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下田恒幸が語る、スポーツ実況。「第一は、起きていることの音声化です」

2017.10.25 / 田中 紘夢

下田恒幸(アナウンサー)。サッカーW杯の日本代表戦やUEFAチャンピオンズリーグ決勝を担当した、ベテランだ。氏のスポーツ実況の原点はブラジル時代、そしてニッポン放送にあった。

下田恒幸氏
 
下田恒幸(しもだ・つねゆき)。サッカー界で長きに渡って実況として活躍し、W杯の日本代表戦やチャンピオンズリーグ決勝を担当した経験を持つベテランアナウンサー。地方局を経て2005年からフリーとなり、現在は主にスカパー!やDAZNのサッカー中継を務めています。
  
年間の中継数は200試合超。そんな下田さんがスポーツアナウンサーの世界に至るまでには、幼少期を過ごしたブラジルでのある経験が影響していたそうです。今回は下田さんのルーツに加え、2010年の南アフリカW杯・日本対カメルーン戦での“名口上”が生まれた経緯についてもお話いただきました。
 

ブラジルと日本で発見した、実況のルーツ

 
下田恒幸(以下、下田) 小学生の時は、プロ野球の巨人を応援していました。遊びレベルで野球をやることはありましたが、サッカーとの接点は何もなかったです。テレビ放送もやっていなければ、周りに興味がある人もいなかったですから。
 
小学3年生から中学1年生の途中まで、父親の仕事の都合でブラジル・サンパウロの日本人学校で過ごしました。当然、ブラジルには野球の文化がないですが、サッカーは盛んなので、クラスメイトに影響されてサッカーを楽しむようになりました。
 
サッカーを観戦する機会も何回かあって、モルンビーでサンパウロとパルメイラスの試合を観戦しましたね。ヨーロッパや南米には今でもラジオの文化があるのですが、当時もラジオでサッカーを“聴く"ことがありました。
 
クラスメイトと一緒に楽しんだり、土日に家族と出かける時にカーラジオで流してもらったり。日本に帰ってきてからも、サッカーをプレーすることはあまりなく、高校のサッカー部に少し所属していた程度です。やるより見る派でしたね。
 

局アナからフリーを選んだ理由


 
下田 アナウンサーという職業を意識し始めたのは、ブラジルで日本人学校に通っていた小学5年生の時です。クラスメイトとサッカーの話を良くしている中で、担任の先生に『お前は本当に良くしゃべる。サッカーが好きなら、アナウンサーでもやったらどうだ?』と言われて。それからは、サッカーのラジオでも意識的に実況を聴くようになりました。
 
ブラジルのサッカー中継は、試合に良く乗って、音で一緒にプレーしているような感覚があります。ポルトガル語が分からなくても、選手名と、右や左、ドリブル、シュートなど、基本的な用語さえ分かれば、起こっていることが目に浮かぶ。ブラジル人のラジオアナウンサーは、そんな実況をします。
 
日本の野球中継も同じですよね。『ピッチャー振りかぶって第一球、投げました!』と動きに合わせるじゃないですか。その感覚が面白いとずっと思っていて、僕が選手の動きに合わせた実況を意識していることのルーツになっています。
 
僕はニッポン放送の“ショーアップ”した野球中継が好きでした。単純にいうと、実況がすごく大げさなんですよね。後から映像で見ると大したライトフライじゃないのに、『ライトバック!なおバック、ずっーーーとバック!塀にかじりついた、獲った!獲りました!』と、微妙に盛って実況するんですよ。それが僕の耳に馴染んだというか、惹かれた部分でもあります。
 
スポーツ実況はうんちくを語る場でもないし、目線を語る場でもない。第一は、起こっていることを描写する仕事です。何も起こっていない時間に様々な情報やネタを紹介するのは良いですが、プレーが動いている時は、それを描写して伝えるのが優先です。恐らくヨーロッパでも南米でも同じだと思いますよ。
 
僕は『知識がある』と言われることがありますが、知識なんてないんですよ。たくさん試合を見ているので、起こっていることを見極める力はあるかもしれないですが、細かいうんちくは持っていない。それよりも起こっていることをダイレクトに音声化するのが重要だと思っていて、そのルーツはブラジルのラジオやニッポン放送にあります。
 
大学は慶應に進んだのですが、そこでは、学園祭の実行委員を務めていました。あれだけ大規模なイベントを作るというのは、なかなか興味深かったです。そこからアナウンサーを目指して就職活動に取り組んだわけですが、採用試験の時は、ブラジルにいたということは他の人にない要素だったのでアピールしていたかな。
 
アナウンサーの採用試験では、必ずプロであるアナウンサーも採用に参加していて、喋り方や音声を聴いて、実況ができる素材かどうかを判断します。なぜ採用にプロであるアナウンサーが介在する必要があるのかというと、アナウンサーで入社すると基本的には局内での異動はほとんどないんです。多くの場合、定年近くまで異動しない。なので、異動させる必要がないくらいの喋り手としてのポテンシャルを持っているかどうかをプロが精査して選ばないといけないからです。
 
就職から定年まで、30~40年仕事を続けると、払うサラリーは数億円になるじゃないですか。その数億円を投資する価値があると見込んで採用したのに、3年くらいで『これはアナウンサーとしては難しいな』と判断されたら、選んだ側の責任になってしまいます。だからこそ、選ぶ側の責任も大きいですし、プロの目を通して採用しないと成立しない職業ではあります。
 
入社した仙台放送では小学生のドッジボールの全国大会を実況することもありました。ドッジボールは意外とルールが複雑だったり、当たらないための集団戦術があったりして、それを踏まえながら中継していました。サッカーでいうと、入社した年に宮城でインターハイがあって、その大会では、ダークホースの東北学院高校がベスト8まで進出し、優勝候補の武南高校に勝ち、ベスト4で準優勝した南宇和高校と対戦することになり『実況つけて取材してこい』と言われて。中継として放送された訳ではないですが、一応、これが初めてのサッカー実況です。
 
サッカーだけでなく、その期間中の速報番組で様々な競技の取材に行きましたが、僕はあくまで実況をやるために局に入ったつもりだったので、どの取材に行く時も『実況をつけてくるから、それをVTRの中で使って下さい』とディレクターに話をして、現場で実況をつけていました。今考えれば新人のくせに偉そうだなと思いますけど、そのくらい実況へのこだわりはありました。
 
フリーになったのは2005年のことです。ベガルタ仙台がJ2に降格した2004年に仙台放送が、スカパー!とJ SPORTSの下請けでJ2の中継を制作したんですね。昇格候補の筆頭だろうって事で先方さんが現地で実況つきで映像制作して欲しいとの意向もあって。ちょうど後輩のアナウンサーがスポーツから離れており、僕しか実況できる人がいなかったこともあって、ホームゲームの大半の実況を担当させてもらいました。
 
実況というのは話せば話すほど上手くなるんですよね。でも、年に1、2回だと「今回こうだったから、次はこうやろう」と反省しても、次の機会が1年後になってしまうので、進化のスピードが遅いんです。Jリーグではホームゲームが2試合ごとに開催されるので、2週間に1回のペースで実況するようになると、どんどんスキルが磨かれていく感覚がありました。
 
その中継の仕事は翌年も依頼を受けたのですが、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立されたこともあって「下請けの制作を引き受ける余裕はない」という判断で、仙台放送が断ったんです。その年は2試合だけサッカー中継の機会はあったものの、これでは数が足りないなと。スキルを磨くなら、もう会社を辞めてフリーになるしかないな、と思いました。
 
下田恒幸氏
 

度重なる「国際舞台」を経験して次なるステージへ


 
下田 J2中継の下請けをした縁で、スカパーとJスポーツのプロデューサーと接点が出来たので、彼らのツテを頼ればキッカケは出来るかもと思い、退社した後に彼らに売り込みました。彼らが僕の実況を高く評価してくれていたのは知っていたので、まぁ、何とかなるかなと(笑)。
 
また当時は、スカパー!がサッカー中継を拡大していく過程で、2006年のドイツW杯も控えていたので、相当なコンテンツ量があり、アナウンサーが不足していたんです。そういう背景もあって、幸いにもJ2の実況から仕事をもらい、W杯関連の仕事もいくつか担当させてもらいました。
 
もう一つ運が良かったのは、2006年には世界バレーと世界バスケも日本で開催されていたということです。その時にJ2中継を担当していたプロデューサーの1人が、その2つの大会も担当していたので、依頼を頂く事になりました。
 
バスケットボールとバレーボールは仙台放送時代に実況の経験があったので、こちら的には願ったりかなったりでしたよね。フリー1年目は、J2、ドイツW杯、世界バレー、世界バスケと経験を積むことができたので、その後は勢いで道が開けていきました。
 

練習場に足を運ばない理由


 
下田 スカパー! がJリーグの独占放送権を取得した2007年は、各クラブをアナウンサーの担当制のような形を取っていました。僕は川崎フロンターレの実況が多かったので、情報収集のために麻生グラウンド(川崎フロンターレの練習場)へよく足を運んでいました。ただ練習場に取材に行けば、移動時間も含めて膨大な労力がかる割には得られる情報がもの凄く多い訳ではないんです。
 
もちろん練習場に行けばチームの空気はつかめるし、選手との接点が持てるというメリットもあります。ただ、練習が2時間あって、家との往復に2時間、選手が練習を終えて出てくるまでに1時間と考えると、最低でも5時間はかかります。なおかつ番記者ではないので、あまり接点のない選手はそこまで話してくれないですし、話してくれたとしても中継の中に入れられるようなネタはそれほど拾えないんですよ。
 
練習をどう取り組んでいるかよりも、今起こっているプレーやチームの流れを知っておいた方が、試合の中で起こっている「ちょっとしたワンプレーの意味」を拾う事が出来る。例えば、川崎フロンターレの大島僚太選手のちょっとしたトラップの意味を拾うには、普段からたくさんの試合を観ていないと分からないですよね。最近は、とんと練習場取材はご無沙汰ですが、練習場の取材に行くよりも、その時間で2~3試合のVTRを観るようにしています。中継へのフィードバックを考えると、その方がより有益だと考えたからです。
 

南アフリカW杯初戦。あの“名口上”の裏側


 
下田 そういった流れで徐々に仕事の規模が大きくなっていって、2010年には南アフリカW杯の実況を務めることになりました。2010年の南アフリカW杯前の岡田JAPANは、直前の東アジアカップでも結果が出ていなくて、中継の中でポジティブなコメントが出来るようなイメージが正直、全く湧かなかったんです。
 
「自分なりの何か」を入れようと考えても全くポジティブな事は浮かばずで……じゃあ、今まで僕が積んできたものを踏まえて、何が伝えられるのかなぁ、と考えました。
 
日本の初戦を担当するのは決まっていたので、徹底的にJ1の試合を観てから臨もう、という事で、毎節7試合くらい観ていたんですね。そして、せっかくの大舞台ですから、用意したコメントでいいから冒頭に何かを言いたいなと。
 
ところが、散々考えて1回紙に書いてみたら、かなりネガティブな内容になってしまって(笑)。代表に入って欲しいけど入らなかった選手もいる、という思いの方が強く出ちゃったんですね。でも、逆に考えれば、あの時選ばれていた選手たちに対し「君たちなら、もっとできるはずだろう」という思いがふつふつとこみ上げてきて。そういった期待や、入れなかった選手の想いも含めて、最終的に考えついたのが、あのフレーズでした。
 

南アフリカW杯初戦・日本対カメルーン戦のイントロダクション
 
「ドーハの悲劇でアジアの列強とのわずかな差を痛感し、
フランスのピッチで世界とはまだ距離があることを実感し、
自国開催の熱狂で世界と互角に渡れると錯覚し、
ドイツで味わった痛烈な敗北感。
 
私たちは4年ごとに世界と向き合い、
悔しさも喜びも糧にしながら、
右肩上がりに邁進してきました。
 
しかし、誤解を恐れずに言えば、
この数年の日本サッカー界と代表チームには、
幾ばくかの閉塞感が漂っています。
 
おそらく、今の閉塞感を打破する特効薬などありませんが、
それでもなお、これからピッチに立つ彼らが、
今できる最大限のことはあると信じます。
 
表面的に『一丸となって戦おう』と声を掛け合うよりも、
Jリーグの舞台で最も輝いている自分を存分に発揮してほしいと思います。
肩に力を入れて『世界を驚かしてやる』と宣言するよりも、
Jリーグで輝き、だからこそ海外のクラブが投資しようと感じた自分の魅力を
100%出し尽くしてほしいと思います。
それがすなわち一丸であり、それがすなわち全力です。
 
2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ。グループEの初戦。
日本にとっての4回目のW杯。
相手は『不屈のライオン』の異名をとるアフリカの雄、カメルーンです」

 
放送席に座って、そのコメントを読むか?それとも全く読まずに現場の空気を優先したアドリブで捌くか?本番の数分前まで悩みました。でも、代表戦の中継をフリーアナウンサーが務める事なんてめったにないし、自分なりに積んだものがあってこそのコメントなので、最終的には読もうと。
 
一応、隣のディレクターさんに「冒頭でイントロを詠みます。でも、かなり長いんでご了承を」と断りを入れてね(笑)。あのコメントは決してかっこつけて言ったものでもなく、そこまでの準備期間の積み上げから、にじみ出てきた言葉です。何かを伝えたいという想いがあって、今まで自分の目で見てきたものを文章化したら、ああなったという感じです。
 

伝えるものの背景を考えるということ

 
下田 どのスポーツの世界で働く人にも共通するのは、その競技を好きだということ。これは当たり前です。人によって濃度は異なりますが、徹底的に好きであってほしいです。スポーツメディアはライターやディレクターなど、いろいろな職種がありますが、アナウンサーは音声を通して最前線で、物事をリアルタイムに伝える存在です。その背後には選手の家族や親族が必ずいて、そう考えると軽はずみな中継はできないですし、それはアマチュアスポーツでも変わりません。
 
チャンピオンズリーグの決勝であろうと、大学バレーの1試合であろうと熱量は同じでなきゃダメです。例えば、大学バレーなら、選手の晴れ舞台が中継されることを楽しみにしている家族、親族もいる訳ですから。その人たちにも『良い中継だった』と思わせられるかどうかが重要です。
 
実況する側の経験が少なかったからあまり質の高い中継になりませんでした、では済まない。コンテンツがプロかアマかによって熱量や質が変わっても駄目ですし、送出されるメディアが地上波かCSかによって熱量や質が変わってもダメです。そういった背景を考えた上で仕事ができる人が、実況の世界ではより信頼されるんじゃないのかなと思います。
 
下田恒幸(しもだ・つねゆき)
1967年8月18日、東京都・町田市出身のフリーアナウンサー。慶應義塾大学経済部卒業。仙台放送で15年勤務した後、2005年に独立。FIFAワールドカップ、UEFAチャンピオンズリーグ決勝など数々の大舞台での実況を任されるなど、多くの信頼を獲得している。