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中田麻衣子は、なぜ地元・宮城に戻る決断をしたのか? 

2015.11.09 / AZrena編集部

中田麻衣子

一度はサッカー選手を辞めるも、再び現役復帰へ

-中田さんがサッカーを始めたきっかけを教えてください。

高校で部活に入ってまでスポーツをするのであれば、強いところに行きたいということで、強かったサッカー部に入ることにしました。そのチームが地元の中学校で練習試合していていたのも、挑戦しようと思った1つの要因でしたね。弟がやっていたということも少し要因にはなったかもしれません。

 

-それまでは何か他にスポーツをしていたのでしょうか。

小学校の時からバレーボールをしていました。

 

-バレーボールからサッカーに競技を変更された理由は何だったのでしょうか。

両方面白いとは思うんですよ!手と足で全然違いますから。ただ、やってみて私はサッカーの方がより「深いなぁ」と思ったんです。なので、サッカーをやってみることにしました。

中田麻衣子

 

-そこからサッカーのプロになろうと真剣に取り組み始めたのはどういった理由があったのでしょうか。

実はその時、将来美容師になりたいと思っていたんです!ただ、高校3年の高総体(高校総合体育大会)で初めて東北で優勝でき、イメージでは全日本女子サッカー選手権大会(皇后杯)に初出場してサッカーを引退しようと思っていました。しかし予選決勝で負けてしまい、それが悔しくて、このまま止めてしまったらきっと後悔するなと思い、顧問に相談したんです。

そうしたら、当時地域リーグに所属していた岡山湯郷Belleへ行かないか、という提案を頂いて、入ることにしました。

 

-美容師から女子サッカー選手へ、高校の部活の結果で変わったわけですね。

はい。たまに友達の髪を切ったりはしていましたけどね(笑)

 

-現役時代のアピールポイントはどこでしたか?得点力もすごくあった印象です。

スピードですね。得点に関しては、下のリーグと上のリーグでは全くレベルが違うので、難しかったです。私の場合、上のリーグでは3点取れればいい方でしたが、下のリーグでは10点取って当たり前と思っていました。

 

-それはやはりディフェンスの質が違うということでしょうか。

そうですね。GKのレベルや他の選手のスピード、技術も大きく違います。2部だとゴール前の落ち着きも変わってきます。

 

-一番選手として印象に残っていることを教えてください。

岡山湯郷Belleで全日本女子サッカー選手権大会(皇后杯)を準優勝したことがあったのですが、決勝戦は男子の天皇杯の決勝の前座でした。天皇杯はガンバ大阪と浦和レッズの対戦で、サポーターも既にたくさん入ってきていて、その人達が応援してくれました。あれほど多くの観客の中でプレーすることなど当時では考えられなかったので、忘れられません。結局決勝では負けてしまいましたが、そのシーズン、リーグ戦はあまり成績としてよくなかったにもかかわらず、そこまでいけたというのはいい経験にもなりました。

 

-反対にきつかったことを教えてください。

1部リーグに上がったのに、また2部に落ちてしまった時は本当にしんどかったですし、どうしようかと悩みました。

 

-中田さんはその後一度短期大学に進学するという選択をされています。

湯郷を辞めた時点で、サッカーは遊びでしかやるつもりはなくて、選手としてのスイッチは切っていました。辞めてからも3ヶ月ほど湯郷で過ごしていたのですが、本当に自分にはサッカー以外何もないと感じました。よく“心にポッカリ穴が開く”という表現をする人がいますよね。自分はそんなこと絶対にありえないと思っていましたが、まさにその状態でした。その期間、仕事しかしていませんでした。

ただ、一緒に働いていた人のお子さんがサッカーをやっていて、たまたま誘われました。私は教える気すらなかったのですが、実際に一緒にボールを蹴っているとやっぱり楽しかったんです。それでまたサッカーをやりたいと思っていた頃にちょうど愛媛女子短期大学からお話を頂きました。

 

-大学時代にはどういった資格を取ったのでしょうか。

健康運動実践指導者にスポーツリーダー、レクリエーションインストラクター、アシスタントマネージャー、スポーツプログラマー、ジュニアスポーツ指導員、キッズリーダーの他、C級ライセンスも個人的に取得しています。時間もあったので、いろいろと取らせてもらいました。

 

-そして愛媛FCレディースで現役復帰されています。

本当はそれも初めはやる気はなかったんです(笑)短大に進学したのも選手として食べていくことが目的ではなく、スポーツに関する資格を取ってその後に活かす予定でした。短大にはサッカー部を立ち上げて、将来、なでしこリーグ参入を目指すチームをつくるのに力を貸してほしいと言われました。そして私の卒業後に社会人チームを作るので、その前身チームで一緒にやってほしいとのことでした。でも短大で良い指導者に出会い、またサッカーが楽しいと思えたので、卒業後ももう少しやりたいです、と言いました(笑)

 

-また最後には古巣の岡山湯郷Belleに戻っています。

愛媛FCレディースは大学から行ったメンバーばかりなので、すごく若いチームでした。そうなると育成が優先されることも多くなり、納得できず消化しきれないこともありました。そこで最後に選手としてもう一度挑戦したいと思い、なでしこリーグに戻ることにしました。

中田麻衣子

仕事とプレーを両立することの難しさ

-岡山湯郷Belleに所属していた時には仕事と競技を両立させていたそうですね。

そうなんです。元々湯郷は町おこしのために立てられたチームだったので、創部当初は選手もみんな旅館で働いていました。私も以前は湯郷温泉の「かつらぎ」というところに勤務していました。初めは厨房で朝から盛り付けなどをしていました。すごい朝早いんですよ!一番早いと6時から仕事です。

 

-プレーと両立させるのは大変そうです。

練習は16時からなので、勤務が終わったらとりあえず一回寝ますよね(笑)最初のうちはあまり職場からの理解を得られていないこともありましたが、そのうち接客もできそうだという話になり、フロント業務をすることになりました。

服装も最初は作務衣を来ていましたが、スーツになり、なぜか最終的にはTシャツになっていましたね(笑)若い人向けの旅館だったので、それに合わせて変化していきました。しばらくしてカフェをつくることになったのですが、ランチタイムに人手が足りないということで、昼からはそちらの方にも回り、最終的には掃除や布団敷き、配膳、食器洗いなどもやっていました。

 

-すごい忙しさですね!

しかし、その頃にちょうどリーグ2部に降格してしまって、今まで試合がある土日は休みにしてもらっていたことに対しても理解を得られない時期がありました。

 

-選手としては腹立たしい反面、もどかしい部分もありますね。

悔しかったですが受け入れるしかなくて、2部の間は試合がある日も軽食を食べる時間までは働いていました。グラウンドまで近かったので、ギリギリまで働いて、試合をしていました。

 

-岡山湯郷Belleに所属していた時はそのように働かれていたということですね。

最後の半年間だけは耳鼻科で受付と聴力検査をしていました!色々はいろいろやらせてもらいましたね。

 

-本当にいろいろなお仕事を経験しているんですね!

愛媛では大学卒業後、チームのスポンサーである三浦工業のグループ会社で事務を3年間やっていました。工場の機械についての作業指示書を出したりもしましたし、伝票処理、電話対応などもしていました。

 

-なでしこリーグのオールスターに選出されたこともあると思いますが、その時は何か感じたことはありましたか。

自分がオールスターに出るなんて恐縮でしたが、それもサポーターのおかげで本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。1年目はただ緊張しているだけで、何もできませんでしたが、2年目は楽しめましたし、サポーターに恩返しできるようにと思ってプレーしました。

 

中田麻衣子が作成した缶バッジ

中田さんは作成した缶バッチを販売し、その売上の一部を募金に充てる活動も行っている。relacionesはポルトガル語で、「繋がり」という意味。

 

サッカーを通して被災地復興支援へ

-そして現在は東日本大震災の復興支援の活動をされています。

震災のあった2011年はちょうど大学を卒業して、社会人になるタイミングでした。まだ仕事も決まっておらず、サッカーを辞めて地元に戻った方が復興のために何かできるかもしれないと、初めは思っていました。しかし、なぜサッカーを辞めたのか問われた時に震災のせいにしてしまったら、後悔するような気がしていたんです。私はそうならないようにしたいし、現役でいた方が自分にできることも多いと判断しました。それで現役を続けるとともにチームに相談して、チャリティフットサル大会などを企画していくことになります。そのイベントは年に1度のペースで継続させていきました。現役を引退してからはより直接的に支援をしていきたいと考えていたので地元に帰り、子供達を対象にしたイベントをすることにしました。

 

中田麻衣子

 

-具体的な活動について教えてください。

南三陸の伊里前商店街の方々にお世話になっていたので、そこの近くの小学校をお借りし、地元の近隣のチームなどを集めて、私がやっていたスクールの子供達も一緒に交流会を兼ねたサッカークリニックを行ったのが1回目のイベントです。

2回目は過去ベガルタ仙台にも所属し、現在海外でプレーされている伊藤壇選手が帰国するタイミングで一緒にサッカークリニックを石巻で開催しました。100人を超える子供達が集まってくれました。

 

石巻で行われたサッカークリニック

サッカークリニックには多くの子供達が集まった

 

-復興支援について誰も何かやりたいと考えていますが、実際に実行できている人は少ないと思います。

なでしこブームも来ていた中で、私にも何かできることがあるのかな、と考えたんです。それで一緒に女の子達と練習をしたりしていました。すると実際に近くでプレーを見て、女の子でもここまでできるというのを見られてよかったという声を頂くこともあり、一緒にボールを蹴る機会をつくっています。今は時間ができるとSC MIYAGIさんと気仙沼西高校さんに行かせてもらっています。

特に市内の中心地から離れたところでは既に過疎化が始まっていて、学校でもどんどんサッカー部がなくなっているのが実情です。SC MIYAGIさんも気仙沼西高校さんもそうで、部員が4、5人しかいません。

 

中田麻衣子

 

 

-活動としてはやはり地元である宮城を中心にやっていくということでしょうか。

そうですね。宮城を中心に行っていく予定で、今はヴォスクオーレ仙台でも働かせてもらっています。

 

-どろんこになりながらサッカーをするイベントにも参加されていましたね。

愛媛県の愛南町で行われているどろんこサッカーというイベントがあって、お声がけ頂いていたのですが、現役時代はチームに所属していたので、行くことができなかったので、引退してから知人に協力していただき、岩手県奥州市で開催させていただきました。

 

-そういったイベントを通してより多くの人に笑顔を届けられるといいですね。

そうですね。今ヴォスクオーレ仙台で仕事をしていて、様々なイベントに参加したり、自分が主催したりすることは地域貢献にあたるので、どんどんやっていってほしいと言われています。それはサッカーやフットサルに限らず、被災地支援に繋がることであれば、クラブや私のやりたいこととマッチしてくると思いますので、積極的に行っていきたいです。

 

-最後に中田さんの今の目標を教えてください。

フットボールを通していろいろな人と関わり、時間を共有して、楽しいことをたくさんしていきたいです。そして一緒に笑顔でいられる時間が長くなればいいなと思います。