「貧困でスポーツを諦めてほしくない」。オリックス・宮城大弥の父が語る、基金設立の裏側
沖縄のアスリート支援のため、オリックス・バッファローズ宮城大弥 選手が基金を設立しました。貧しく様々な困難を抱える家庭であっても父・享さんは、息子に野球を続けさせました。 享さんと宮城選手の“約束”とは。
今年(2022年)の6月、プロ野球界において初の出来事がありました。2021年度にパ・リーグ新人王を獲得した宮城大弥選手が、『一般社団法人 宮城大弥基金』を立ち上げました。この基金の目的は、経済的な理由でスポーツを断念せざるを得ない沖縄県内の小学生〜高校生の支援です。
多くのプロ野球選手が社会貢献活動に励む歴史がある中、現役選手が一般社団法人を立ち上げスポーツ選手を目指す若人の支援をするのは初のことです。
そして、これは父・享さんとの “約束” でもありました。基金設立を主として動いたのも、享さんです。
宮城選手の家庭は経済的に苦しい生活を強いられており、野球を続けるのもギリギリの状況でした。しかし、享さんを始めとした家族や周囲の支援があり、夢を叶えることができました。
「次は大弥が周りの人に恩返しをしていく番だ」
享さんが宮城選手と交わした約束を果たすまでのストーリーとは。当時の家庭事情も含めて、赤裸々に語っていただきました。
厳しい生活のなかでも続けた野球。約束したのは「感謝を忘れない」こと
大弥は生後11か月のときには、プラスチックのバットで遊んでいて、1歳になるとテレビで甲子園を見ていました。そして4歳くらいになって散歩に行くと、近所のグラウンドでやっている野球に参加したいと言い始めたんです。ほとんどのチームに「まだ小さいから」と断られたのですが、ある監督だけ「いいよ。明日から来なさい」と参加を認めてくれたんです。5歳のときには外野フライを取っていましたね。その監督の下で8年間、打ち方や投げ方だけでなく、守備の仕方や試合の流れまで、すべてを教えてもらいました。
ただ父親である私は学生時代の事故で手に障がいを抱えており、就ける仕事が限られていたんです。余談ですが私も野球をしており九州の高校へ推薦をもらって進む予定でした。ただ、この事故で入学ができなくなったんです。
昔は今と比べ物にならないくらい、障がいを持っている人が仕事に就くのは難しかったんですよ。福祉協議会や生活保護に頼らざるを得ないほど、苦しい生活を強いられていました。
小学3年生のときには、チームが大会で優勝し、祝勝会を開くことになりました。大弥にとっても初めての優勝で楽しみにしていたのですが、お金が足りなくて行けなかったんです。大弥も「これを足していいから」と自分の貯金箱を持ってきたのですが、それでも足りなかった。それだけ、ギリギリの生活をしていました。泣きながら寝る大弥の様子を見て、申し訳ない気持ちになりました。
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