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10代に患った病気や乱闘寸前の試合。家本政明はなぜ「審判」を志したのか

2018.01.31 / AZrena編集部

家本政明氏

 

「クラブ経営は何年後かに戻ってきてやることもできるけど、審判はもし今手放してしまったら、何年後かに戻ってきても同じようにやることはできない。それならば審判を選んで、できるだけ高く広い世界を見にいってみようと決意しました」(サッカープロフェッショナルレフェリー 家本政明)

 

サッカーの試合を構成する上で、重要な役割を担う「審判」。その中でも主審は、サッカーファンからも名前が認知されるほどの影響力を持っています。

 

2005年からプロフェッショナルレフェリー・国際審判員(2016年に勇退)務める家本政明さんは、サッカーの聖地・ウェンブリースタジアムで日本人初となる主審を務めるなど、日本を代表する審判として活躍を続けてきました。

 

そんな家本さんが審判を志したきっかけと、プロに至るまでの経緯に迫りました。

 

大学から審判の道を歩む

サッカーを始めたのは小学3年生の時です。野球もやりながら並行してプレーしていたのですが、幸いにもチームが全国大会に出場したり、選抜に入って全国を経験したりと、トップレベルを経験することができました。

 

当時、野球は上のレベルに進んでも地区までで終わってしまいましたが、サッカーはチームが強ければ全国大会、個人で上手ければ選抜として全国で戦うことができました。当時はサッカーよりも野球が圧倒的に人気で、サッカーがテレビでやることもほぼなかったのですが、その成功体験をきっかけに、どんどんサッカーにのめり込んでいきました。

 

小学生の時はセンターフォワードか中盤のポジションでプレーしていました。身長が大きいほうだったので、身体能力を武器にしていましたね。中学からはスイーパー(ディフェンスの最後尾)でプレーして、いかにコーチングで仲間を動かしてチームをまとめて勝利を手にするかというところを楽しんでいました。高校ではGK以外全てのポジションをやりました。

 

ただ、高校1年の時から、夏場に激しい運動をすると吐血するようになったんです。年齢を重ね、練習が激しくなるにつれて、吐血の量も増えていきました。病院で検査をしたところ、「激しい運動をするには身体が耐えられない」と言われました。

 

身体がそんな状態だったので、試合には半分しか出られなかったり、まるまる出られなかったりと、残念ながら十分にプレーをすることはできませんでした。

 

サッカーを続けられる身体ではないこともあり、高校卒業後の進路は悩みました。学生のうちにプレーヤーからコーチに転身することにはピンと来なかったですし、サッカーをやめて他のスポーツに関わることも考えられませんでした。その時にたまたま、高校のBチームやCチームの試合で、監督の指示で審判をやっていたことを思い出したんです。

 

当時は素人ながら、両チームがどういう動きをしているのか、選手が何を考えているのかを見ながら審判をやることに面白みを感じていました。その感覚は、中学時代にスイーパーでプレーしていた時と似ていましたね。

 

「ボールを蹴る以外にも面白い世界はあるんだな」と。

 

高校卒業後はやはりプレーすることを諦めきれず、同志社大学に進学してサッカー部に入部したのですが、結局ドクターストップとなり、続けることができなくなりました。学生コーチや主務として部に残る選択肢はあったのですが、先の経験もあったので、監督には「審判をやりたい」と伝えました。それからは審判資格を取得して学連の試合を担当したり、大学の練習試合や紅白戦で審判をやらせてもらいながら、審判技術を磨きました。

 

関西の新人戦で起きた“大事件”

大学から本格的に審判を始め、在学中に4級から2級までの資格を取得しました。大学1年から関西学生リーグ、2年からは京都の社会人リーグ、3年からは関西の社会人リーグ等で笛を吹き、練習試合や公式戦を合わせて、年間100試合以上は担当しました。大学4年時に1級審判員の候補にもなることができ、社会人1年目で正式に1級審判員になりました。

 

正直に言うと始めたての頃は、審判がこんなに批判されるめちゃくちゃ大変なものだとは全く思いませんでした。知っていたら、やっていなかったかもしれませんね(笑)。そんな中、大学3年の時に担当した、関西の新人戦で起きたあの出来事は、その後の僕の審判人生を大きく変えるものになりました。僕の判定に対してある選手が激しく異議を示してきたので、イエローカードを出したんです。その後、その選手は違うシーンで相手に危険なタックルをして、イエローカード2枚で退場になりました。

 

それをきっかけに、退場者が出たチームは荒れ始めて、相手チームと僕に対して怒りを露わにしてきました。ある時、そのチームが反則を受けたのでFKを与えたのですが、至近距離から意図的に強いボールを僕に向かって蹴ってきたんです。当然一発退場の判定を下しましたが、去り際に「お前、タダで帰れると思うなよ」と暴言を吐いてきました。試合後、協会にはマッチレポートを提出しましたが、僕にボールを蹴ったその選手は、1年間の出場停止となりました。

 

1年後、その選手と偶然にも試合会場で再会したのですが、彼は僕を見つけるなりすぐさま走り寄って来て、「あの出来事がきっかけで、僕は人として成長できましたし、サッカーにも真剣に向き合えるようになりました。本当に感謝しています」ということを言ってきました。その選手は後にJリーガーとして活躍しました。大学の新人戦でこのような出来事は滅多に起きませんが、結果的にはその選手、チームが変わるきっかけになったようです。それは嬉しかったです。

 

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大学卒業後、京都パープルサンガに入社

大学卒業後は、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)に勤めながら、審判を続けていました。当時はJリーグが各クラブで一人は審判を育てるという意向を持っており、多くのクラブが審判を抱えていたんです。そんな背景もあって、大学3年生の時にJクラブから声が掛かり始め、京都からは大学4年の秋に話がありましたが、京都という土地柄が好きだったこともあり、入社を決めました。

 

実は僕は病気もありましたが怪我も多かったので、将来は身体のメンテナンスに関わる仕事をしたいと考えていました。なので、理学療法士の道に進もうと考えて、専門学校に行く準備をしていたんです。それでも巡り巡って同志社大学の経済学部に入学しましたが、結局病気でプレーできなくなり、「これからどうするんだ?」「本当は何がしたいんだ?」と自分に問いかけ、すぐに新たなチャレンジを始めることにしました。

 

何かを始めるにしても資金が全くなかったので、授業がない時や週末にアルバイトをしたり、審判でもらえる日当を貯金して数百万円を捻出し、(※)カイロプラクティックの学校に通い始めました。

 

※カイロプラクティック・・・筋骨格系の問題から生ずるさまざまな症状を、背骨の歪みを取り除くことによって快復に導くヘルスケア。その有効性はWHO(世界保健機関)が認めており、アメリカなどでは資格を取得すれば医療従事者として認定される。日本では法制化されておらず、資格が存在しないため、基準を満たす技術を持った従事者は少ない。

 

当時は大学に専門学校、バイトに審判活動とかなり忙しかったんですけど、無事に大学もカイロプラクティックの学校も卒業することができました。卒業後はカイロプラクティックの仕事に就くか、新しく理学療法士か鍼灸の勉強を始めるか、スポーツビジネスの世界に行くかを思案していました。

その中で縁あって京都に入ることができ、約10年間仕事をしていました。最初の2年くらいはチーム管理の仕事をして、その後は試合運営の責任者も担当しました。京都はスポンサーが錚々たる顔ぶれなので、幸いにもトップクラスのビジネスマンと関わる機会があり、幅広くビジネススキルを学ぶことができました。その学びや経験は非常に自分のためになりましたね。

 

その学んだスキルを生かしてある時、京都サンガの経営陣に「今後京都がより成長するためには、経営企画室やマーケティング部を作るべきだ」とプレゼンをしたことがあります。経営陣からは「その通りだ」という前向きな回答がありましたが、その後に「お前がやれ」という話になって(笑)。

チーム管理、試合運営と合わせて、3つの仕事を兼任することになりました。

 

審判として更なる高みへ

京都のスポンサーの方々から教えてもらったビジネススキルやノウハウは、僕がその後ビジネスをする上での基盤となりました。クラブ経営に活かせる部分もたくさんもありましたね。ただ、残念ながら京都が2度目のJ2降格をした2003年に、クラブが不安定な状態に陥ってしまい、社長が交代することになりました。

 

僕自身はクラブの仕事と並行しながら審判をしていて、審判としても実績を評価してもらえていました。ただ、クラブ側の事情もあり、あまり審判に重きを置けない状況でもあったんです。審判側からは「このままの状態で良いのか」、クラブ側からは「審判をやっている場合ではない」という話があって、どちらか選択を迫られるタイミングでもありました。

 

僕は昔から「今を大事に」ということに重きを置いているので、今しかできないことを選ぼうと思いました。クラブ経営は何年後かに戻ってきてやることもできるけど、審判はもし今手放してしまったら、何年後かに戻ってきても同じようにやることはできない。それならば審判を選んで、できるだけ高く広い世界を見にいってみようと決意しました。

 

避けて通ることのできない「批判」

学生時代に審判を始めてから最初の頃は批判はなかったものの、担当する試合のレベルが上がっていくにつれて、観客やメディアも増えていって、様々な批判が聞こえるようになりました。自分が好きで始めたことなので、それに対する後悔は何もなかったものの「昔は何も文句も言われずに、楽しかったのにな」と思ったことはあります(笑)。今の若いサッカー選手に「審判やりなよ」と言っても、絶対にやりたがらないんです。それは、「審判がいかに難しくて大変か」、ということを暗に示していることの裏付けだと思います。

 

審判をしていると、良く「あなたはとてもメンタルが強い」と言われることがありますが、僕自身はそう思ったことは一度もないです。ただ、弱いと思うこともないのですが(笑)。サッカーで大舞台になると強い選手っていますよね。僕もなぜか大舞台であればあるほど、より高いパフォーマンスが発揮できるんです。また、審判は試合中に“ジャッジを間違えた”と自分で分かる瞬間がありますが、それで落ち込むということもないです。そういう意味では、僕はメンタルが強いのかもしれません。

 

もちろん、やってしまったミスは清く受け止め、謙虚に反省しているんですが、余りにも「色」のついた記事を見ると、辛いし悲しいですよ。ただ、メディアの方も仕事なので、より読者の興味を引くような表現や文言を使わないといけないのは理解しています。もしかすると、これまで数え切れない批判を受け続けてきたことによって、批判への耐性がついたのもしれませんね。

 

<後編へ続く>