最も勉強したのは現役時代。環境を最大限に活かした、下村東美の英語取得法

2017.03.16 竹中 玲央奈

下村東美氏

「”語学”に触れることがスポーツへの関わり方や楽しみ方、知られる知識の幅が広がる」

”スポーツ×語学”をテーマに、その2つの関連性や語学を学んだことでスポーツ人生においてどういったプラス面が得られたか、などを様々な方に語って頂くこの企画。第2回目はセレッソ大阪やジェフ千葉などで活躍した元Jリーガーであり、現在はサッカー中継の解説者を中心に幅広く活動する下村東美さんにお話を伺いました。彼が育った言語環境や学習法とは?

 

父親はオーストリア人のパティシエ

僕の父はオーストリア人で、母は日本人なので、僕はオーストリアと日本のハーフです。日本で生まれ、日本で育ちました。父はオーストリアでパティシエをやっていたんですが、札幌にある製菓メーカーが洋菓子の本場から技術者を招きたいということで、僕の父に依頼があり、父が来日することになったんです。最初は日本で数ヶ月技術指導をしてオーストリアに戻る予定でした。ただ、日本のメーカー側から非常に高い評価を頂いて、『もう少し日本に残って継続して技術指導をして欲しい』というようなオファーがあったみたいで、そのまま日本に住むようになり、その後に母とも知り合い、結婚して僕が生まれたという感じです。

 

僕が幼少の頃の自宅の言語環境は、基本的には日本語とドイツ語のミックスでした。母も父の両親に会うときにはしっかりとドイツ語で挨拶できるようにしなければいけないと思っていたということでかなり勉強したらしいんです。だから、結構ドイツ語を喋れるんですよ。父はもちろんドイツ語がメインだったので、両親がしゃべる時は半分前後がドイツ語でした。僕が父と喋る時は日本語とドイツ語が混ざった感じでコミュニケーションをとっていましたね。

 

基本的には日本語を使う機会のほうが多かったです。ただ、父が日常的にドイツ語を使うという環境で育ったのと、生まれてから小学校の低学年ぐらいまでは毎年夏に家族でオーストリアに行っていて、ドイツ語が自然と耳に入ってくる環境だったので、外国語に対するコンプレックスという意識は感じることがなかったと思うんですよね。幼稚園も札幌にあるインターナショナルスクールに通っていたのですが、両親が無理やり決めたわけではなく、同じマンションに住んでいた日本人の友だちと一緒に体験入園をした際に凄く楽しかったからなんです。他にも候補の幼稚園があったんですけど、「ここに行きたい」と断言していたようです。

その幼稚園ではもちろん毎日のように英語に触れていました。今振り返ると、そういう部分もふくめて、色々な環境が自分にとってプラスとなったと感じます。

 

『英語を喋って!』と言われるのが嫌だった

幼少期から小学生の期間は、自宅や英会話教室での時間を含めて、当時触れていた言語の比率は、ドイツ語1、英語3、日本語6ぐらいだったと思います。当時の自分にとってドイツ語は非常に難しいという印象を持っていたので、父の母国語ではあるのですが情けないことに少し愛着を持てませんでした。逆に幼稚園の頃から親しみ始めた英語は自分にとってより自然で、進んで取り組めたと言えると思います。

 

今も見た目がこんな感じなので、ある程度想像はつかれると思うのですが、小さなころは今よりも本当に外国人っぽかったんですよ。今でも飛行機やコンビニで英語で話しかけられることもありますからね(笑)。顔立ちだけでなく、髪も金髪だったので、周囲からは“英語が喋れそうな人”と思われていて、『英語喋って!』と言われるのが日常茶飯事で、子どもながらに恥ずかしくて『もういい加減にしてくれ』という感じでした(苦笑)。そんなこともあり、小学校高学年の頃には一度英語から遠ざかりたいという気持ちになりました。それくらいの年齢の頃に初めて見た目や外国語に対して強いコンプレックスが生まれたのを覚えています。

 

ただ、中学生になると授業で英語が始まります。実はそこで自分の変わったこだわりが出たんです。学校の成績とかを考えるとテストで点数取れるのが1番いいかもしれないけど、僕はテストで点を取ることよりも実践的に英語を喋れるようになる方が大事だ!と、中学一年の頃に思ったんです。英語のテストでもあまり良い成績ではなかったので、ちょっと強気な発想の転換で「点数よりも大事なものを追い求めよう!」という、見方を変えればテストの点数が良くなかったからこその現実逃避なんですが(笑)。

 

ちょうど洋楽に興味を持ち始めた頃でもあったので、洋楽を聴きながら歌詞カードを読んで、歌詞カードを読んでは和訳を見て、「ここはこういう風に言っているのか」と1人で納得したり、自分で声を出して教科書を読んだり、歌詞カードを読んだり、何をするべきかという正解はわからなかったのですが、自分なりに色々試行錯誤する中でだんだんと幅も広がってきて、そのうちにだんだんと英語が面白く感じて、高校に進んでもそのような取り組みは続けていました。通っていた中学校が英語の教育に力を入れていたみたいで、リスニングの授業の際に生徒一人一人がヘッドホンをつけて授業をするような教室があるような学校だったので、そのような学校や家庭での環境が今の自分の一定の基礎を作ってくれたと思っています。

 

下村東美氏

僕は見た目がこんな感じなので“喋れて当たり前”と思われがちで、結構色々な人に言われます。ハーフの芸人さんでもそういう感じの人がいますよね。それはハーフの宿命です(笑)。ただ、自分の中では語学についてもサッカーと同様で、ゼロから徐々に積み上げてきたような感覚を持っています。実際に親も英語圏の人ではないですし。

まだまだ日常会話の部分でもビジネス会話の部分でも発展途上な部分がありますが、今のところは続けてきたものをうまく活かせているかなという思いがあります。

振り返ってみて何が良かったのかと考えると、具体的には「声に出して読む」ことや「書いて頭に叩き込む」ことを続けたのは良かったなと思います。文章や単語を見たり聞いたりすることも重要ですけど、実際に口に出したり、書いてみたりしないと絶対ダメだと思います。調べた例文などをノートに書いて読むことを反復して頭に刷り込んでいきました。

 

一方のドイツ語ですが、幼少期の環境もあったので、それなりに聞き取れる単語もあるし、会話をしている相手が何を言っているのかは大体わかりますし、簡単な言葉であれば自分の意志も伝えられますが、しっかりと意思疎通をしようとすると英語ほどのレベルには至らないですね。

 

現役時代”こそ”勉強量は多かった

プロになってからも勉強はしていました。英会話の講座にも通っていたんですよ。僕が大学を卒業してセレッソ大阪に入ったのは2003年。そこから2006年まではセレッソに所属していたのですが、その時期に英会話の学校がJリーグのスポンサーになっていて、1チームあたり5,6人は無料受講できるという素晴らしい制度があったんです。「これは絶対に勉強するしかないな」と思い、申請をして3年間通いました。自分としてはもっと英語のレベルを上げたいと思っていましたし、時間を有効に使いたいという思いも大きかったので、英会話の講座に通うことに迷いはありませんでした。この3年間は自分にとってもかなり大きかったですね。

 

ちなみに今シーズンから京都サンガS.C.の監督になった布部(陽功)さんも一緒に英会話に通っていたんですよ。クラブハウスでよく英会話について話もしました。『最近通ってる?』みたいな感じで、お互いに話をしながら刺激し合っていました。

基本的に何か特別な用事が無い限りは週に1、2回は行っていました。最初は生徒が3、4人のグループで、そこに先生を交えるという形でしたが、先生と1対1でもレッスンができると言われたので、途中からは1対1でのレッスンに切り替えました。その時はかなり濃い時間を過ごせていたと思います。

それ以外では、チーム内に英語を喋る選手や外国人の選手が1年に1人から2人はいたので、日常的に英語をしゃべる機会を持てていたのは非常に大きかったと思います。

 

普通に過ごしていたら日常的に英語をしゃべるという機会はなかなかないので、ここぞとばかりに外国人選手と喋っていましたね。練習中、練習前後、移動の際の飛行機やバスの中などはかなり外国人選手と話していました。例えば、今でも連絡を取り合っていますが、千葉在籍時にはエディ・ボスナーと非常に仲良くしていましたし、英語以外でもセレッソ在籍時の2005年には、ブルーノ・クアドロス、ファビーニョ、ゼ・カルロスという3人のブラジル人がいました。3人もブラジル人が来たからこれはもうポルトガル語をやるしかないと思いましたね(笑)。ブルーノには「俺が日本語教えるからブルーノはポルトガル語を俺に教えてよ」と言って、キャンプのときにノートを持っていって色々と教え合いました。それでポルトガル語も簡単な表現はどうにか喋れるようにはなって、特に試合中のサッカー用語を重点的に覚えました。振り返ってみると外国人選手の存在というのは非常に大きかったと思います。喋る機会を逃さず、ゴリ押しでいったことが良かったかもしれません。


レアジョブ英会話
 

<後編へ続く>