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【前編】地元・静岡に返り咲いた市川大祐。怪我との闘いを乗り越え、再び“王国”で輝きを放つ

2014.11.20 / 森 大樹

市川大祐

今回は日本を代表するSB(サイドバック)の1人であるサッカー・市川大祐選手にお話を伺います。市川選手は清水エスパルスユースからトップチームに昇格され、1998年には「17歳322日」という史上最年少で日本代表の試合に出場された記録をお持ちです。その後2002年日韓ワールドカップに出場し、ご活躍されました。清水エスパルス退団後はヴァンフォーレ甲府、水戸ホーリーホックを経て、現在はJ3藤枝MYFCに所属されています。

 

サッカー王国・静岡でプロを目指す

 

-まず始めにサッカーを始めたきっかけを教えてください。

清水という土地柄もあって遊ぶといえばとにかくサッカーというものが身近にありました。兄が3人いまして、サッカーをやりたかったのですが、父が野球をやっていたので、実は最初はすぐにサッカーとはならなかったんです。ただ友達の誕生日会でみんなはサッカーをやっていて、お前だけサッカーじゃないと言われて泣いて帰ってからはやらせてもらえるようになりました。

 

-お父様は野球で期待していたのですね。

兄達がサッカーをやっていましたが、レギュラーではなかったのでうちはサッカーはダメなのだろうと思っていたのかもしれません。やはり自分がやっていた野球だろうと。でもサッカーをやり始めたら父親ものめり込んでいきましたけどね。応援してくれました。

 

-いつから選手としてプロになりたいと思うようになりましたか。

清水FCという選抜チームで地域のトップレベルの選手達とライバル心を持って刺激を受けながらプレーできたので、そこからプロになりたいと思うようになりました。

 

-ポジションはずっとDF(ディフェンダー)ですか。

小学校の最後の大会で少しだけFW(フォワード)をやったこともありますが、基本的にはDFです。圧倒的に長いです。ジュニアユースの初めはCB(センターバック)をやっていました。その後はずっとSB(サイドバック)で、ポジションの楽しさを感じながらやっていました。CBをやっている時からオーバーラップをするのが好きだったので、SBになったことで攻撃参加する機会が増えたので面白かったですね。

 

-SBとして活躍するために練習で重視した点を教えてください。

もちろんクロスの精度を上げることも大切ですが、やはり攻撃参加するタイミングですよね。むやみに上がってパスを出せる選手がいないといけませんし、どのタイミングで走られたら相手が嫌なのか、やりながら経験として培っていきました。相手選手やフォーメーションによっても変わりますから。いろいろなことを考えながらどのポジションを取るかを考えます。

 

市川大祐

日本代表として活躍するも、様々な苦難を経験

 

-初めて代表に選ばれた時のお気持ちを教えてください。

エスパルスから代表に入ったと言われた時、初めはユースかオリンピック代表だと思っていました。でもフル代表だったので、なぜ自分がというのが率直な感想でしたね。Jリーグの試合にも2試合しか出ていなかったのにメンバーに入ったんですから。それも特別いいプレーができていたわけではありませんでした。代表に合流した時は僕の出身が清水エスパルスユースと書いてあったので、間違って印刷されているとみんな思っていたみたいです。

 

-そこから清水の街を歩きにくくなったりしたのではないですか。

特にはなかったですよ。街を出歩く時間もあまりなかったですからね。学校が終わると車で迎えに来てもらって練習場に行き、トップチームと練習をしていました。土曜日は試合をし、水曜日も19時から試合の日は午前中学校に出てから行っていました。

 

-1998年フランスワールドカップの時は惜しくも落選という形でしたが、2002年日韓ワールドカップは見事選出され、ご活躍されました。その時の心境の違いを教えてください。

98年は自分の感覚としては実力で勝ち取ったものではなくて、タイミングがよく、そこに連れていってもらったという感じです。岡田監督もおっしゃっていましたけど、その伸びしろにかけてみたかったということですね。本選には選ばれなかったのでチームに残るか帰るかは僕の自由だと言われました。僕はやはり出る選手達と練習をして、生活をしてというのはなかなかできる経験ではないですし、学ぶべきところも多いと思ったので、残らせてくださいという話を岡田監督にしました。ちょうど僕が残ることで紅白戦が11対11でできるんですよ。そうなると僕一人がワールドカップに出ないからと言って気の抜けたプレーをすればみんなに迷惑がかかるので、非常に緊張感のある中で練習することができました。スタッフのパスをもらって間近でワールドカップを観ることもできました。しかし足を入れればピッチに入れる一番近いところで観ていても一歩ラインを越えた先のワールドカップというのはまだまだ遠く感じましたね。

 

-それで2002年にリベンジを果たすわけですね。

2002年は最後にようやく呼んでもらえたというのがあります。2001年もJリーグで結果を残していて、やれる自信はあったのでいつ呼ばれるのかなと思っていました。調子もよくていつでも来いという形でしたね。でもなかなか呼ばれなくて。2002年になって呼ばれた時は、嬉しかったです。試合も出ることができましたし、良い経験になりました。

 

市川大祐

 

-いろいろな選手がケガや病気で苦しまれていると思いますが、市川選手が苦労されたオーバートレーニング症候群についてお聞かせください。

98年が終わって、99年になった時にすごく体がだるくて、全然夜も寝られなくなってしまったんです。目が冴えてしまって布団に入っても明け方まで寝られない日が続きました。おかしいなとは思いつつプレーを続けていました。そんな中のある日の試合で、後半途中から急に手が痺れてきてしまってジョギングすらできない状態になってしまいました。当時の監督、スティーブ・ペリマンがイチ(市川選手)がおかしいということでシーズン始めに行うのと同じ呼吸代謝テストをしました。マスクを付けて15分くらい走るんですけど、横で先生が首を傾げていて、結局途中で止められて、完全にオーバートレーニング症候群だと言われました。体力が普通の人以下になってしまっていたんです。練習して疲れても回復しないので、どんどん疲労が溜まっていくんですよ。そして、動きが悪くなっていく。でもそんなことはわからないので、僕はもっと体のキレを戻すために練習をしないといけないと思っていました。このままやり続けるとうつ病になるから今すぐゆっくり休むように言われました。自分でも思い当たる部分はあったんです。住んでいた寮の3階まで登るだけで息切れしていたんですよね。だから、その違和感の原因がはっきりしてちょっと落ち着きました。早く見つけてもらってよかったです。

 

-なぜオーバートレーニング症候群になってしまったのでしょうか。

やはり98年にあれだけの緊張感の中で学校に通いながら休みも無い中でプレーを続けていたからだと思います。当時の忙しさを考えると、かかって当然だったのかもしれません。病気が見つかって第一にほっとしました。そこから2週間くらいは練習場に行っても自転車を20分くらい漕いでウォーキングして帰るような形でした。それを続けていき、落ち着いたところで再度呼吸代謝の検査を受けたら、数値が回復していたので徐々にトレーニングを元に戻していき、1ヶ月くらいで試合に復帰しました。もっと見つかるのが遅ければ回復も遅れていたでしょうし、復帰できなかったかもしれません。本当に、見つけてもらえてよかったです。選手自身は分からないものだと思いますね。福島での合宿にトルシエから呼ばれた時もオーバートレーニング症候群で無理すると選手生命に関わるという話をしたところ、すぐに帰るように指示されました。結局トルシエにはそれ以降呼ばれなくて、市川は電車に一本乗り遅れたと言われていました。

 

-また、2013年2月の膝の軟骨の手術は挑戦だったと思います。

今までの手術は何年か経つとまた痛んでしまっていました。今回は自分の骨を移植するというサッカー選手としては前例がないものだったので、賭けではありましたが、先生との信頼関係の下、選手としてピッチに立つためには乗り越えないといけないところだったと思います。長くサッカーをやっていても1年として同じ年はないですし、感じるものは違います。サッカーに真摯に向き合えばまだ成長できるのだと感じる出来事でした。

 

-尊敬する選手はいますか。

清水エスパルスには本当にすごい人達ばかりで見ているだけでプロというのを学べたので、誰というのはなく、そういう集団でしたね。今でもその中でプレーができたことは誇りに思っていますし、僕がサッカーやっている上でつくられたものはエスパルスでの影響を受けています。

 

【後編】へ続く