日本は恵まれている。元Jリーガーが振り返る南米での選手生活

2015.08.31 森 大樹

三吉聖王

 

今回は海外プロサッカー選手・三吉聖王選手にお話を伺います。三吉選手は国士舘高校から亜細亜大学に進学、卒業後は単身南米に渡り、名門・エストゥディアンテスのサテライトなどを経て、ウルグアイ2部のボストン・リーベルに加入。2012年には逆輸入選手としてJリーグ・清水エスパルスでもプレーし、昨シーズンはウルグアイ2部・ロチャFCでご活躍されました。ポジションはDF(ディフェンダー)です。

 

カズや中田ヒデに影響を受け、海外挑戦へ

 

-まずは三吉選手のサッカーの経歴を教えてください。

小学2年生の時にサッカーを始めました。近所のお父さんがボランティアで指導しているような地元・大磯の地域のサッカーチームで始めました。

中学校ではサッカー部に所属していましたが、11人集まるのがやっとのチームでした。中学3年の夏の最後の大会が終わった後は、小学校の時の知り合いが立ち上げていた中学生向けのチームで卒業までの半年間、通って練習していました。するとそのチームにたまたま国士舘高校のセレクションの話が来て、受けたところ、合格したので進学することにしました。

 

-国士舘高校といえばスポーツの名門校ですね。

でも僕自身は小学校、中学校まで試合で1回も勝ったことがなかったんです。特に小学生の時は大磯町にもう1つあったチームにうまい選手が集まっていた上に、僕のチームは週2回・土日しか練習しなかったので、弱くて練習試合も含めて本当に勝った記憶がないです。

 

-今は身長が180cmある三吉さんですが、当時から大きかったのでしょうか。

小さい時から大きかったですね。身長は中学3年の頃から伸びていません(笑)

 

-ちなみに現在はDF(ディフェンダー)としてご活躍されていますが、ずっと同じポジションだったのでしょうか。

DFは高校からです。それまではFW(フォワード)でした。高校のセレクションの時に、1次選考が通った時点で監督から中盤でやってみるように指示されて、2次選考はMF(ミッドフィルダー)で受けました。2次選考も無事に通過して、3次選考に進む時に今度はDFでやってみるように言われました。最終的にDFとしてだったら獲るという話だったので、転向することにしました。

たまたま国士舘高校は僕がいた3年間は全て、選手権(全国高校サッカー選手権大会)に出場していますが、当時色々と考えるところもあり、そのまま国士舘大学に進学せず、他の大学の練習会に参加し亜細亜大学に行くことを決めました。

 

-大学卒業後は南米に渡っていますが、いろいろな選択肢がある中でなぜその道を選んだのでしょうか。

元々海外でやりたいという気持ちはありました。僕の世代はカズ(三浦知良選手)さんが海外でプレーしていたのを見ていましたし、大磯の近くの平塚(現・湘南ベルマーレ)にいた中田ヒデ(英寿)さんも海外で活躍していて、自分も行きたいと思っていたんです。

僕もプロを目指したいと思って、学生時代にJリーグやJFLクラブのセレクションを受けたりもしましたが、一切声がかかりませんでした。でもどこでもいいからサッカーを続けたくて、大学卒業後は海外に行くことにしました。

実は大学1年の時に当時サッカー部の監督だった(※)坂下監督と話して、ドイツでプレーしていた方の話なども聞かせてもらっていたので、海外に挑戦したいと相談したところ、代理人を紹介してもらいました。その方には今も代理人をしてもらっています。それでアルゼンチンなら話があるということで行くことを決めました。

坂下監督:坂下博之氏。元サッカー日本代表で主にフジタ工業(湘南ベルマーレの前身)でプレー。1991~2004年に亜細亜大学監督、2007~2012年に産業能率大学監督を務めた。

 

-海外で活躍する選手に刺激を受ける人はいると思いますが、自分も行こうと決断できる選手は多くないと思います。

前にも高校サッカーのパンフレットにサッカー留学の案内が挟まっていたのを見て、アルゼンチンに行きたいと考えたことはありました。

高校時代の僕はスポーツ推薦で入ったにもかかわらず、本当に下手でした。僕らの代は約120人が入学して、その中にスポーツクラスのサッカー部員は14人いました。同じクラスの同級生はサッカー部でもAかBチームにいる中で僕は高校2年までBかCチームにしか入れなかったんです。それで留学を考えたりしたのですが、結局その後Aチームに入れたので、そのまま続けることにしました。

 

-それでも中学時代の三吉さんに光るものがあったから高校側は獲得したわけですよね。

卒業後に高校のサッカー部の監督になぜ獲ってくれたのか聞いたことがあります。僕はセレクションの時にセットプレーで毎試合得点を決めていました。その身体能力だけを買ってくれて、あとは高校3年間でどこまでできるか、と考えていたそうです。

最終的にAチームの遠征に呼ばれたのも、怪我人が出たりしたからなので、偶然です(笑)

 

南米の地ではビッグネームともプレー

 

三吉聖王

 

-大学卒業後に海外に渡り、2010年からはウルグアイでプレーをされていますが、それはどういった経緯があったのでしょうか。

一番初めに南米で行ったチームがアルゼンチンの(※)エストゥディアンテスというビッグクラブのサテライト(サブチーム)で、そこでプレーをしながら契約のチャンスを探していました。当時の監督はたまたま(※)ネストル・センシーニでした。全然アルゼンチンのことについて分かっていなかったので、名前は聞いたことある人だな、くらいにしか思っていませんでしたけど(笑)

サテライトの試合は大抵、トップチームの試合と同じ日にやります。しかし、サテライトの方で選手登録をしてしまうとトップチームに怪我人などが出て、昇格した場合、下(サテライト)の試合には出られなくなってしまいます。

僕はまだサテライトに選手登録をしていなかったので、運良くアルゼンチンに行ってから2ヶ月ほどでトップチームの練習に参加できるようになりました。当時チームには(※)ベロンなどもいたので、アルゼンチンでの選手生活は順風満帆だと思っていましたね!

エストゥディアンテス:アルゼンチンのプロサッカークラブ。国内リーグ優勝5回、南米クラブ王者を決める大会、コパ・リベルタドーレス優勝4回を誇る名門。

ネストル・センシーニ:元サッカーアルゼンチン代表DF。1987~2000年まで代表で活躍し、3大会連続W杯出場を経験。

ベロン:元サッカーアルゼンチン代表MF。1996~2010年まで代表で活躍。エストゥディアンテスのユース出身で、現在はクラブ会長を務める。

 

-確かにすごいビッグネームばかりですね!

でも僕はその時既に23歳で、ユースから上がってくる10代の若い選手もいる中で年齢的に契約するのは難しいという話になってしまいました。それでチームを離れることになって、一時帰国し、Jリーグクラブの練習参加もさせてもらいましたが、契約には至りませんでした。

海外に出たものの、僕にはまだアマチュア経験しかなく、チームへ練習参加に行ってもしっかり見てもらえないと感じたので、「プロ」という経歴を作る必要があると考え、またアルゼンチンへ渡ることにしました。

いくつかアルゼンチンのクラブに練習参加をさせてもらって、ロサリオという街にある、当時4部だったチームにカップ戦だけという形で契約しました。またそこでいろいろありましたね。

 

-その「いろいろ」の部分をぜひ聞かせてください。

練習試合をしている時にゴール前でボールをクリアする際に、相手選手の膝が入って骨折してしまったんです。それで現地で手術したのですが、人生で初めてのことだったので、怖かったです。

 

-日本で手術するよりも怖いですね。

はい。本当に怖かったです。しかもそうなってしまうと試合に出ていないことを理由にクラブが給料を払ってくれません。結局リハビリをして復帰しても、選手として相手にしてくれなくなってしまって、困っていたところ、たまたま知り合いからエクアドルのチームが興味を示しているという話をもらったので、行きました。でも実はそのクラブは経営破綻していて、0円契約なら欲しいという話でした。現地に着いた時からおかしいとは思っていたんです。練習が終わると選手が代表と給与の支払いについて会議を始めるんですよ(笑)

 

-日本では考えられないですね。

日本は本当に恵まれていると思います。地元選手で家があったりするなら0円でもできるかもしれませんが、外国人選手として行くのは無理なので、アルゼンチンに戻り、元のクラブにお願いをして練習だけ参加させてもらうことになりました。

 

-でも給与が支払われていなければ金銭的に厳しいですよね。

エクアドルに行く渡航費にもお金がかかってしまって、アルゼンチンで友達と一緒に住んでいた家の家賃も払えない状況になってしまいました。それが3月のことで、次の移籍のマーケットが開く6月までは何とか今あるお金で生活しなければなりませんでした。食べ物は何もかかっていないパスタを食べていましたし、家は街の貧乏学生が住む寮に引っ越しましたが、そこがまた本当に凄い場所でした。

 

-どのような部屋だったのでしょうか。

部屋はまだいいんです。でもリビングには屋根がないんですよ(笑)そこに、地方から出てきている学生と3人部屋で生活をしていました。

 

-相当過酷な生活を送られていたのですね。

そしてある日、元のクラブでの練習試合後にアルゼンチン人に声をかけられました。たまたまその人はウルグアイ2部、ボストン・リーベルというクラブのオーナーで、7月になれば向こうのマーケットが開くから来てみないか、という話を頂きました。

 

-三吉さんが声をかけて頂けた理由はどの辺りにあったのでしょうか。

日本人はサッカーができないという先入観を向こうの人は持っていますが、今考えるともしかしたらそれが逆によかったのもかもしれません。ある程度できればそれなりに評価してもらえるので、それで声をかけてくれたのだと思います。そのオーナーにぜひお願いします、といって別れました。

 

-いよいよその過酷な環境から抜け出すきっかけを掴んだわけですね!

はい。ただその時は全くお金無かったんです。なので、1~2週間後には電話をして、家賃も払えないし、食べる物もないから日本へ帰るかもしれないという話をしました。オーナーから、それなら7月の移籍マーケットが開くまではクラブの持ち家の部屋と食事も提供するし、うちでの練習参加も許可するからこちらに来てもいいと言ってもらうことができたんです。

それですぐに一番安い移動手段であるバスでウルグアイに行くことにしました。アルゼンチンからウルグアイまで陸続きではありますが、だいたい12時間くらいかかります。それで向こうのクラブに3ヶ月間は養ってもらって、クラブと契約し、7月から無事にプレーすることができるようになりました。

 

-運がいいのか悪いのかよく分かりませんね(笑)

サッカーの神様がいるならば、嫌われていると思います(笑)ウルグアイに行くまでいたロサリオのチームでも怪我さえなければもっとできたかもしれません。

 

-ウルグアイのボストン・リーベルではどのくらい給料をもらえるものなのでしょうか。

1年目はウルグアイ2部の選手の最低賃金で、だいたい月600ドルくらいです。交通費、食費、家賃はかかりません。貯金はできませんが、生活ができて、お金をもらえるだけで僕はよかったです。

でも入った時点では5番目のセンターバックという扱いで、選手としての状況は厳しかったです。ユース上がりの選手と競っていて、練習試合が2試合組まれていても、最後の10分くらいしか出してもらえませんでした。そのシーズンはオーナーが昇格を目指すためにお金をかけて選手を集めており、ベテラン選手もいる中で今年初めてウルグアイに来た日本人の、しかもセンターバックの選手なんて相手にしてもらえないんです。

 

三吉聖王

 

-一難去ってまた一難という感じですね。そこからレギュラーを掴み取ったきっかけを教えてください。

チームが開幕戦で大敗したんです。結局選手を集めてもそれぞれの主張が強くて噛み合わないわけです。それでオーナーが次は若手を起用するという話になり、2試合目は本職ではないサイドバックですが、先発出場することができました。正直本当はセンターバックで使って欲しかったですね。でも試合開始10分ほどでうちのチームのセンターバックが退場したんですよ(笑)

 

-ということはフォーメーションに変更があったということですね。

はい、3バックにフォーメーションが変わったんです。これでアピールできると思いました。結局その試合でのチームのパフォーマンスがよかったので、僕に対する周囲の対応も大きく変わりました。そして次の試合ではセンターバックで起用してもらえた上に、セットプレーで点を取ることができて、それ以降はずっと出続けることになります。

 

-しっかりと2戦目でアピールが出来て、その後もチームに貢献出来たんですね。

そうだと思います。ただ、最後の1部昇格を懸けたプレーオフはPK戦までもつれ込んだのですが、僕が外したのもあって負けています(笑)

 

三吉聖王

 

サッカーを続けることを最優先に

 

-波乱万丈なサッカー人生ですが、その後はJリーグ・清水エスパルスに加入されています。

シーズンが終わって、僕はウルグアイ1部でやりたいと考えていたのですが、ボストン・リーベルから残留してほしいということで破格のオファーがありました。それで迷っていたところ、休みの間日本で過ごせるように航空券を出すから、契約してしまおうとオーナーから言われました。

 

-心に訴えてきたわけですね。

それまで日本に全然帰っていなかったのを知っていたのでしょう。ずるいです(笑)その契約は3年間でしたが、どうしても日本に帰りたかったので、サインをして、帰国しました。ただ、日本での休みを終えて、ウルグアイに戻ったところ、チームはメンバーの大半が変わってしまいました。

 

-人間関係、戦術等々全て一からといったところでしょうか。

どちらかというと人間関係が厳しかったですね。チーム内も荒れてしまっていて、僕はまだ契約が残っているにもかかわらず、そこにいるのが嫌になってしまいました。試合にも出たり、出なかったりという中でオーナーが撤退するという話まで出ていたんです。

 

-選手や関わっている方々がモチベーションの上がらない状態が続いていたんですね。

はい。既に給与も遅れているような状態で、オーナーにもうチームにいたくない旨を伝えました。FIFAの規約で、給与が3ヶ月支払われない場合、契約を破棄できるのですが、3ヶ月目に入りそうになると1ヶ月分払う、といったごまかしのようなことをされていたというのもあります。

その状況を代理人に話したところ、センターバックを探しているクラブがいくつかあるということで、僕は日本に戻ることにしました。このまま給与も支払われず、来年もどうなるか分からないままチームに残るよりも、練習参加からでもいいから日本で所属先を探した方がいいと判断したわけです。

 

-しかし、まだ契約残っているという問題があります。

そうなんです。仮に新しい所属先が決まったとしても違約金が発生してしまうので、何とか契約破棄できないか交渉することになりました。交渉は難航したのですが、結局支払っていない2ヶ月分の給与をなかったことにする代わりに契約破棄するという形になったんです。

それで日本に帰国して、一番初めに話をくれたエスパルスに入団することになりました。

 

三吉聖王

 

-エスパルス加入後、すぐに出場されていますね。

そうですね。選手登録が済んでから1試合目でした。試合で使ってもらうことはおろか、遠征のメンバーにすら入っていないと思っていたので、驚きました。

清水のサポーターは独特で、今まで見た中でも一番すごかったと思います。去年も怪我で一時帰国した時に観に行きましたが、お年寄りから子供までが楽しめるスタジアムになっています。南米はスタジアムが危険だと言われていたりするので、やはり子供やお年寄りが行くことは難しいんです。でも清水の試合に年齢などは関係なく、アットホームな雰囲気で、特別なものだと思いました。

 

-話していても、その雰囲気が本当に好きだったということが伝わります。

いや、本当に特別だと思っています。あの雰囲気、感覚はエスパルスに所属しないと分からないと思いますが、好きでした。

 

-そのエスパルスも間もなくして退団することになり、再びウルグアイに渡っています。辛い思いをしたにもかかわらず、なぜまた戻ろうと考えたのでしょうか。

サッカーが好きだからでしょうね。その時も引退という選択肢はなくて、サッカーを続けられる場所はどこなのか、ということを考えていましたし、南米に行ってからはサッカーをしていればどこにでも住めると感じていました。向こうは言葉が通じなくてもサッカー選手であれば間口が開かれています。エスパルスを半年で退団して、国内はもう厳しいという話を代理人から聞いたので、それならまた南米に行こうと決めました。僕にとってはサッカーができなくなることが一番嫌だったからです。

 

サッカーを続ける、というのが三吉さんの中での最優先だったんですね。

もちろんです。なので、古巣ボストン・リーベルと話をして、また最低賃金に戻る、かつ家と食事もなしという条件で再加入することにしました(笑)既にシーズンは開幕していて、いい条件の選手は決まっているため、給与を出せる状況ではなかったということです。でも僕はサッカーができるならそれでいい!と思ったんです。ただ本当に前とはチームの環境は変わってしまっていて、例えばクラブハウスから練習場までの送迎バスがなくなっていたり、ユースは使っているボールが酷かったりしていました。それでも、楽しくプレーできました。

 

三吉聖王