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選手の価値を“適正評価”。国際バスケ連盟認定エージェントが明かす「結果が全て」な代理人の世界

2016.10.07 / AZrena編集部

古賀敏陛氏

エージェントの仕事は正直不安定です。4月頃から7月末までの間に成果を上げなければなりませんから、自分が営業をした結果が全てであるので完全歩合ですし、選手が売れなければゼロ円。決して“安定”はありません。(株式会社ジャパン・スポーツ・マーケティング 古賀敏陛)

 

NPO法人スポーツ業界おしごとラボ(通称・すごラボ)の理事長・小村大樹氏をホスト役として行われている「対談すごトーク」。前回は6月に行われた“公開すごトーク”を掲載しましたが、今回はスポーツ業界を目指す人の間で人気の1つになってきている「エージェント(代理人)」について語られた非常に貴重な回をお伝えします。

エージェントとはどのような仕事なのか。国際バスケットボール連盟(FIBA)認定エージェントで、数多くのバスケットボール選手の代理人を務めている古賀敏陛氏にお話を伺いました。

サッカーからバスケットボールへの転身

私は小学生まではサッカーをやっていたのですが、進学した中学校にはサッカー部がなく、姉の影響でバスケットボール部に入りました。これがバスケとの出会いです。そして、バスケで高校進学の推薦を頂くことができました。ただ、進路を考える際、いわゆる強豪校に進学しても身長が高くないので試合に出られないだろうと思っていたので、“全国まであと一歩”というような高校に入ろうと考え、九州産業大学付属九州高校に入学しました。

高校時代は3年生の時はキャプテンでしたが、ベンチ(控え)メンバーでした。でも将来のことを考えたとき、「バスケを教えたい」という気持ちがあったことから、教員への思いが生まれ、当時アシスタントコーチをしている人のアドバイスもあって、九州産業大学に内部進学しました。入部したバスケ部で大学4年時には主務を担い、寮を寮母さんと一緒に運営・経営をするということをして、お金の面の運営から料理まで幅広い経験ができました。

先輩の結婚式に履歴書を持参し、“日本一”のチームへ

大学では社会科の教員免許も取得し、教員を目指していたのですが、教員の空きの枠がなく、すぐには学校の先生になれない状況でした。大学の監督から卒業後に何をしたいのかを問われ、「バスケットボールを勉強したいです」と解答したのですが、それを聞いた監督が『勉強したいのならば日本一に行くのが良い』と言ったんです。

ちょうど私の4歳上の先輩にいすゞ自動車に入った人がいた縁で、大学の監督といすゞ自動車の小浜元孝監督は親交が深かったんです。そして、小浜監督は当時日本代表の監督も務めていたので、“日本一のヘッドコーチ”と言われていました。その時期に先に話したいすゞ自動車に入社した4歳上の先輩の結婚式が偶然重なり、監督から『横浜で行われるその結婚式に行くから、お前も履歴書持ってついてこい』と言われたのです。

結婚式の会場の1階で監督と待っていたら、小浜監督がやってきて『お前が古賀っていうのか。バスケットボールを勉強したいらしいな。ウチで勉強したいか?』と。「いすゞ自動車に行って何をするのか、何の仕事なのか」という質問もできる雰囲気はなく、「はい」とだけ答えると、小浜監督から『お前のことはよく知らないけど、この監督さんのことは好きだから、お前を採ってやるよ』と言われて、私の就職先が決まりました。

古賀敏陛氏

エージェントになったきっかけは、ある“外国人コーチ”との出会い

当時はまだまだ“旧態依然”で、派閥の色が濃い時代でした。例えば、旧いすゞ派の人間が他のチームに行って仕事をするというのは、その人にどれだけ力があったとしても、なかなか難しい時代でした。そのような背景もあり、エージェントのように橋渡しをする人もいませんでした。

私は最初からエージェントになろうと思い活動を始めたわけではありません。偶然の重なりがあったから今があると思っています。そのきっかけがトーマス・ウィスマンという人から移籍先の相談をされたことです。ウィスマンは後に日本代表ヘッドコーチやリンク栃木の監督をすることになる人物ですが、当時はいすゞ自動車で小浜監督の下でアソシエイトヘッドコーチを務めていました。ただ、いすゞ自動車が廃部となって、次のチームを探していたのです。私も協力をし、リーグに所属する全チームに交渉をしたのですが、全てから断られました。

そこで考えたのは、男子チームにこだわるのではなく、女子チームにもアプローチをしてみようということです。そして、女子チームの監督の経歴を調べた結果、アリゾナ大学にコーチ留学をした経験があり、アメリカのバスケットボールの指導者に理解がある内海知秀監督(後に女子日本代表監督として五輪チームを率いた名将)ならウィスマンの良さを理解して受け入れてくれるのではないだろうかと思い、アプローチをしました。

チームもコーチを探していたこと、内海監督自身からも興味を頂いたことから、ウィスマンを2005年から女子WリーグのJOMOサンフラワーズでアソシエイトヘッドコーチ(助監督)に就任させることができました。

ただ、彼は日本語ができなかったために通訳が必要で、チームからその相談をされ、年間契約の通訳を私が引き受けることになったのです。これを機にバスケットボールに特化して様々なことをしていこうと思い、有限会社ファイブスター・マネジメントを設立しました。今思えば、エージェントらしいことをやったのはそれが初めてでしたね。

日本人FIBAエージェントはわずかに6人

国際バスケットボール連盟(FIBA)のエージェントライセンスというものがあるのですが、私はそれを取得しています。スイスにあるFIBAの本部で年2回、アメリカ大陸やオーストラリアで1回ずつ、取得するための試験は合計で年に4,5回しかやっていません。25問の4択問題試験で8割正解しないと取得できません。試験の題材としては選手登録制度など民法に近いルールブックが英語であるので、それを勉強します。年会費が1,000フラン、日本円で12〜15万くらいです。

試験に合格して年会費を毎年払っていれば、FIBAのエージェントとして活動ができます。エージェント業務、いわゆる移籍交渉には、その国の弁護士資格を持っているかFIBAのエージェントライセンスを持っている人しか携わってはいけないというルールがあります。ちなみに、現在の日本でFIBA公認のエージェントライセンスを持っているのは6人です。

古賀敏陛氏

代理人の報酬形態の実情

エージェントフィーの売り上げは、日本の場合は選手の契約金の8〜10%が目安です。外国人の移籍ケースで多いのは、選手を獲得してくれたチームが私に対しフィーを払ってくれることですね。そして、払ってくれた金額をパートナーとして組んでいるエージェンシーと50%ずつ分けるというのが基本です。

日本人の場合は選手の給料からいただくという形になります。ちなみに、NBAの場合は上限が5%で下限が3%と選手会(組合)で決まっています。1億円の3%は300万円、10億円の3%は3,000万円ですね。エージェントは何人もの選手を抱えているため、選手の年棒を超える額を取得している人もいます。ただ日本のバスケ界の現状では、一番年棒をもらっている選手でも5,000万円はいないと思います。(インタビュー当時)

エージェントの仕事は正直不安定です。移籍市場が開いている4月頃から7月までの間に成果を上げなければなりませんから。自分が営業をした結果が全てなので完全歩合ですし、選手が売れなければゼロ円。決して“安定”はありません。だから、営業力が大事です。営業をやったことがある人はわかると思いますが、人脈も大事です。そして何よりも自分の信用。『この人が言っているのだから間違いないな』と思ってもらえる状況を築けるかが大事です。

「バッテン」をつけられるのは選手ではなく代理人自身

私は安い選手を高く売るつもりはありません。なぜなら、それは私の信用にかかわるからです。例えば1,000円のものを10,000円で売ったら詐欺だと言われます。100円を150円で売っても高いと言われます。ある100円の商品に対する適性の利益が20%だとしたら値段は120円となりますが、そこで初めて消費者は『買う』となるんです。

あとは、自分の目利きです。いかに選手を見て値段を判断するか。外国人のエージェントから選手の値段を言われ、実際にプレーを見て、自分自身の判断でそれだけの価値があるのかを判断できるか否かはとても重要です。

チームに対して「この選手はこの値段の価値があります」と伝えて、信用して買ってくれたにも関わらず、結果的に成果を出せなかったとしましょう。そうなったときに『何だ、この選手は』と言われ“バッテン”を付けられるのは、選手自身ではなくて私なのです。ですから、自分のためにも信用度合を落とさないよう仕事をすることを心掛けています。

私は流れの中でエージェントになりましたが、それでも「使命感」を持ってやっています。成功している人はやり続けているから成功しているだけであって、同じことをやっていても運が悪く失敗している人はたくさんいます。スポーツ界を目指す皆さんには、自分のやりたいスポーツのことを調べて、ゴールと一歩目を決めて一生懸命頑張って欲しいですね。