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元フォトクリエイト社長・大澤朋陸が新天地に“北海道ボールパーク”を選んだ理由

2019.09.12 / 竹中 玲央奈

元フォトクリエイト社長・大澤朋陸が新天地に“北海道ボールパーク”を選んだ理由

 

「大企業だからとかベンチャーだから、とかは関係ないと思っています。やりたいことをやれるなら大企業の方が良いこともある。自分としてはスタジアムを中心とした街づくりというのはベンチャーでは難しいから企業に入ろうとなった。やりたいことがその会社にあるならそこでやれば良いし、そうじゃなかったら自分でやるしかない。色々な形があって良いと思っています。大企業が不安だからとか、ベンチャーは勢いがあってかっこいいとか、そういうことではないんですよね。」(大澤朋陸・株式会社北海道日本ハムファイターズ)

 

北海道日本ハムファイターズが主体となって動いている「北海道ボールパーク構想」は、スポーツファンに大きな衝撃を与えました。日本初となる開閉式屋根を持つ天然芝球場、全面ガラス張り…などなどのインパクトある外観に加え、温泉やバーなど新しい観戦体験…と文字通り“これまでにない”スタジアムと言えるでしょう。
2017年からその構想が公にされ、多くの人の心が踊ったことは間違いありません。そして、インターネットを通じた写真販売サービスを手掛けるフォトクリエイトの社員第一号であり社長を務めていた大澤朋陸さんもその1人でした。

新卒で大手スポーツメーカーに入り、立ち上げ期のベンチャーにジョインし、上場&社長就任を経験。ある種の“成功体験”を持っていた彼は、なぜ新たなチャレンジのため北の大地へ飛んだのでしょうか。

 

4年半のメーカー営業で感じたこと

私は、大学時代は体育会のスキー部に入っていました。部活自体は指導者もいなくて自分たちでメニューを作って組織をまとめて動かしていく形で、個人競技でありながら団体的な側面も持っていて、そういうところで違ったスポーツの楽しみかたがあるんだな、と思ったものです。プレーヤーとしてスポーツにずっと関わってきたので、この世界で働きたいと思うようになりました。

ただ、自分が就職活動をしていた当時はスポーツをビジネスにするという概念があまりなく、“スポーツ業界で働く”という軸を持っている人はスポーツメーカーに入る人が多かったと思います。

その中でアシックスの持つモノづくりへのこだわりや込められた想いというのがとても好きだったので、この会社に行きたいなと思ったんです。そして、アシックスの人事部に電話をしたのですが、「新卒採用を7年間やっていなかったけど、今年もしかしたらやるかもしれません」と言われて。そこから新卒採用を受けて内定したのですが、7年新卒をとっていなかったので、1つ上の代の先輩が30歳でしたね。

最初は茨城県全体でシューズを売るというエリア営業を任されました。メインは小売店を回ってそこの棚に商品を入れてもらうという業務に加えて、棚に置いた先にしっかり売りを作るために学校を回り、先生などにまとめて買ってもらうような交渉をすることをしていました。

その中で店頭セールを手伝ったり、イベントを仕掛けたりもして、なんとか小売店にあるシューズが捌けるように尽力していました。あとはプロモーションもやりましたね、例えばサッカーだったら冬の高校サッカー選手権に出場が決まった高校の監督に製品を使ってもらうように話をしにいくんです。かなり地道な仕事ですよ。

元フォトクリエイト社長・大澤朋陸が新天地に“北海道ボールパーク”を選んだ理由

今思うと、当時はそもそも“スポーツでビジネスをする”ということはあまり考えられていなかったので、単純にミーハーな人が多かった。正直言って自分も入るまでは単純にアシックスのモノの良さであったり、自分が好きだと思えるものを広げていきたいという思いがあったりしましたけど、それ以上は考えてなかったです。

ただ、入ってから色々考えるようになりました。下働きの期間が長かったですし、今の時代では考えられないような、超体育会系だったので(笑)。結果的にアシックスに在籍したのは4年半でした。

 

お祭りで会った友人に誘われ、ベンチャーへ転身

当時、友人に誘われて、鎌倉の祭りで神輿を担ぎに行きました。そこで、仲良くなったのが、フォトクリエイトの創立者の白砂(晃)でした。当時彼はサイバーエージェントにいたのですが、何度か一緒に担いでいるうちに「サイバーエージェントをやめて会社を作ったんだよ」と言ってきて。

当時の自分はアシックスのコミュニティの中にほぼいたので、“会社を作る”というイメージが全くできなかったんです。時代的なものもあると思うのですが、企業の中にいるとその企業の中で完結してしまって、外と交流することがあまりなかった。言ってしまうとそういうすごく狭い世界で生きていた。それがたまたま誘われたお祭りで、年齢も肩書きも関係ない世界に入って、新しい世界を見ることができました。

 

周りにそういう人はいなかったですし、そういう意味で白砂との出会いは新鮮でした。そして「とりあえずオフィス来てみろよ」と言われたので向かったのですが、そこが一般的なマンションの一室。普通の家なんですよ。「靴脱いで入って」と言われて「え、靴脱ぐの?ここオフィスだろ?」と思いました。これがフォトクリエイトとの最初の出会いですね。

そこで色々と話をした時に、同年代の人が持っている活気を体感できて、「こういう世界があるんだ」と衝撃を受けました。そしてもう1つ、インターネットを使って写真を販売するというビジネスモデルがその当時の日本にはなかったのですが、そういう時代になるという確信と将来性を感じたんです。これは面白そうだな、と。

 

このままアシックスにいても自分のやりたい仕事が本当にできるまでに何年かかるかわからない。10個、20個上の先輩が自分とはエリアが異なるだけで、同じような仕事をしているのを見ていました。なので、ずっと異動の希望は出していたんです。そして、上司から伝えられたのは茨城県から千葉県への担当エリアの変更でした。

周囲の反対もありましたが、アシックスを辞めてフォトクリエイトに入りました。給料はもちろん下がりましたね。「これぐらいなら大丈夫だな」と思っていたんですけど、アシックスの時についていた手当はないですし、国民健康保険でしたから。「辞める前にクレジットカードだけは作って、アパートも借りておけよ。信用がなくなるから。」と言われたのを覚えています。

住んでいたのは会社のすぐ裏の14平米で5万8000円のマンション。最悪、当時は都内にあった実家へ戻れば親もまだ元気だったしなんとかなるというのは自分の中での計算としてはありましたけど。

元フォトクリエイト社長・大澤朋陸が新天地に“北海道ボールパーク”を選んだ理由

 

転機となった東京マラソン

会社として最初にアプローチしていたのは学校です。行事の写真を廊下張り出しで茶封筒での支払いをするというのが当たり前でした。わざわざ保護者は学校へ行かなくてはなりません。また、金額が合わなかったら先生は帰れないという状況でした。アメリカでは写真をネット販売していましたし、そのモデルを日本に持ち込みたいと思っていたんです。

ただ、いきなり幼稚園や小学校に行っても全く相手にされない。今考えれば当たり前なんですけど、当時はそんなことがわからないから普通に当たっていて断られる、の繰り返しでした。

カメラマンにアプローチして「このサービスを使ってくれ」と言っても「よくわからないから」と言って使ってくれないんですよ。時代がちょっと早すぎたというのもありますね。ネットで買うと言ってもパソコンすら普及していなかったですから。そんな中、社交ダンスの競技会からサービスを使ってもらえるようになって、市民マラソンにまで広がっていきました。

 

転機になったのが2007年の東京マラソンです。これは欧米で開催されている大規模マラソンを参考にして作られたものでした。世界ではネットで写真を買うことが出来るサービスが当たり前になっていたので、「それを東京マラソンでもやれば良いのでは」と。そして、国内でそういった事業を手がけていたのはフォトクリエイトしかなかった。

最終的にアメリカの会社か、日本のフォトクリエイトか、というのが東京マラソン組織委員会の議題になり、2006年の年末にフォトクリエイトを使うことが決定しました。「2月の大会で、このタイミングでの決定か」と正直思いましたけどね。そこからなんとか準備し、体制を仕上げて2007年の第1回東京マラソンのオフィシャルフォトサービスでフォトクリエイトが入ったという流れです。

ここで“東京都がお墨付きを与えたサービス”となり、他の自治体からも声をかけていただくようになりました。私がやっていた頃は、年間600大会ぐらい、約9割のマラソン大会で導入されました。国内だけではなく、台湾でもサービスを始めました。東京マラソンの実績は本当に大きかったです。

 

ファイターズの“クレイジー”な構想に惹かれた

フォトクリエイトでは上場を果たして代表取締役社長にもなるなど、いろいろな経験をしました。その中で会社としてもスポーツをやりながらも吹奏楽やバレエなど色々な分野に広げていったのですが、当初は断られていた学校写真の分野が非常に伸びてきたんです。

会社としても「市場を考えると今後はそこをメインにやって行く必要があるし、注力するところだ」という考えです。また、新たに結婚式という需要も生まれました。つまり、スポーツという軸よりもライフステージ、人の節目節目で良い写真を抑えていくというステージにフォトクリエイトが入っていったんです。

 

ライフステージを切り取って事業を展開することはフォトクリエイトがやるべきであり、会社の存在意義そのものです。ただ、自分の中ではもうひとつ“スポーツ”という軸があった。その葛藤の中で、新しいステージをやるのは、自分ではないのではないかということを考えるようになりました。

そして、スポーツの世界にもう一度行こうと決意しました。フォトクリエイトに入ったとき“条件関係なくやりたいことをやった方が良い”という基準を持っていたのですが、それを持っていたのが大きかったのかなと。時代背景もあって、アシックスをやめるときにも散々反対されましたけど、結果として自分の選択はこれでよかったと思えた。だから、今回もそうしようと。

 

昨年(2018年)の3月をもって、代表取締役社長を退任することを決めました。そのときに日本ハムファイターズがボールパーク構想を発表していたのですが、これについて前沢(前沢賢・北海道日本ハムファイターズ・取締役事業統轄本部長 )が語っている記事をたまたま読んだんです。

その場所として北広島市が内定したというニュースを3月末に見て、「190万人の都市である札幌を出て5万8000人しかいない北広島市に本拠地を置くというのは普通に考えたらありえない。何があるんだろう。」と思ったんですよ。そして、民間企業が主体となって大きく20年30年使っていくようなものを作ろうとしている。これはすごい発想だなと思って、自らコンタクトを取りました。

結果的にそこで受け入れてもらい、ボールパーク構想を進める一員となりました。タイミング的に今しかできない仕事に携われたのは本当に嬉しく思っています。

元フォトクリエイト社長・大澤朋陸が新天地に“北海道ボールパーク”を選んだ理由

 

“野球好き”以外もくるスタジアムへ

私が担当しているのは事業開発です。ボールパーク全体で“スタジアム内”だけではなく、“スタジアム外“のところにも何を置くかというところで、事業パートナーさんを探しています。その中で感じるのは、結局、野球が好きな人だけに来てもらおうという考えはもう先細りしていています。野球に興味がない人、今まで野球に触れてこなかった人が来るきっかけが、街の賑わいを生み、街の発展につながっていきます。

私たちの世代からすればテレビをつけたら野球をやっていたのが当たり前で、皆がルールを知っているものでした。でも、今はそうではありません。札幌ドームは“球場”としての機能しかないので、本当に野球目的の人しか来てくれない。そうではない人たちを巻き込んでいくような仕掛けをこれは全体で考えていかないと野球は廃れていってしまうと思うんです。

 

これは野球だけではなく、スポーツ全体の話でも言えると思います。生活の中からスポーツが徐々に離れていっていると思うんです。僕らの時代ほど、身近にない。公園でも球技ができなくなってきていますよね。そういった環境の中でちょっとしたスポーツの面白さや楽しさを本当に知ってもらうにはどうしたら良いかというのを、私たちは本気で考えていかないといけない。

ファイターズは【「スポーツと生活が近くにある社会=Sports Community」の実現に寄与したい。】という企業理念があって、野球だけにこだわっていません。野球のチームを持っているからメイン事業が野球になっていますが、それだけではなく“スポーツ全体の価値”を伸ばそうと考えている会社なんです。この思いは、新しい北広島のボールパークで加速できると思っています。

FIGHTERS DINING ROSTER

FIGHTERS DINING ROSTER

FIGHTERS DINING ROSTER

新千歳空港内にある北海道日本ハムファイターズが運営するカフェレストラン「FIGHTERS DINING ROSTER」。本業の“野球”以外でもこういった事業展開をし始めている。

 

今の日本はスポーツが身近にない

例えば「おいしい料理を食べたいから球場に来る」「温泉に入りたいから球場に来る」という人がいても良いと思うんです。つまり、多くの楽しめる場をスポーツを起点として作ろうとしているんです。そういった魅力的なチャレンジを、自分が育ってきた北海道でできるというのはとてもやりがいがありますね。

アメリカではスタジアムの一室が商談の場になっていて、スイートルームはビジネスにも使われていたりする。その後、ご飯を食べて野球を見始めるのは7回から、というのもよくあります。テレビでMLBの試合を見ているとけっこう空席があったりします。

でもそれは埋まっていないのではなくて、コンコースや他の場所に人がいる。席に座らないけど球場に来る人もいるんです。日本とは全く異なる観戦スタイルですが、私たちも参考にしています。見たい人は見る。ただ、そうではない人たちにどれだけ居場所を提供できるか。これが実現できたら、野球の観戦スタイルも変わってくるんじゃないかなと思っています。

北海道ボールパーク

「冬場はどうなるんだ」とか「アクセスが悪い」とか否定的な声が大きく挙がっているのも事実です。

そして、これが成功する確証なんて全くありません。ただそういった逆風がある中でも、私たちはみんなに喜んでもらえるようなものを作っていこうと奔走しています。人口がわずか5万8000人で、アクセスもよくない。事業パートナーを呼ぶと言っても、この場所に、この案に賛同して来てくれるかもわからない。

 

そもそも札幌にあるものと同じものを作っても、結局札幌に行くだけで何の意味もないですから。今までにないものを作ろうとしている大きなチャレンジなんです。スポーツに関わりがない人をどう巻き込むか。

これに取り組まないと、スポーツをやる人が減ってしまう。だからこそ、スポーツが身近にあるというような状態を当たり前しなければいけないと常に考え、動いています。

 

重要なのは、自身の希少性を高めること

スポーツビジネスというものは、華やかに聞こえがちですが、そういったものばかりではないです。基本的に、試合運営、ファンクラブ、チケット、マーチャンダイジングなど、毎日重要ながらも地道な仕事をしています。

しかもナイターゲームだったら夜何時に終わるかもわからないので、結構ハードなんですよね。その中で、単純にスポーツに関わりたい…では続かないと思います。スポーツビジネスと一言で言っても多岐にわたります。何がやりたいのかを明確にすべきかなと。

“スポーツ業界”を特別に見る必要もないと、私は思います。最初からそこにこだわりすぎちゃうと本当に視野が狭くなってしまうので。正直、どこにいてもチャンスは転がってくる。例えばスポーツ業界ですごく頑張った人を採用するかというとそうとは限らないですから。

 

学生さんでこの世界に入りたいという人にアドバイスをするとすれば、いろんな経験をしておくこと。世界を回ってみるとか、何でも良いので何かに熱中していればそれで良いのかなと。

何か徹底的に「これをやってきたんだ!」というのがあるかないかが重要になってくると思います。人がやっていないものであればあるほど、希少価値が出る。そういう人と会うと「面白そうだな」と興味が湧きますからね。その上で、何がやりたかが明確になっている。そういう人たちと共に働けたら良いなと、思っています。