学生アスリートのために。KULIAランニングクラブ代表の想い

2015.08.25 森 大樹

田中康二

 

今回はKULIAランニングクラブ代表、田中康二さんのインタビューです。高校では全国高校駅伝大会に広島県代表として4区を走られ、大学では箱根駅伝を目指して競技をされていたアスリート。壮絶な競技人生を歩まれてきた田中さんに走ることの魅力についてお話いただきました。

 

学生時代に経験した波瀾万丈の競技生活

 

–  田中さんは「走る」ことについていつ頃から興味があったのでしょうか。

幼稚園の頃から走ることが好きで、思い入れが強くありました。運動会の時に、格好いい靴ならライバルに勝てると思い、家に置かれていた親の靴を履いて走ったことを今でも覚えています。当然、親の靴だったのでスタートした瞬間に転倒してしまい、負けて大泣きしました(笑)

本格的に陸上競技を始めたのは小学2年生の時です。地元の陸上教室に通っていた2つ上の兄の影響を受け、自分も行き始めたのがきっかけです。始めてから小学3年生までは校内のマラソン大会も短距離走も学年で1番でした。でも、4年生になると校内マラソンで1番を取れても、短距離走では1番を取れなくなりました。その時から自分は長距離の方が向いていると思い、そちらで勝負していこうと決めました。その後も中学、高校、大学と波瀾万丈の競技生活でした。

 

–  その波瀾万丈な競技生活について聞かせてください。

僕が進学した中学は地元でも陸上部が弱い学校でした。でも自分は小学生の時、校内のマラソン大会で負けたことがなかったわけですから、他校の生徒にも勝てると思っていました。そのままの気持ちで中学生の大会に3000m走の選手として出場したのですが、結果は同世代のトップに1分も差をつけられる散々なものでした。ショックを受けるとともに自分が井の中の蛙だったことに気づきました。その後は練習を重ねて、3年時には全国大会の標準記録(出場資格を得るために必要な記録)にあと13秒に迫る、9分20秒まで記録も伸びました。

しかし、ここで事件が起きました。3年生と2年生が揉めて2年生の部員が全員辞めてしまい、つられて1年生も練習に来なくなってしまいました。同学年の3年生すら練習の邪魔をしてくるなど雰囲気も最悪で、完全にチームは崩壊してしまいました。このままではダメだと思い、顧問の先生にお願いして話し合う場を作ってもらい、何とかもう一度駅伝大会を目指して頑張ろう!ということになって、10位以内入賞を目標に練習し始めました。辞めた2年生は戻ってくれませんでしたが、他の3年生に駅伝に出てくれる人が現れて、出場することができたんです。自分は念願の1区を走らせてもらい、11位でタスキを渡すことができました。思った以上の力が出せたので、嬉しくて涙が出てきました。最終結果は27位で目標には届きませんでしたが、先生から「目標には届かなかったけど、俺からの優勝メダルや!」と手作りのメダルをもらいました。もらった瞬間全員大号泣しました。

 

–  その先生がいたからこそ、そこまで部活を立て直すことができたわけですね。

先生の力はすごく大きいと感じましたし、感謝しています。休みの日も試走に連れて行ってくれたり、陸上の経験がない中でも勉強してメニューを組んでくれたりしていました。競技を通じて感動することは本当に多いですね。

 

田中康二

 

–  高校でもそのような出来事があったのでしょうか。

高校では、中学の実績が認めてもらえて陸上の強豪校、広島の如水館高校に推薦で入学しましたが、怪我で走れない苦しさと、全国高校駅伝大会出場という喜びのどちらも味わいました。練習量も中学とは異なり、怪我との戦いで走れない時期が長く、先輩から厳しい言葉をかけられることもありました。それでも諦めずにリハビリと練習を繰り返し、2年生の時に広島県大会で優勝し、全国高校駅伝大会に出場しました。怪我の時期を乗り越え、結果を出せたことで、諦めない大切さを感じました。高校では怪我の辛さ、負ける悔しさ、勝った喜びなど、いろいろ経験することができました。

 

–  大学でも陸上を続けられたのでしょうか。

中央学院大学にスポーツ推薦で入学しました。実はここから一番苦しい思いをすることになります。高校の終わりから「かっくん病」という原因不明の脚の力が急に抜ける長距離選手特有の症状になってしまいました。

結局大学でも症状は変わらず、練習にもついていけなくなってしまいました。周りからその症状は見えないので、気合が足りないように思われて、先輩からはしっかり走れと厳しい言葉をかけられました。元々厳しい環境下で辞めていく仲間もいる中で、僕も精神的に弱くなり、だんだん競技が楽しくなくなってきました。

それで大学の先生に脚に違和感があると相談すると「辞書に違和感という言葉はない!」と言われてしまいました。そんなはずがあるわけない、と思って調べてみると本当に違和感という言葉が当時は辞書に載っていなくてびっくりしました(笑)

結果を出す自信はあったんです。でもかっくん病の治し方も分からないままですし、本当に苦しい時期でした。それを気にし過ぎるあまり、今度はシンスプリントを痛めてしまって、1年の終わりには部活を辞めたいと思うようになっていました。2年になっても結果が出せない状況が続き、ついに大学の監督に辞めたいと相談したところ、「辞めてもいいけど、人生の負け犬になるぞ」と言われました。てっきり優しい言葉をもらえると思いきや、ものすごく腹が立つことを言われ、悔しくてもう一度だけ死ぬ気でやってやる!と火がつきました。

 

–  高校の監督も厳しい方ですね。結果は出せたのでしょうか。

死ぬ気でやれば大概のことは何とかなるとその時に初めて感じましたね。それまで悩んでいた怪我もかっくん病も1週間後には走れるくらいまで回復しました。もちろん練習不足もあって、最初は練習にも付いていけませんでしたが、怒りや悔しさ、憎しみなど様々な感情が入り混じった状態で走っていたので気持ちだけは誰にも負けていなかったです。最初はBチームの一番後ろの方だったのが徐々に先頭集団に付いていけるようになりました。

 

–  監督のその厳しい言葉が結果的には転機になったということですね。

大学では箱根駅伝を走ることが目標だったので、まずはAチームの合宿に参加できるように必死に練習してアピールしました。結果的に2年生のときに合宿に連れて行ってもらい、同学年の中では唯一最後まで残ることができました。しかし、箱根駅伝のエントリーメンバーには選んでもらえませんでした。実力的にはメンバーに入ってもおかしくない程の力を付けられていたのですが、当時の自分は情緒不安定なところもあり、性格面やチームメイトとの関係も含めて相対的に評価されていたのかもしれません。その後も何とか結果を出してメンバーに選ばれようと、努力してエントリーメンバーにまでは選ばれましたが、最終的なメンバーには選出されませんでした。ただ、どん底からでも、死ぬ気で練習すれば結果を残せることを実感できましたし、そこには感動もありました。

その後は腰、肩関節、股関節を痛めて脚も腕も上がらなくなり、結局3年生の途中で部活を辞めました。怪我も多くその度に復活してきていましたが、この時に完全に心が折れてしまったんです。今でも後悔しています。

 

スポーツを通して人を幸せにしたい

 

田中康二

 

–  様々な経験を学生時代にしてきた田中さんがランニングコーチになろうと思ったきっかけを教えてください。

最初から今の仕事をしようと考えていたわけではありませんでした。本当はそのまま実業団の選手になるつもりでした。でも競技を引退して働くことを意識し始めてから、漠然とスポーツを通して人を幸せにしたいと思っていました。しかし、いざ就職活動に入るとなかなか決まらず、結局就職浪人をした後、愛知県の商社に入ったのですが、やはり走りたいという欲がどんどん出てきて、このままスポーツに関われないのは嫌だと思って辞表を出しました。正直なところランニングコーチになろうと思ったのは、自分の走ることへの欲求を満たしたかったからなのかもしれません。それからトレーナーの資格をとってランニングコーチをしています。

 

–  選手から教える側に回った時はどのような気持ちでしたか。

当時は好きなことを仕事にする厳しさを分かっていませんでした。好きなことを提供する側に回れば、自分がそれをできなくなるということに気づき、最初は戸惑いました。今は指導すること、サポートすることに全力を注いで、ランニングを通じて何かを変える力を持ちたいと思っています。

私はランニングから多くのことを学びました。救われたことも、裏切られたこともありました。私には実績も実力もありませんが、これまでずっと続けてきたランニングで何かを世の中に返していくのが使命だと思っています。

 

–  田中さんと同じように競技を続けるか悩んでいる学生アスリートも多いと思うので、アドバイスをお願いします。

私のようにプロや実業団選手を目指していて、なれなかった人はたくさんいます。でもそれまでの頑張りを閉ざしてしまうのではなく、社会に出てからもそれが必ず活かせるチャンスがあると考えてください。僕は人生で必要なことは競技の中で学べると思っていますし、競技を諦めることもないと思っています。

 

–  今後の目標を教えてください。

自分も就職活動の時はやりたいことを見つけるのに時間がかかって辛い思いをしたので、ランニングの指導だけではなく、学生アスリートのために何かしたいと考えていて、できることを模索しています。今は経営者向けのランニング会もしているので、そこで学生が経営者の方と一緒に走り、話を聞けるようにすることで、人生観を変えるきっかけにしてほしいと思っています。学生時代は競技をしていると、それだけに集中してしまうので、学生のうちに社会に出てから役立つ知識やノウハウを学べる場があってもいいのではと考えています。スポーツを本気でやってきた学生が社会に出ても活躍して、将来を担う人になっていって欲しいです。

 

一度は襷の重みを感じてみて欲しい

 

–  田中さんは個人種目と駅伝、両方経験されていますが、それぞれにどういった魅力があると思いますか。

個人で走る時は自分と向き合う競技だと思っています。特にマラソンは長時間なので、向き合い続けなければなりませんし、自分との勝負でもあるので、そこに面白さがあります。

駅伝は、チームのことを思って走るところが、魅力だと思います。そこが個人で走る時との違いで、良さでもあると思います。チームの為にという思いが、襷(たすき)にこもり、連鎖していきます。その思いが伝わるのか、不思議なことに襷をかけて走っていると思いがけない力が出せる時があります。また、初めて走る方や市民ランナーの方でも襷を繋ぐことで、より楽しんで走れると思いますし、仲間を作ることも、絆を深めることも出来ると思います。他の団体スポーツと違う魅力は、チームスポーツでありながらも個々の結果が数字に現れるので個人の努力も目に見えるところだと思います。ぜひ一度は襷の重みを感じてみて欲しいです。

 

田中康二

 

–  ランニングコーチとしての喜びや楽しみを教えていただけますか。

ランニングを通して、その人の人生観を変えるお手伝いをすることができるところです。年齢や競技力に関係なく、努力を続けて目標を達成した時、またはそれまでの過程に、人それぞれのドラマがあります。

自分が教えている人が結果を出せないときにはすごく悩みますが、私も人生をかけてやってきていることなので、しっかり結果に繋げられるように指導をしたいですし、今後は記録だけでなく、ランニングを通して得られるものをいろいろな形で提供できるような仕組みも作っていきたいと思います。ランニングを通して社会貢献できることが最高ですね。

 

–  田中さんご自身の魅力を教えてください。

競技を通して良いことだけではなく、苦しいことも経験しているところだと思います。指導する立場になり、今までの経験が活きていると感じます。また、強い選手だとゆっくり人と合わせて走れなかったりしますが、どんなペースでも苦にならずに走れることも強みだと思っています。あとはあらゆる怪我を経験してきたことで怪我をしにくい走り方を覚えることができました。

 

–  最後に一言お願い致します。

運営しているランニングクラブの名前はKULIAといって、ハワイ語で「諦めない」という意味です。多くの方に簡単に諦めてほしくないという気持ちをこめました。自分は今まで競技を通して「諦めない」ことの大切さを学んだので、それを伝えたいです。必死になれば結果は出せると思いますし、自分だけで諦めることを決めずに、周りの人に相談することも大切だと思います。

社会人になってからなかなか時間が作れなくて競技をしない人も多いですが、お腹が出てしまってもうスポーツはできないと諦めることはありません。私はそのために今を変えよう!挑戦してみよう!と思ってもらえるように皆さんの後押しをしていきたいです。

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