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野球の力で「島」の子どもたちに夢を与える。村田兆治が離島甲子園にかける思い

2022.03.02 / AZrena編集部

「マサカリ投法」と呼ばれるダイナミックな投球フォームで知られ、多くのプロ野球ファンの脳裏に記憶された村田兆治さん。 「離島甲子園」と名付けられた取組みは、どういった経緯で開催されたのでしょうか。村田さんがその背景と、抱える思いを語ります。

本企画はスポーツの力を活用して社会貢献活動を推進する日本財団のプロジェクト「HEROs」と共同で実施している特集企画です。

HEROsではアスリートや非営利団体に対して活動支援(資金提供)も行っています。詳細はHEROsのHPで!

 

「マサカリ投法」と呼ばれるダイナミックな投球フォームで知られ、多くのプロ野球ファンの脳裏に記憶された村田兆治さん。

引退年の1989年には40歳ながら2桁勝利を記録した名ピッチャーである彼が、“野球を通じた人材育成” をテーマに活動をしています。

気になるその舞台は、“離島”です。

数百にも及ぶ離島中で参加する自治体の中学生チームを結成し、普段は接する機会のない他の島の選手と優勝をかけて大会に挑みます。

離島甲子園」と名付けられたこの取組みは、どういった経緯で開催されたのでしょうか。村田さんがその背景と、抱える思いを語ります。

 

野球で得たものを社会に還元したい

我々人類はみなきょうだいだと私は思っていて。色々な力を合わせて仲間を増やし、それを社会に還元しなければいけないと感じています。

私は野球で多くの賞をもらって、ある程度の名誉と地位もいただいております。ただ、それを自慢するということはこれまでにもありませんでした。とはいえ、この離島甲子園の活動を評価いただけることは本当に嬉しく思います。

私の野球人生はだいぶ昔に終わりました。ロッテ一筋でやってきて、実績を周りに評価された時代はもう終わったものです。引き際については、ちゃんと二桁勝利をしてファンの期待を裏切らなかったのでとても良かったと思います。

でも、大事なのはその後の人生です。そこでも“先発投手”として歩んでいかなければいけないと感じたんです。リードをしていく存在にならねば、と。

そういう意味で、自分の経験をしっかりと社会に還元する活動をしようと決めました。そう思っていた中、これも縁なのですが、新潟県にある粟島に来てほしいという一つの依頼があったんです。これが始まりでした。

喜んでその島へ飛んでいき、15名の子供たちと交流をしました。島の子どもたちに将来の夢を聞いたところ、「学校の先生になりたい」とか色々なことを言っていたのですが、その幅を広げてあげたいな、と思ったのです。

また、自分の目標を設定した上でどうなりたいのか、どうしたいのかを考えることは子どもたちにとっても大事なことですし、努力や忍耐を覚えることも大切。“挑戦していく” 姿勢を伝える必要もあると痛感しました。そして、野球を通じてそういった機会を与えたいと。

40歳で現役を引退してから10年かけて東西南北いろいろな島を回って三角ベースやバット、ボールなどを渡す活動をしました。その中で、様々な島で子供たちと触れ合い、彼ら彼女らが成長する姿を見てきました。活動の中で子どもたちに “挑戦する姿勢” や “礼儀正しさ” が備われば島を出ていっても通用できる、と伝えました。

頑張っている人に対しては、誰でも丁寧に相手をしてくれるし、応援してくれるよ、とも。ただ、島から出ていかない子も多いのは事実です。そうなると、接する人の幅にも限りができてしまいます。

だからこそ、野球を通じて挑戦することや礼儀などを学ぶだけでなく、他の島の人と交流する場も作ってあげたい。そう思って、離島が参加する野球大会「離島甲子園」を始めようと決断したのです。

実施にあたって、多くの企業さんや行政が協力してくれました。離島甲子園の理念に賛同してくれる方々がたくさんいて、本当に嬉しかったですね。

様々な離島を持ち回りで開催するのですが、参加した島のチームからは、「野球での交流を通じて島がひとつになることを実感しています」との声をいただきます。

運営してするのにしんどさはありますが、こういった声をいただけることが、大きなやりがいの一つですよね。

地元の中学校の吹奏楽部に開会式で演奏してもらったり、同じく司会も地元の中学校の生徒にやってもらったり。役割・経験を与えた上で、一人一人に「これをやったことを自慢してよいからね」と伝えています。このような体験が人間を育てますし、「島を離れても頑張れる」という自信に繋がりますから。

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