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25歳でサッカー指導者から旅館経営へ。「宮崎を日本一の合宿地にする」決意

2022.09.15 / AZrena編集部

宮崎県高原町に佇む旅館・皇子原温泉健康村。この旅館を継ぐために地元に帰ってきたのが、川崎フロンターレのスクールでコーチを務めていた山下友希斗さんです。どうして25歳で旅館に戻る決断を下したのか。宮崎を「日本一の合宿地にする」覚悟に迫りました。

宮崎県高原町にひっそりと佇む旅館・皇子原温泉健康村(おうじばるおんせんけんこうむら)。かつて国見高校サッカー部を長きにわたって率いた名監督、故・小嶺忠敏氏や現宮崎日大高校サッカー部の南光太監督も愛するこの旅館を継ぐために、地元・宮崎に帰ってきたのが、川崎フロンターレのスクールでコーチを務めていた山下友希斗(やました・ゆきと)さんです。

<皇子原温泉健康村のHPはこちら>
https://oujibaruonsen.com/

大学在学中から数えて5年間、サッカー指導者として活動した彼が、25歳になった今どうして宮崎の旅館に戻る決断を下したのか。現在は副支配人を務める山下さんの経歴から、地元宮崎を「日本一の合宿地にする」覚悟に迫りました。

街のスクールで指導者デビュー。大学卒業後、フロンターレへ。

もともと大学2年生まではプレーヤーだったんです。宮崎県生まれで、宮崎日本大学高校に通い、日本大学に進学するのにあわせて上京しました。高校時代あまり試合に出ることができず、大学でも学部内のサッカー部でプレーしていたのですが、メンバーに入れるほどの実力はありませんでした。

ただ、キャンパスのある祖師ヶ谷大蔵から等々力(陸上競技場・川崎フロンターレのホームスタジアム)まで自転車で通うくらい、サッカーを見ることが好きでしたし、兄の影響で指導者にも興味がありました。

そんな中、大学3年生のときに転機が訪れました。知り合いに声を掛けてもらい、名賀大輔(なか・だいすけ)さんという方が川崎に立ち上げたヴェントサッカー塾で指導することになったんです。そこで指導者の楽しさに気づきました。

大学4年生のときに、フロンターレのスクールアシスタントコーチの募集があると知りました。名賀さんに相談したうえで応募して、合格することができました。フロンターレのアシスタントコーチ募集では、基本的にアシスタントコーチとして活動して、成長してコーチとして認められると翌年度以降にコーチとして内定が出される仕組みです。かなり厳しい環境でしたが、立ち居振る舞いや選手への声のかけ方など、たくさんのことを学びました。

それからはフロンターレとヴェントサッカー塾で、それぞれ週2日ずつ指導していました。コーチになりたい思いが強かったので、就活は一切やらなかったです。ただ、当時コーチを志望する人が他にも数名いましたが、実際に内定をもらえるのは1人か2人。周りは実力のあるコーチばかりで、「もうダメかな」と正直諦めていましたが、なんと内定をいただくことができたんです。

熱意は行動で示す必要がありました。とにかく選手を観察し声掛け、積極的な選手・保護者へのコミュニケーション、誰よりも早くグラウンドに来て準備したり、練習後のミーティングに最後まで参加したり。そういった姿を見せて、全スタッフに認められるよう行動を起こしていきました。僕の場合は、夏過ぎくらいに「将来どうしたいんだ?」と聞かれ、「(フロンターレに)入りたいです」と答えました。そのあと数回の面談を通して翌年からフロンターレのスクールコーチとして働くことが決まりました。

フロンターレに行くことを名賀さんに報告すると、快く送り出していただきました。僕としては申し訳ない気持ちもありましたが、名賀さんは薄々気づいていたのではないかと思います。「いつでも戻って来いよ」と。本当に良くしてもらいました。

楽しかった指導者生活の裏で、「ここにいて良いのか」という葛藤

本格的にコーチとして働き始めた1年目は、たくさんの方から厳しくアドバイスをしていただきました。正直、頭の整理ができないまま日々が過ぎていきましたね(笑)。でも、それは本当にありがたいことでした。

基本的にコーチは2人1組になって指導にあたるのですが、一緒にいるコーチに怒られないかびくびくしていました。選手の顔を見る余裕すらなかったです。19時に練習が終わり、保護者の方への報告が済むと、コーチ間の反省会があります。ときには日付が変わるまで話し合っていました。

そのおかげもあり、2年目以降は徐々に自分なりの指導法を確立することができました。自信を持って、すごく楽しく指導できるようになりましたね。とにかく褒め続けることを大事にしていました。

当時、自分に真剣に向き合い指導してくれた先輩達には本当に感謝しています。

私は幼稚園・保育園生から小学6年生までを指導していたのですが、アカデミーコーチが指導するジュニアやジュニアユース(中学生)の練習に参加してサポートさせていただくこともありましたね。自分も将来的にはここで指導するんだと思い描いていました。

フロンターレはスクールとアカデミーは部署が分かれています。毎年契約更新に向けての面談が行われ、評価されれば続けて行くことができます。指導者としていけるところまでいこうと考えていた一方で、このままの環境にいて良いのかを考えるようになりました。コロナで売り上げが落ち込み、少しへたりつつあった実家の温泉をここで終わらせる訳にはいかないという気持ちもありました。

売りは「天然芝グラウンド」と「チームとの距離感」

指導者として働く一方で、実家の旅館を継ぐことも考えていなかったわけではありません。実は私の実家は、旅館以外にも魚の養殖を行なっているんです。両親が旅館、88歳の祖父が養魚場を担当しています。

心の中では、「どちらかを早く継がないといけない」という思いがありました。フロンターレで働き始めて3年が経ったときに指導者を辞め、地元に帰って挑戦しようという決断をしました。東京での生活はすごく楽しかったので、名残惜しかったですけどね…(笑)。

うちの宿はもともと、国見高校の監督だった故・小嶺忠敏先生に合宿時の定宿としていただいていました。小嶺先生がサインをしたユニフォームが飾られているのも、うちだけです。それ以外にも、青森山田高校が合宿で来たりしていたのを小さいころから見ていました。

いちばん覚えているのは、小学5年生のときに香川西高校が合宿に来たときのことです。監督が登里享平選手を「こいつ、フロンターレに行くんだよ」と紹介してくれたんです。こんなところにもフロンターレとの縁がありましたね(笑)。

この旅館が売りにしているものの一つは、近くにある“5面の天然芝グラウンド”です。Jチームが使うような質の高いグラウンドをあらかじめ抑えておけば、合宿を誘致しやすいですからね。あとは両親が選手はもちろん、監督やコーチと親しくしている姿を間近で見てきました。チームの勝敗に応じて食事をサービスしていましたね(笑)。こうした“チームとの距離の近さ”も良さの一つだと思います。

両親の姿を見てきたからといって、「すべてを同じように引き継がなければ」というプレッシャーはありません。まだ宮崎に帰ってきたばかりなので、まずは必死に働いて、いろいろなことを知りたいと思っています。そのうえで長期的な計画を立てたいな、と。アクセスも良いですし、グラウンドや温泉などチームを受け入れる体制は整っています。僕自身も学びながら、いずれは日本一の合宿地にしたいですね。

温泉独自のサッカー大会、町役場や地域商社とタイアップしたスポーツ大会、大学サッカー部やJリーグチームの冬期キャンプの誘致などに取り組んでいきたいです。

スポーツチームの誘致は、温泉だけでなく町の各商業施設にも経済効果があります。例えば、町内各温泉への分宿泊、町のスーパーやコンビニへお弁当の大口発注、バスで来たチームや観戦に来た方が帰りに町のスタンドで給油すること一つ取ってもそうです。保護者の方々は「せっかく来たから」とスポーツ観戦とともに街の観光名所を巡って帰りますし、夜は居酒屋で監督さん等の懇親会が開かれます。同時に、街の魅力を知ってもらうチャンスにもつながります。こうして町外からもたくさん人を呼び、町を盛り上げていきたいですね。