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富松恵美は、なぜプロレスから総合格闘技へ転向したのか?

2014.11.05 / 森 大樹

富松恵美。自ら「アゴメタル」「エミメタル」「半熟女」と名乗る、総合格闘技と柔術とヘヴィメタルという3足のわらじを履く女性だ。もともとスポーツから離れていた彼女を、格闘技の道に導いたものとは? 本人に話を伺った。

富松恵美
 
今回は女性総合格闘家・富松恵美選手のインタビューです。熱狂的なファンから選手へと転身された経緯をユーモアを入れながらお話してくださいました。プロレス新人時代の苦労話にも注目です。
 

初めて修斗をテレビで観たときに、これだ!と思った

 
――本日はよろしくお願いします。まずは富松さんの経歴を教えてください。
 
よくありがちなんですけど、アニメ・スラムダンクを観て、小5の終わりからバスケットボールを始めました。その頃は背も大きかったので。今は小さいんですけどね。中学に入って続ける人もいましたが、私はソフトテニスを始めました。特に理由はないのですが、みんな中学で1から始める人がほとんどだったからですかね。すごくソフトテニスもマイナーですけど。ダブルスしか試合はないですし。そこでは副部長だったので、弱小校の中ではレギュラーでした。高校は市立船橋高校に進学しました。
 
――スポーツの名門校として有名ですよね!特にサッカーが強いイメージがあります。
 
だいたい学校名を出すと皆さんすごいよね、と言いますね。たしかにスポーツは強いです。ソフトテニス部からも勧誘がありましたが、アルバイトをしたかったので、断りました。ただ花道部の友達が文化祭の時に陶芸をやっているのを見て、やりたくなったので入ることにしました。高校生にしてろくろに憧れがあったんですね(笑)。
 
でも花道部員は3人しかいなくて、先生も強風の日は危険だからお休みしてしまうくらいの本当におばあちゃんでした。陶芸の先生はたまたまクラスの担任の先生でした。ろくろの上の土は柔らかいイメージがあると思うんですけど、初めは固いのであそこまでにするにはすごく力が必要なんですよ。だから先生はすごくいい前腕をしていましたね。その先生にお願いして、陶芸をする工房研究会というのも立ち上げたりしました。
 
――スポーツから完全に離れていたのですね。その後どのように格闘技に興味を持つようになったのでしょうか。
 
元々母が女子プロレスラーのブル中野が好きで、記憶はないですが小さい頃に全日本女子プロレスに連れて行った写真が残っていたりします。中学の時は新日本プロレスを観ていました。母が元々ヘヴィメタラーだったので、それを聴かされていました。その曲を蝶野(正洋)とか武藤(敬司)とかが入場曲として使っていたので、もうこれは応援するしかない、と。
 
――小さな頃からプロレス好きになるように擦り込まれていたわけですね(笑)
 
高校に入ったらたまたま同じクラスにプロレスが大好きな女の子がいました。お風呂で毒霧の練習をしているくらいの子です(笑)その子と意気投合してしまいました。いとこのおばさんが新日本プロレスのチケットを売っている人らしく、身内の結婚式に(アントニオ)猪木が来た写真を見せてくれたりしました。
 
それでその子と試合を東京ドームに観に行きました。最初はプロレスだったんですけど、そもそも総合格闘技を知らなかったんです。ただ初めて※修斗をテレビで観たときに、これだ!と思ったんです。
 
それで先ほどのプロレス好きの子に一緒に試合観戦に行こうと声をかけたのですが、プロレスしか信じないと言われてしまいました。でも本当にすごいから、チケット代出すから来るように誘いました。私も観に行くの初めてだったんですけどね(笑)。
 
テレビでも放送があったので、録画予約してから観に行ったのですが、帰ってきてそれを再生すると一緒に行った友達の子が選手を応援する声がすごい入っていました。もうすごいファンになってたんですね(笑)それから修斗の追っかけみたいなことをしてました。だいたいバイト代をそれにつぎ込む感じです。
 
※修斗……総合格闘技団体の名称。打撃と組み技の高いレベルでの融合を理想としている。
 
――当時から選手になりたいと考えていたのですか。 
 
その時は特に考えていなかったですね。友達と休み時間にプロレス雑誌を見て盛り上がるぐらい好きではありましたけどね。そういった雑誌の編集者になりたいとは考えるようになってマスコミ科があるような大学を見たりもしましたが、金銭的な問題もあって難しかったですね。
 
富松恵美
 
――では、どのように格闘技の世界に入っていったのでしょうか。
 
高校生の時から格闘技専門チャンネルに自分で加入していたのですが、そこでジャガー横田さんがプロレスの大オーディションをやりますと言っていたので、それを就職にしようと考えました。でも当日行ってみると大オーディションのはずなのに2人しかいなかったんです(笑) まさかですね(笑)それは驚くと思います。
 
横浜に吉本工業が作ったプロレス団体「吉本女子プロレスjd'」があったんです。そこで試合が終わり、お客さんがいなくなった後入団テストをしました。ジャガー(横田)さんや選手や社長がずらっと並んでいる中、テストを受けました。たくさんいればいいんですけど、2人しかいないので、すごく集中して見られるんですよ(笑)しかも母にジャガーさんのサインを頼まれて、オーディションの後にもらいました。
 
――それはかなり勇気が必要ですね。
 
無事入団テストに2人とも合格したのですが、もう1人の子は短大生で大学を留年することになって入れないことにことになって、結局1人で入団することになりました。
 
――大オーディションとは具体的にはどのようなことをしたのでしょうか。 
 
あまり記憶にないのですが、いわゆる基礎体力テストですね。腕立て伏せ、スクワット、縄跳びなどだったと思います。入団が決まると寮に入ってもらうから布団を持参するように指示され、家族と車で持っていったのですが、荷物を置く間もなく走りに行くから、と言われました。別れを惜しむ間もなかったのであの時は寂しかったと今だに親は思っているらしいです。
 
――いよいよ格闘技の世界に一歩足を踏み入れたわけですね。
 
そこからまずは大阪でのプロテストに向けた練習が始まりました。当然受け身はできないといけませんし、ロープワークやレスリングのスパーリングなどもやらないといけません。でも本番の1週間前までロープワークを教わっていなかったんです(笑)それまでは受け身と基礎体力を付けていました。
 
――自分から頼んで初めて教えてくれたということですか。
 
そうですね。もう本番が数日後に迫っているというところで教えてもらいました。皆さんロープは柔らかいイメージをお持ちだと思うのですが、慣れないと痛くて背中がコブみたいなものができます。中にワイヤーが入っていて、固いんですよ。
 
――外からは柔らかそうに見えます。
 
本番では同期の子とスパーリングをすることになったのですが、試合中になぜか耳から大流血してレフリーストップがかかってしまい、合格できませんでした。歯か何かが当たったのだと思います。2回目のテストで無事合格して、その年の夏に後楽園ホールでデビューしました。 入寮してハードトレーニングも多くなったと思います。
 
――体力面で付いて行くことは難しくはなかったですか。
 
とりあえずプロテインを飲んでいれば強くなると思い込んでいたので、トレーニングも大してせずに飲んでいました(笑)ただオーディションの次の日のバイトは筋肉痛でガチガチでしたね。バイト先の店長がプロレス好きだったので、よかったです。
 
――新人選手はやはり先輩方の雑用をすることも多かったのでしょうか。
 
とにかく先輩の世話をしてましたね。みんなはそれが嫌で布団だけ置いて逃げてしまう人もいました。逃げた後に布団だけ送って欲しいと連絡が来たり。知るかって話ですけど(笑)。
 
富松恵美
 

病気に苦しめられ、プロレス界から引退

 
――辛かった経験を教えてください。
 
吉本興業の団体なので、月1くらいで大阪のNGKホールで試合があるんです。お金がないのでバス移動なのですが、前の方の席に座って後ろで寝ている先輩の席で物音がする度に気を配らないといけないんですよ。なので全然仮眠できません。サービスエリアでは運転手と話をして、休憩時間の調整、案内をします。遠征先では近くにあるコインランドリーをリサーチして衣装を洗えるようにしたり、途中にみんなで入れる入浴施設を探したりします。
 
――そういったことまでするのですね。会社がやってくれたりはしないのですか。
 
自分達でリサーチしてまとめたものを会社に伝えるという形ですね。大阪行く時には寝た記憶はないですね。理不尽なこともたくさんありましたけど、先輩のせいにはできません。でも慣れてしまえば大抵のことは辛くないですね。あの時があるから今があるし、きついことがあっても乗り越えられるだろうという自信にはなっています。
 
――なかなか慣れるものではないですし、すごい精神力だと思います。そのような苦労を経てプロレスデビューを果たすというわけですね。
 
はい。ただデビューはしたのですが病気になってしまいました。2回離脱・手術、復帰したのですが、3回目再発した時の手術が大掛かりなものだったので、プロレスは引退することにしました。デビュー戦と同じ後楽園ホールで引退式を行いました。
 
富松恵美
 
――2回再発して、離脱されていますが心が折れてしまうことはなかったのでしょうか。
 
やはり自分の同期がどんどん活躍していくのを見て、刺激を受けていましたね。3回目に復活する時に全日本女子プロレスのジュニアトーナメントに出させてもらったのですが、プロレスでは結局そこでのリーグ戦での1勝くらいしかしていないです。
 
富松恵美
 

格闘技の魅力と、競技での苦労と喜び

 
――プロレスを引退された後に柔術・総合格闘技の道に進んだ経緯を教えてください。 
 
プロレスラーはすごい食べるんですよ。食べなくても先輩が食べろと言いますし。動いていないにもかかわらず引退してからも自分はアスリートだと思い込んでその調子で食べ続けていたら、太ってきてしまって。これはまずい、ということで外で走ったり縄跳びをしていました。そうしてトレーニングしていたら脛(すね)が疲労骨折する寸前までいってしまいました。基本的にやりすぎてしまうタイプなんです。
 
おそらくアスファルトが脚によくないのだと思ったので、家の近くのスポーツジムに通うようになりました。そこでエアロビみたいな格闘技(ボディコンバット)というのをやっていたら、自分が格闘技をやりたかったのを思い出したんです。今所属しているパラエストラ松戸は学校とは別の方向にあったので、高校時代は行くのを諦めていたのですが、これを期に例の毒霧の女の子を誘って行くことにしました。今彼女は子供も2人生まれて家庭があるのでやっていませんが、結構強かったです。
 
――それでパラエストラ松戸で柔術を始めたわけですね。
 
初めてから半年後くらいに千葉の松戸で柔術の全日本大会があって、それにみんなで出ようという話で盛り上がり、出場することになりました。その当時は柔術が熱くて、ジムにも活気があり、練習場所がないくらいでした。大会も全日本ということもありましたが、5面くらいあって1面で100試合程組まれていました。
 
でも私はなぜか1試合目で、しかも日系ブラジル人みたいな選手が対戦相手だったんです。結局ポイント負けしてしまい、悲しいデビュー戦でしたね。それからは経験が大切だと思ったので、積極的にアマチュアの大会や胴着を着ていない※グラップリングの試合など、出られる限りは出るようにしました。女子の選手は少ないのですぐにプロの大会の誘いが来るんです。
 
でも男子だとすごく選手の層が厚くて、例えば修斗であれば地方のアマチュアの大会があり、そこで入賞して全国大会に出て、またいい成績を残さないとプロの試合には出られません。知り合いの人でもアマチュアだけで50戦している人がいます。
 
なので、自分もそうしたいと考え、東日本アマチュア選手権で優勝して、小田原での全国大会に出ました。そこでは今JEWELSのプロデューサーをしている茂木康子選手に負けて準優勝でした。その後、女子版修斗が開催されるということで、参戦することにしました。
 
※グラップリング・・・寝技全般、すなわち組み技と関節技で闘う競技の総称。打撃技は一切禁止。
 
――格闘家としてご活躍されている間は別の仕事をしていたのですか。
 
親の会社で働きながらやっていました。プロ格闘家と言ってもファイトマネーはバイト代くらいしか出ません。格闘家というより普通の会社員という気持ちの方が強いかもしれませんね。今も働いてから、ジムに行って、という形です。
 
――格闘技の魅力とは何だと思いますか。
 
リングはカッコいいですし、自分がプレーしているわけではないですが、感動や勇気を観ている人に与えてくれます。もちろん他の競技もそうだと思いますが、私にとってはそれが格闘技でした。あんなに輝く人がいるなら自分もやってみたいなと考えるようになりましたね。
 
――競技をする上で苦労したことを教えてください。
 
苦労したことは・・・あまりないですね。プロレス時代にいろいろあり過ぎたので、周りからは苦労しているように見えるのかもしれませんが、実はそうでもないです。挙げるとするならば仕事してから練習して、家に帰るのは日付が変わるくらいになり、また朝6時頃から仕事なので、眠いということですかね。
 
今はあまり車の運転はしないですが、以前はしていて、それで居眠り運転をしてしまい、車を大破させたことがあります。川のほとりに突っ込みました。エアバッグが出た瞬間、スローモーションで見えて、避けちゃいました(笑)
 
――エアバッグを避けたという話は初めて聞きました(笑)。反対に嬉しかったことを教えてください。
 
仲間が増えたことですね。一緒に練習しているので、当然試合で勝てば喜び合いますし、チームの絆が生まれました。あとは今は家族がすごく応援してくれます。妹が音楽をやっていて、それを登場曲にしているんですけど、その曲を使っている以上負けたら許さないと厳しいことを言われています。親戚も観に来てくれます。一族が集まる機会が私の試合か、お墓参りかになっていますね(笑)勝てばもちろん喜んでくれますけど、負けても頑張っている姿を見て褒めてくれるのが嬉しいです。
 

何でもやりたいと信じ続けていればいつかできる

 
――初めはやはりご家族の方は心配していたのですか。
 
あまり観に来てくれませんでしたし、試合で内臓が破裂したことがありました。その時はさすがに母はやめるように言っていましたが、父は自分の夢を途中で諦めた過去を持っていたようで、私にも妹にもとことんやるように勧めてくれました。
 
富松恵美
 
――すごくご理解のあるご家族ですね。 もし格闘技をやっていなかったら何をしていたと思いますか。
 
大学に行けていたら編集者になっていたと思います。あとは中学の頃に競馬の騎手になりたかったです。祖父が競馬好きだったんです。馬の目はすごくかわいいんですよ。家の近くに日本で唯一の競馬学校があったので、資料を取り寄せたりもしましたが、視力と体重制限でダメでした。あまり女性が活躍していないところで活躍したいという気持ちはあったのもしれませんね。今もそうですが。
 
――格闘技以外の趣味はありますか。
 
ヘヴィメタルとラーメンですね。(ヘヴィ)メタルは家族の影響で、今もライブに行くのが趣味です。もちろん格闘技の試合も観に行ったりします。あとは最近ゲームセンターのコインゲームにハマっています(笑)
 
――富松さんが思うご自身の魅力は何ですか。
 
誰とでも仲良くなれるところだと思います。苦手なタイプもありませんし。
 
――ファンの人も話してくれたりすれば嬉しいですよね。
 
ファンがいないと成り立たないじゃないですか。身内だけでやっていても広がっていかないですし。貴重な意見を言ってくれる時もあります。
 
――女子格闘技ならではのエピソードがあれば教えてください。
 
これは私特有だと思うのですが、元々肩パッドというあだ名で呼ばれていたんです。肩幅が広かったからですね。電車の席で明らかに座れるだけのスペースが空いているのに肩だけ入らないことがあります(笑)。
 
あとは荷物が多いですね。総合格闘技の練習着と胴着、最悪の場合はミット打ち用、スパーリング用、総合格闘技用グローブが加わり、さらにヘッドギアやニーパッドは必要な時もあります。練習後には汗を吸うので、その分だけ重くなりますし。ドラゴンボールの亀仙人みたいな感じですね(笑)たくさんの洗濯物も梅雨の時期はなかなか乾かないです。
 
――最後に読者にメッセージをお願いします。
 
私はファンから入って、自分が憧れのリングに立つとは想像していませんでしたが、何でもやりたいと信じ続けていればいつかできるので、目標を持ってやっていって欲しいと思います。そして女子格闘技は存在すら知らない人も多いですが、男子に負けないように技術を練習し、レベルも上がってきているので、ぜひ観に来てください!
 
<了>