで行ったのでしょうか

ロッテのスカウトの方が、当時のかずさマジックの監督さんやGMさんから木のバットになって打力が弱くなり、何年も都市対抗の予選に負けていると相談を受けていました。ちょうどその年にピッチャーは2点に抑えていたものの、打撃陣が1点しか取れずに都市対抗野球の予選で負けて、代表権を逃していたんですよね。なので、打撃力を上げるということに着目したようです。それでそのスカウトの方から「バッティングを教えてくれる人はいないか」という話があったのがきっかけです。初めはバッティングを少し見るくらいの感覚で行ったので、年で契約をしたいと言われた時は驚きました。僕も解説の仕事を始めたばかりですし、そんなに頻繁には来られないと言ったのですが、それでも年間を通じて、来られる日だけでも良いので実技指導をお願いしたい、とお願いされました。だからまさかバッティング・コーチという形で契約をするとは僕も思っていなかったです。

 

-解説をやりつつ、指導をするという形だったのでしょうか。

そうですね。解説と指導の比率は半々くらいでした。ニッポン放送と千葉テレビで解説をやっていましたから、指導は月に20日行ければいい方でした。

 

-そうなるとかなり忙しそうですね。

そうなんです。だから君津に寮を用意してもらったりしました。行き帰りだけでも時間がかかりますし、ほとんど解説をする試合はナイターで、社会人野球は朝に練習ですからね。1回睡眠不足で倒れそうになったこともありました。夜ナイター、朝練習、また夜ナイター、朝練習…と連続して、寝る時間がなかったからです。それを見たマネージャーが部屋を準備してくれました。

 

-大事に至らなくてよかったです。

でもそこで現役時代の体力があったらよかったな、とは思いましたね(笑)

 

-そこから、現職のセガサミーの監督になるまではどういった経緯があったのでしょうか。  

 

今のチームの副部長が元々東芝府中の出身で、お互いの事は知っていました。久々に電話がかかってきたと思ったら、いきなり監督をやってくれませんか、と言われました。突然だったので、「え、俺がですか?」という感じでしたよ(笑)

 

-“監督をやる”ということに対して、どのような印象を受けましたか。

最初は戸惑いがありましたね。かずさマジックでコーチをやっていて監督の大変さを見ていましたし、自分に務まるのか、という心配はありました。いろいろ最初は考えましたが、僕の中で社会人野球の面白さというのも感じていました。いい大人が真剣に野球をやる、その姿というのは日本の野球界の中では最も目立たない部分ではありますが、そこに社会人野球の魅力というのがあると私は思っていましたので、思い切ってやってみることにしました。

 

-このチームの魅力や強みはどういう部分でしょうか。

いい意味でも悪い意味でも、明るいチームです。

 

-それでは最後に初芝さんの今後の目標を教えてください。

チームとして日本一になることです。今いるこの選手達にその経験をさせてあげたい、その想いだけです。今年で創部10年と歴史は浅いですが、日本中から倒したいと思われるようなチームになりたいと思います。