生きる意欲が失せたどん底期も…C大阪・渡邉りょうが語る「波乱万丈からの快進撃」
渡邉りょう選手は、2019年に産業能率大学からアスルクラロ沼津に加入し、J2初挑戦となった2023年には藤枝MYFCでゴールを量産。その活躍によりJ1・セレッソ大阪への移籍をつかみました。右肩あがりのプロサッカー選手人生を折れ線グラフで振り返ります。
スポーツの各分野で活躍中の選手や引退された方々が、競技を始めてから現在までの人生を折れ線グラフで表現し、その浮き沈みを時系列に沿って語っていただく企画「アスリートジャーニー」。
今回は、2023年にJ2リーグの藤枝MYFCから、J1のセレッソ大阪へ移籍した渡邉りょう選手に、編集長の竹中玲央奈がインタビューしました。J3からスタートし、J2でゴールを量産、わずか1年でJ1へのステップを果たした渡邉選手がシンデレラストーリーを振り返ります。
※本取材は渡邉選手がセレッソ大阪に移籍する直前の2023年7月末、藤枝MYFC所属時に行われたものです。
強豪とは無縁…弱小チームにいた小中高時代
渡邉 サッカーは小学1年生からやっていましたが、大きな転機となった高校3年生の頃からお話しようと思います。僕は東京の私立高輪高校のサッカー部に所属していました。戦績は高2の頃に超頑張ってベスト8に行けたくらい。小中もそれを超える成績を出したことはありません。ですから、強豪校とは無縁で、極端に言えば弱小チームで一生懸命サッカーをやっていました。
竹中 高校の頃のお話をもう少し聞きたいです。サッカー界で有名なのは東海大高輪台(東海大学付属高輪台高等学校)かなと思いますが、そこではないんですよね?
渡邉 高校の話をするとよく間違えられるので毎回説明するのですが(笑)、東海大高輪台ではありません。その数百メートル手前にある高輪高校が僕の母校です。
しかも、先述したベスト8の対戦相手が東海大高輪台でした。「強くない方の高輪」としては絶対に勝ちたかったのですが負けてしまい、悔しさは今でも残っています。
竹中 高校までは特にプロを意識していなかったと。
渡邉 中学は、小学校の時のチームメイトとサッカーを続けたくて、みんなで区立中学に進みました。高校も、純粋にサッカーを楽しみたいという気持ちで進学しましたね。クラブチームやユースは考えていなかったです。その辺に転がっている石ころみたいな、どこにでもいるサッカー少年でした。
竹中 中学だと、エリア的にFC渋谷やトリプレッタ、ちょっと範囲を広げてトッカーノなど、人気のサッカークラブがありますが。
渡邉 トリプレッタとは小学校の時からずっと試合をしていました。そこに入るのではなく、対戦したいチームでしたね。
当時のトリプレッタには、諸岡裕人選手(現・ブラウブリッツ秋田)がいたんですよ。「こんな化け物がいるんだ」と僕が衝撃を受けた、初めての選手が彼です。フィジカル、スピード、シュート全てがエグくて、彼の存在もトリプレッタを選ばなかった理由のひとつです。別格でしたね。
FC渋谷には、新井直人選手(現・サンフレッチェ広島)がいました。同い年でもあり、結構やり合っていたので、トリプレッタと同じように、FC渋谷とは「試合をしたいな」という思いが強かったので、プロを見据えた道を志す考えは全くなかったです。
世界が広がった産業能率大学への進学
竹中 話を戻しますと、高校卒業後は産業能率大学へ進学されました。この辺りは、サッカー人生の起伏で言うと右肩上がりですが、環境が大きく変わったのではないでしょうか。はっきり言えば、レベルが一気に上がりましたよね。
渡邉 世界は広いなと思いました。自分がいかに狭い世界でサッカーをしていたのかと痛感しましたね。日本代表の常連だったり、高校でずっと10番を背負っていたり、全国大会に出場していたりと、同世代はすごい選手だらけでした。
僕は、最初の1年間はBチームでしっかり頑張れたら…くらいの気持ちでいました。トップチームに上げてもらえることはありましたが、公式戦出場は1試合、しかもプレーしたのは数分間だけ。それでも高校から大学時代を上昇曲線にしたのは、高校時代と比べて一気に裾野が広がったからです。
竹中 そんなに強くない高校がベスト8まで行けたとなると、燃え尽きて大学はサッカーをしなくていいかなというパターンになりそうですが、そうでもなかったですか?
渡邉 大学でもサッカーを続けた人は数人いましたが、みんな楽しくやれればいいや、みたいな感じでした。本格的にやっていたのは僕くらいです。
そもそも広い世界を見たいと思ったのは、高校最後の選手権を不完全燃焼で終えてしまったからです。怪我のためコンディションが万全ではない状態で出場し、初戦敗退したんですね。ここで辞めるという選択肢はありませんでした。
そこで監督に相談したら、産能大を紹介していただいたんです。とはいえ、この時点で僕はまだ怪我の影響でサッカーができず、練習参加もできませんでした。
ただ、僕の1個上の浜下瑛選手(現・愛媛FC)と、サンフレッチェ広島ユースにいた越智大和選手が産能大にいたのですが、知り合いを通じて二人の自主練を見学をさせてもらう機会があったんです。
そこに産能大の監督もいらして、その時の僕の姿勢を評価してもらえたみたいで…。「うちに来てもいいよ」と言っていただけて進学が決まりました。
大学4年で自分に課した「プロになるためのマイルール」
竹中 大学入学から4年までは緩やかに上がっています。
渡邉 年数を重ねるごとに出場機会が増えて、プレー時間も長くなったので、細かく言うといろいろありますが、トータルではいい調子だったと思います。
ただ、4年の夏に肩関節を亜脱臼したんです。そこからガクンと落ちて、今アスルクラロ沼津の10番をつけている佐藤尚輝選手にスタメンを奪われました。最後の5分や10分だけ出るスーパーサブ的な立ち位置になってしまったんです。
でも自分としては考えた末に、進路を決める3年の時点で「プロになりたい」と決めていました。なれるかはわからなかったですが、とにかく決意したんです。
そこから、大学4年はプロ1年目だと置き換えて生活をしてみました。例えば、試合前や練習に対する姿勢において、試合に出られない時があってもメンタルを安定させる。不安定な状態を作らないように意識をして取り組みました。そのマインドが、卒業後のアスルクラロ沼津加入に繋がったのだと思います。
竹中 プロに入ってから1年目と考えるのは遅いということでしょうか。
渡邉 それもありますし、自分を客観的に見た時に、まず無駄をなくすべきだと考えたからです。僕は技術があるわけでも、何かが突出しているわけでもありません。
でも1年間しっかり活動できる選手になれば、プロでも食っていけるのではないかと。当時、何も知らない状態で考えたことですが、結果として結びつけることができたと思っています。
その考えがあったからこそ、怪我で納得いかないことやうまくいかないことがあっても、腐らずコツコツとしっかり積み上げることができていると思います。
生きる意欲さえ無くした「どん底のプロ1年目」
竹中 スーパーサブ的な選手だったにも関わらず、J3に行けたというのは結構すごいことだと思います。沼津への入団はどういう経緯で決まったのですか。
渡邉 何回か練習に呼んでいただいていて、4年生の年末に行われた練習会に参加し、加入が決まりました。ただ、大学の最後のほうは思うようにいかなかったので、グラフはちょっと下降しています。
加入後は開幕戦からスタメンで出場し、徐々に手応えを感じることができました。ですがその後、怪我をしてしまったんです。ヘルニアだったのですが、寝れない、横になれない、靴下も履けない、体を起こすこともできない。サッカーをするどころか、普通の生活ができないんですよ。
周りの選手はチャンスをつかんで出場機会を増やすじゃないですか。間近で見ていて、とても辛かったです。手術をして3、4か月チームから離脱をしました。しかも、摘出したところとはまた別の部分を痛めてしまって…さらなる試練でしたが、再手術せずとも自然に吸収されたので、そこからやっとリハビリをスタートできたんです。
この期間は生きる意欲も湧きませんでした。自分は何のために存在しているんだろうと。他の選手とも話す時間が減り、メンタルも落ちていくばかりで、1年目はもうどん底でしかなかったですね。
竹中 そこから這い上がって、復帰した年は全試合出場です。
渡邉 ちょうどコロナの感染拡大が始まった年で、開幕が遅れたんです。そのことが自分にとってはプラスに働いて、コンディションをうまく整えることができました。全試合出場ではありますが、先発半分、サブ半分といったところです。
チャンスを掴めた部分もあれば、うまくいかなかったこともありますが、総じて右肩上がりにしています。
J2 藤枝MYFCに移籍を決めた「たった2つの理由」
竹中 この後のグラフは下降しているんですね。
渡邉 プロ2、3年目あたりです。3年目の9月頃、藤枝とのダービー戦でまた怪我をして、リーグ終盤はほぼ出られませんでした。それまで試合にはある程度出られるようになっていましたが、結果を残すことはできなかったですね。
思うような形で点が取れず難しさを感じていたときに、藤枝から移籍のお話をいただきました。振り返ると大きな分岐点だったと思います。結果を出せていないなかで、こういったお話をいただくことは、自分としては本当に考えるところがありました。
ただ、藤枝は対戦して非常に面白いサッカーをしている印象があったんです。そして何より、須藤大輔監督が熱望してくれたので移籍を決めました。この人のもとで新たに挑戦して、自分自身をもっと成長させたいという思いが固まったんです。
その熱量で言ってくれたからこそ今があると思うので、強化部の大迫希さんをはじめ、徳田航介社長、そして須藤監督には、本当に感謝しかないです。
竹中 しかも、背番号が10番だったんですか?
渡邉 そうですね、10番で藤枝に移籍するっていう結構爆弾っぽいことをしました。もちろん、いろんなことを思う方がいるのは当然です。そのうえで僕はその選択をとったので、言われることは全然問題なかったです。
さらにそれをエネルギーに変えて、結果で示したいなと思いました。J2昇格というチームとして最大の目標を果たせたのは、本当によかったなと思います。
チーム得点王になれた理由
竹中 それこそプロって結果を出せなかったら、(契約を)切られてしまう。そのプレッシャーとの戦いはどうなのでしょうか。「フォワードならやっぱり二桁は取らないと」というような危機感を覚えながらプレーをしているのですか?
渡邉 危機感は常にあります。ただ、僕が入った時は今10番の横山暁之選手(現・ジェフユナイテッド千葉)や、久保藤次郎選手(現・名古屋グランパス)が中心となって攻撃をしていました。どちらかと言うと自分が点を取るよりも、彼らが点を取るためのプレーを求められていたんです。
その部分は本当にもどかしさがありましたね。もちろん僕も点を取りたい。でもチームが勝つためには何をするべきかを考えた時に、悔しいですが去年はその選択が正解に近いなと思いました。
プレッシャーは必ずつきまとうものだと思っているので、マイナスに感じたことは一切ありません。だからこそ「やってやるよ」「俺は絶対にやるから、見とけよ」というマインドでいます。
竹中 そのような心の持ち方が、点を重ねられている要因ではないかと思います。藤枝では25試合に出場して得点13、チーム1位です(※2023年7月時点)。なぜそんなに結果を残せているのですか?
渡邉 いろいろな取材で同じように聞かれますが、これまでと大きく変えて取り組んでいることはないんですよね。ですから、高校、大学から含めて積み重ねてきた1つ1つが、ようやく結果として実になっているのだと思います。
もっともっと点を取れると思いますし、バリエーションを増やしていきたいです。そこは今後の課題でもあるので、目を背けてはいけないと思っています。
須藤監督がよく言っている「満足したらそこで終わり」という言葉は僕も思っていることです。上には上がいますし、もっと羽ばたいていけるように努力を積み重ねていきたい、という思いしかないですね。
竹中 現時点がサッカー人生のピークなのでしょうか。
渡邉 客観的に見て今がピークと言えると思いますが、もっと伸ばしたいですね。成長があれば、もちろん挫折もあると思います。ただ、「一番の失敗はチャレンジしないこと」だと思うんです。それを常に自分に言い聞かせて、どんな環境や状況になっても、チャレンジし続けていきたいです。
竹中 J1への思いも教えてください。
渡邉 子供の頃から、やっぱりJ1に行きたいというのはありました。J1に行って点を取ってもっと活躍したいです。
そして、最終的にはやっぱり日本代表に選ばれたい。日の丸を背負ってプレーするというのは、サッカーをやっていたら誰もが思い描くことだと思うので、達成できるように頑張りたいです。
竹中 夢だったことが、目標と言えるぐらいまでは来たという感じですか?
渡邉 そうですね、夢から目標に変わったのが今年だと思います。
竹中 華やかとは決して言えない経歴であっても、ここまで来られるのだということを体現された選手だと思います。今後も期待しています!