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中川聴乃が、バスケと歩んだ半生。「生まれたときは仮死状態でした」

2017.01.26 / AZrena編集部

中川聴乃、元女子バスケットボール選手。小学生の頃から将来を嘱望され、2006年ドーハアジア大会以降は日本代表でも活躍した彼女。バスケのために越境進学をし、実業団に入った後も度重なる怪我に苦しめられた中川さんの半生と、引退した後もスポーツ業界に関わることになった経緯について伺った。

中川聴乃さん
NPO法人スポーツ業界おしごとラボ(通称・すごラボ)の理事長・小村大樹氏をホスト役として行われている「対談すごトーク」。今回はバスケットボールの名門・桜花学園からシャンソン化粧品に進み、日本代表にも選ばれた経験を持つ中川聴乃さんのお話を伺いました。バスケのために越境進学をし、実業団に入った後も度重なる怪我に苦しめられた中川さんの半生と、引退した後もスポーツ業界に関わることになった経緯についてお話して頂きました。

 

出生時に言われたのは「99%助からない」

医者からも99%助からないと言われた仮死状態で私は生まれました。助かっても身体に支障が残ると言われており、そこから小学校までは定期的に病院に行って検査していました。

生まれて1ヶ月くらいは母と会えず、髪も生えてこなくて、未だに生えていない部分もあります。もっと言うと、生まれる前に母も私も危ないと医者から聞かされていて、『どちらを助けるか決めてください』と言われていたらしいんです。

そういうこともあり小さい頃は入院する期間が多かったんです。運動は好きだったのですが、運動会に出られなかったことはありましたね。

 

とはいえ周りとも普通に遊んでいて、運動を制限されていたという記憶はないです。バスケと出会ったのは小学4年の時。当時の担任がミニバスの顧問で、身長も大きかったし運動神経も良かったこともあって、誘われました。

とにかく負けず嫌いだったし、運動会でも一番にならないと気が済まない性格だったので、一番になりたいから一生懸命やっていました。そして、小学校を卒業後は長崎の私立中学に進学しました。中学に入ってからも身長は高かったんですけど、上手くはありませんでした。ちなみに小学校卒業で168cm、中学で178cmありました。

1年目に全国大会も経験して、2年の時には全国3位までいきました。私は身長が高かったので連れて行ってもらえましたが、周りの人たちからしたら『あの子下手なのになんで出ているんだろう』と思われていたと感じています。上手じゃないとは自覚していたので、私でいいの?という感覚もありました。

だけど、とにかく本当に素直だったので言われたことを一生懸命、とにかくやって、自分に取り入れました。その結果、成長していくのは早かったんです。中2の時にはスタートから出て、全国大会でも主力で活躍できました。長崎選抜も選ばれていました。一貫校だったこともあって上の高校にそのまま進み、U-18代表にも選出され、その合宿でも即レギュラーで使われたりもしました。そして、インターハイや国体を通じて、日本一になりたいという想いが強くなりました。

想いが強くなるにつれて今いる学校では物足りなくなり、そんな中で転校先を探し、最初に強豪である桜花学園を見に行きました。ピンときましたね。「ここだ!」と。それが1年生の冬です。

 

名門で感じた環境の違い

桜花に行って思ったのが、プライドが高い人たちがたくさんいるということ。先輩や先生は手厚く歓迎してくれたんですけど、行った時に「よくきたね、がんばろう」というのはあまりなくて。

寮生活の当番とかの段取りも何も同級生は教えてくれないんですよ。自分で見ながらやる、みたいな。最初は凄く心細かったけど、友達を作りにきてるんじゃないと言い聞かせながらとにかく自分で見て寮生活の役割などを学びました。部員は1学年8人までで、全寮制です。一般受験の人は余程の実績や力がない限り部に入れないし、トライアウトという形で全国から桜花に入りたい人達がくるのですが、その中でも桜花に入学できるのはまれです。

 

友達らしい友達はできませんでした。後輩で慕ってくれたり、先輩で可愛がってくれたりする人はいたんですけど、同級生で仲良くずっと一緒にいたという人はいなかったですね。ずっと1人です。今では仲良くしていますけど(笑)。高校の時はとにかく練習も超一流で、実業団以上でしたね。スポンサーも夏はアシックスで冬はナイキで、ウェアが毎年全部支給されるんです。女子の実業団でそんなことはまずないです。

ボールも夏冬で変わります。体育館は冷暖房、トレーニング室も治療室もあってトレーナーも付いている。すごく恵まれた環境で、一流の世界を見て自分の中での固定観念をなくすことができました。

その中でも井上監督には凄くお世話になりました。今も勝ち続けている桜花学園は、自慢の母校です。

 

卒業後は9年間、怪我との戦い

卒業後は実業団のシャンソンへ3月に入団し、5月には日本代表合宿へ参加したのですが、膝が急に腫れてきて、そこから9年間はずっと怪我との戦いでした。手術も3回くらいしましたが、全く治らない。だけど、試合には出たいから治っていないのに大丈夫といってどんどん無理をして、最終的には練習ができない状態になりました。

 

最初に入ったシャンソンで7年間プレーをした後、デンソーに移籍をしました。デンソーは選手層がすごく厚くて、若手もこれから伸びると思っていたし、高校の先輩や後輩がいたので、最後のバスケット人生はこのチームでやりたいと思って2年間を過ごしました。実は移籍をするのは簡単ではなく、色々と問題があった中で叶ったんです。シャンソンの社長と話した時に、「いろいろ辛い思いもあったと思う。でもこの経験がアキを強くさせたと思うし、人の痛みをわかれる人にしたと思う。必ずこれからの人生に役立つと思っています。この会社に残って最後までやっていくこともできるけど、移籍して最後にバスケを楽しめる、笑ってバスケ人生を終えられるならそっちでもいい。自由に決めなさい」と言ってもらえた時に、このチームで過ごした7年間は凄く辛かったけど頑張ってきてよかったと、辛かった事が全て感謝に変わりました。

その時はわからなくても、ちゃんと見ている人は見ているんですね。

デンソーに入って2年目で私は完全復活したんです。全国にある治療所を色々と回って、1年間練習ができるようになったんです。そして、“やっとここからだ”と思ったときに得られた気持ちが昔とは全く違うことに気づきました。代表を目指すということは全くなくて、正直なところ、気持ちが下降気味な所はありました。ただ、コートに立たせてもらった喜びというのは素直に嬉しかったんですよね。

ですが、10月に始まるリーグの直前、9月に練習で怪我をして半月板がかけてしまったのですが、オペができないような部分だったんです。その怪我を負ってしまった時初めて「引退」の文字が浮かびました。周りからは『やっと復活できたのにもったいない』と言われていたのですが、私の中では“やっと引退できる”というのが素直な気持ちでした。解放された、感覚ですね。

最後の試合は、監督から『今まで応援してくれた人たちがいたからこそコートに立てたから、その人たちにコートに立っている姿を見せるのが恩返し。最後にコートに立て』と言われて、現役最後にコートに立つチャンスを貰いました。出場時間わずか30秒。でもたった30秒なのに今までで一番純粋な気持ちでコートに立てました。感謝の気持ちが溢れましたね。今まで本当にバスケをやってきてよかったな、沢山の人に応援してきてもらえたな、自分一人だったらここに絶対立てなかったな、と。それくらい色々なことが出てくる感じで、涙が止まらなかったですね。

“ありがたい”と思えるのはすごく幸せですよね。ですから、そういう気持ちにさせてくれたバスケ人生は、辛いことの連続だったけどすごく幸せでした。人が見られない世界を見られたこと、実際に自分が経験したことで感じれた事は私にとっては財産です。何か意味があると思いますし、その財産を次につなげて行く事が私の役目だと思っています。

 

引退後もバスケの活動に関わる

2015年の5月に引退して、2016年の4月からは新しいことを始めました。引退してから何かやりたいことが出てくるんだろうな、とは思っていたんですけど、実は全く出てこなくて。自分の中では東京か海外で…という思いがあったのですが、まずは東京に出てこようということで、仕事も何も決めずに東京に出てきました(笑) 東京に行くタイミングの時に、産休に入る人がいるから働かない?という相談を受けて。バスケットとは違う社会を知りたいという想いから”ここにお世話になろう”と決めました。そこはグッズの会社で、事務だったり、外に出て人と会っていたりしていました。その中でバスケの世界に戻りたいな、と思ったタイミングもあったのですが、流れが良いときってそういう機会も来るんです。

Bリーグの関係者の方にグッズの提案で会った時に、『今年からBリーグが大きくスタートします』と言われて、入るなら4月から切り替えておかないといけないという話をされたんです。自分の中でもバスケの世界に行きたいという気持ちがあって『本当にやりたければ連絡をくれれば力になります』と話をされて、その日にすぐ連絡をしました。会社の人には失礼だと思ったんですけど、これを逃したら次はないかなと。

チームの広報に入っていくのも1つだし、プロダクションに入って大きくメディアのほうに立っていくのも1つと言われました。その中で、もっと大きい所で自分ができることを増やしていきたいという思いがあったので、後者の方を選択し行動しました。周りの人に自分の意向を伝えた際、今の会社であるJSMの話をされました。会ってみるのも良いんじゃないか、と。いくつか他の事務所の会社の関係者とお話しさせてもらった中でJSMの関係者の方とお話しさせてもらえる機会を頂きました。

会社の人達はもちろん、事務所の雰囲気がすごく良くて、ここにお世話になりたいと思いました。それが今年(2016年)の2月くらいですね。縁が大きいなと思いました。また、バスケのエージェントをやっている方も4月に入社して、新しいスタートを切りました。

また、今は夢先生やBリーグの解説、試合リポーターなど様々な所で頑張っています。また新しい目標に向かってやれる喜びと、引退後もバスケやスポーツの広報に関われているのは凄く嬉しいことです。

いまいまの目標としては、2020年に解説やリポーター、番組などで活躍することです。幅の広さはありますが、固定できる部分を確立しつつ、もう一方で“何かやりたい”となった時に挑戦できるような、同時に2つ3つと色々と取り組んでいきたいという思いはあります。

あとは子供達にバスケの魅力を伝え、経験してきたことを含めて次の世代に伝えて行きたいですね。小中の1番大事な時に携わりたいという思いが強いです。まずは2020年に向けてスキルを磨いて頑張ります。