menu

長岡茂。5つのJクラブを渡り歩いた「裏方」が目撃した、日本サッカー変革の過程

2017.02.17 / 森 大樹

長岡茂氏

NPO法人スポーツ業界おしごとラボ(通称・すごラボ)の理事長・小村大樹氏をホスト役として行われている「すごトーク」。今回のゲストはJクラブ5球団を渡り歩いてきた長岡茂氏です。

 

長岡氏は大学卒業後、プロ化前の日本のトップリーグ・日本サッカーリーグ(JSL)の強豪・古河重工サッカー部(現ジェフユナイテッド千葉)に入社。Jリーグ発足元年からは鹿島アントラーズに移り、その後はアルビレックス新潟、湘南ベルマーレ、サガン鳥栖、ギラヴァンツ北九州のスタッフとしてご活躍されてきました。その間、日韓W杯の組織委員会にも招集されています。

現在は今までの経験を生かして、クラブの運営を外側から支える事業を行うため独立し、Espoir Sport株式会社代表を務めています。

長い間、Jクラブから必要とされ、どのような経験を積んできたのかを語って頂いています。

業界で働く上で覚悟と最低限の知識

まず、スポーツでお金持ちになりたいという人は、この話を読み流してもらって結構です。僕はこれまで経験したことは、オーナーでも経営者でもありません。組織の中で働いてきたことを前提に話すので、目線が違います。

次に土日休み、週休2日制でないと嫌な人にも合わないと思います。僕らはサービス業です。世の中の人が休みの日にレジャーやレクリエーションの一環として満足いくサービスを提供し、お金を頂く仕事になります。平日に休みがシフトすれば、友人と予定が合わないなどの弊害も生まれるでしょうが、この業界で働く以上はそういった部分を覚悟しなければなりません。

では、例えばこの中でサッカークラブで働きたい人がいたとして、ピッチの大きさを正確に答えられる人はいますか。
ピッチのサイズは105m×68mが正解です。

しかし、FIFAの国際試合をやる場合にピッチは、両側それぞれにベンチ入りしている選手の余尺が必要になります。

ちなみに日産スタジアムと長居スタジアムは、この大きさが取れないため、日韓W杯大会中はトラックの一部を切り取り、芝生を植えて試合で使用し、終了後に再びアンツーカー(赤褐色の土を用いて造られた地面)を敷き直しています。

今スポーツ系の学部や講座で理論の勉強をしている人も多いと思います。ではなぜこのような基本的なことを聞くかというと、そこでの理論も大切ですが、その前に自分達の売り物についての最低限のルールや知識は入れておくべき、ということです。もし設備の下見やライン引きを頼まれた時にすぐに対応できるようにするためにも覚えておきましょう。

転機は大学時代。ジーコとの出会い、協会との接点。

私は元々野球少年で、12歳からサッカーを始めました。この仕事に就く前の出来事として印象的だったのは1982年に日本で行われたトヨタカップで、当時まだ私は大学生でした。

後に鹿島で一緒に仕事をすることになるジーコと、その時初めて会いました。当然、選手とファンという関係です。彼は南米王者・フラメンゴの選手として日本に来たんです。ちなみに対戦相手はヨーロッパ王者のリバプールでした。

当時はまだ今ほど日本で海外サッカーも浸透していなかったので、リバプールにしてもフラメンゴにしても、チームバスの周りにはほとんど警備なんていませんでした。その時にジーコにサインをもらって、彼は「ニカッ」って笑ってくれて、いい人だなと思ったのを覚えています。まさか10年後に同じチームで仕事することになるなんて思いませんでした。単なる偶然かもしれませんが、今振り返っても不思議なファーストコンタクトでした。

ちょうどこの年から私は日本サッカー協会で、アルバイトとしてでしたが、お仕事をさせて頂くようになります。東海大学のサッカー部に、選手として入っていたのですが、その中で協会に行く裏方の仕事をしていたんです。

大学サッカー部では、周りに国体選抜やユース代表などの選手がたくさんいたので、僕とは次元が違うと感じていて、その頃から競技者としては限界があると思っていました。そこから裏方の仕事を模索するようになっていったわけです。ただ、この時はまだ高校の先生になりたいと考えていました。実は政治経済学部に進んだのも、社会科の先生を目指していたからです。

しかし、真剣に高校の先生という仕事を調べてみると、特に社会科の都立高校の先生は定年まで皆さん続けるので、なかなか枠が空かないということが分かってきました。完全に母校である都立高校に戻るイメージしかなかったので、私は進路に悩み始めることになります。

そんな中、協会で仕事をしていたら、当時の日本代表の試合や合宿の人手が足りないということで、声がかかりました。それでお手伝いをするようになって、関係者の方と顔見知りになることができました。

そして1984年、大学4年生になった時に、古河電工からお誘いを頂いたんです。就職活動のことはおろか、自分が何になったらいいのかすら分かっていませんでしたが、『今までやってきたことをそのまま続けてくれればいいよ』と。相手は一部上場企業ですから、やっぱり嬉しかったですね。

JSLの強豪・古河電工に入社。サッカー界での道が拓かれる。

それで1985年に卒業と同時に古河電工に入社しました。

翌年には(※)奥寺康彦(現横浜FC取締役会長)さんがドイツからチームに復帰して、木村和司さん(当時日産自動車、現解説者)と共に日本初のプロ選手になりました。当時日本人選手が海外でプレーするなんて考えられなかったわけで、そのパイオニア的存在だった奥寺さんと、一緒に早い段階で仕事ができたのはいい経験にもなりました。

奥寺さんが復帰したその年、古河電工はアジアクラブ選手権で優勝しています。当時のメンバーは奥寺さん、岡田武史(現FC今治代表、元日本代表監督)さん、私と同期の渋谷洋樹(現大宮アルディージャ監督)がいました。

奥寺康彦:元サッカー選手。ドイツ・ブンデスリーガで活躍した初めての日本人で、“東洋のコンピューター”の異名を取った。

最初に古河電工に入ることができたのは、後の自分のキャリアにとって非常によかったです。現在の日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんは、岡田さんと同期で、お2人は古河電工の先輩にあたります。川淵三郎(第10代日本サッカー協会会長)さんも、小倉純二(第12代日本サッカー協会会長)さんも古河電工出身です。そういった日本サッカーを動かしてきた人々に、近いところでいろいろと勉強させてもらえたという点で、私は本当に恵まれていたと思います。先日お亡くなりになられた木之本興三(元Jリーグ専務理事。Jリーグ発足の立役者の1人)さんにも時には『バカ野郎!』なんて怒られながらも手取り足取り、愛情を持って指導して頂きました。

すごラボ

日本サッカーの転換期を目の当たりに。

古河電工としてアジアクラブ選手権を制した一方で、日本代表は同じ年に行われることになっていた1986年メキシコW杯への出場権を最後、韓国と争って逃していました。最終予選で2試合とも負けてしまったんです。

今後日本サッカーはどうなっていくのか、という危機感を私自身感じていたので、1988年に自費で韓国に行くことにしました。韓国では一足先にKリーグ(1983年開幕)というプロリーグがスタートしていたので、視察しようということです。当時の古河電工のサプライヤーだったアシックスさんの繋がりで、向こうでいろいろ話を聞かせてもらいました。

同時期に同じように危機感を抱いていた川淵さんや木之本さんは「JSL活性化委員会」という組織をつくり、1993年にJリーグをスタートさせることを決めています。その点、私は日本サッカーのトップリーグがアマチュアからプロへと移行する時期に仕事をさせてもらえたことになりますね。

しかし、1991年に私は一度本社に戻ることを決めました。プロ化するといっても将来がよく分かりませんし、古河電工にはプロになってから携わりたいという先輩方が、たくさんいることもわかっていました。将来に対する不安もある中で、自分よりも社会経験がある方が、プロの仕事をやりたいという状況でしたので、私は会社に帰ろうと。

でも、それを周りのサッカー関係者に伝えると驚かれました。中には『だったらうちに来ないか?』と誘ってくれる人もいて、こんな自分でも必要としてくれる人がいるのなら、プロクラブに行くべきなのかな、と真剣に悩みました。古河電工があったからここまでやって来られたわけで、他のチームに行くのもどうかと思っていた部分もありましたから。だからもう隠し事をせずに古河電工OBの方々に相談しに行きました。

面白かったのが、10人中10人が『他のチームでもいいから行け』と答えたんです。このまま待っていても古河電工で仕事ができるとは限らないなら、今必要としてくれているところに行って、お前の良さを出してこいと。

そんな先輩の後押しもあって、1992年に鹿島アントラーズに着任して、翌年Jリーグが開幕します。

鹿島はJ屈指の強豪クラブに。Jリーグブームど真ん中での仕事。

初めてアントラーズの前身、JSL時代の住友金属のグラウンドに行った時には、スタンドに住友金属の作業着の人が何十人かいるだけで、周りには何もなく、夜になれば真っ暗という場所だったので、本当にここにプロチームができるのか、不安にもなりました。地元の人も“陸の孤島”というくらい田舎で、何もなかったですね。

でもやるからには変に条件が揃っているよりも、何もないところから始めた方が面白いかな、と思いました。

上層部の方とお会いした時も当時、日本サッカーで先を行っていた読売クラブ(ヴェルディ川崎)や日産自動車(横浜マリノス)と同じことはやらなくていいと言われました。同じことをやって追いつけたとしても、追い越せないからです。クラブの思想として新しい挑戦をすることにオープンな考えを持っている人ばかりだったので、自分としても面白いことができそうだと思い、鹿島に決めたんです。

ただ、その時点では「10年間でタイトルに1回でも絡めたらいいかな…」くらいにしか思っていませんでした。川淵さんもオリジナル10の親会社には10年間は赤字を覚悟してほしいと言っていましたから。それが思わぬタイミングでいきなり1stステージで優勝して、正直驚きました(笑)

鹿島の仕事と並行して、私は1990年イタリアW杯と1994年アメリカW杯の両方に視察に行っています。1990年は日本も招致の検討をしていたのですが、実際にイタリア大会を観た時はとても自分の国でできるものじゃない、という印象を強く受けました。

でも1994年アメリカ大会の時には案外日本でもやれるのでは?という感覚に変わっていました。たったこの4年の間にJリーグが発足して、急速に日本サッカーの環境が変化していったと同時に、それが自信にもなっていたのだと思います。

そして1996年に日韓W杯の開催が決定するわけです。ただ、忘れもしないのが、決定が1日早かったことです。本来発表されるはずだった6月1日、鹿島はナビスコ杯・アウェーでの清水戦があって、それが終わったらカシマに戻り、開催決定を地域の皆さんと喜ぶイベントが行われるはずでした。

しかし発表前日、業務のために清水に前乗りしていたら、朝のニュースで「日韓共催が決まりました!」と報じられていたんです。

共催になったことで、先のイベントをどうするかという話もあったのですが、それを歓迎する気持ちがなければ、試合会場として受け入れる資格もないと私は思ったので、予定通りやることにしました。

それに伴い、日本代表が初めて出場した1998年のフランスW杯にも視察に行きました。でも1試合も日本の試合は観ていません。来たる日韓W杯に向けて、あえて警備がヤバそうな対戦カードを選び、どのように運営をしているかを見たんです。そのおかげもあって、日韓W杯の組織委員会にも呼んで頂くことができました。

長岡茂氏

数々のタイトル獲得と日韓W杯開催に関わる。

日韓W杯の際、私は茨城会場と決勝の横浜にも人手ということで呼ばれました。

決勝会場での役割は日韓W杯のテーマソングを歌った歌手・アナスタシアのバッグダンサーをスタンドで観戦させ、試合終了後に連れて帰るというものでした。だから、試合は一切観ていません。

そういう大舞台に関われる人はごくわずかですし、非常にありがたいことではありますが、本当に楽しみたかったらお客さんとして行く方が気も楽でいいと思います。自国でW杯をやっているのに、それを実感する機会はほとんどないくらいでした(笑)

僕らの役割というのは自分が試合を観ることではなく、観に来たお客さんをいかに楽しませるのかに徹することです。

私自身、鹿島で多くのタイトルにも関われましたし、2002年には自国開催のW杯にも携われました。でも40歳になる頃には次にアントラーズですべきことの絵が描けなくなってしまったんです。それで鹿島を離れることにして、2004年以降は新潟、湘南、鳥栖、北九州とチームを移って行きました。

そして私はもう54歳になりますが、クラブでこの歳となると取締役や部長クラスになってきます。そうなるとこれからJクラブに入ることはなかなか難しいわけです。私が行くくらいなら若い人に入ってもらった方がいいですし、クラブも同じように考えていると思います。

クラブの哲学や考え方を、長い時間をかけて植え付けていくには、若い人がいいですから。逆に僕のように様々なクラブの考え方を見聞きしてきた人間に、その部分を1から作ってほしいということになれば、また話も変わってきますけどね。

移りゆく時代の中での“変化”にチャンスが。

Jリーグができて25年が経って、いろいろな変化が起きてきましたが、特にハード面での影響は大きいです。まず、サッカー専用スタジアムができるなんてJSL時代には考えられませんでした。

あとは芝の常緑化です。1年通して緑色の芝でプレーができるようになりました。これもサッカーを中心に技術が進歩してきたからでしょう。

そして、皆さん意外に思われるかもしれませんが、チケットの用紙の変化です。実はJリーグ開幕直後のブームの時に事件がありました。鹿島のチケットがなかなか取れない中で、カラーコピー機を持っている人がチケットを印刷して、それで入場しようとしたんです。入口で係員が紙の質の違いに気づき、その人は御用になりました。

そこからコピーを防止するための動きが始まり、今のチケットはコピーすると「コピー」と浮き出るようになっているはずです。

そしてJリーグがもたらした大きな価値として、地域との共生があります。地域名を名乗って僕らはやっているわけですから、そこにいる人々にクラブがあってよかったとか、将来地元のクラブの選手になりたいとか、そんなふうに思ってもらえるようにしていくということです。

実際にJクラブの下部組織に入った選手が、トップチームの試合でボールボーイをやり、そのプレーを間近で見ることによってモチベーションを上げ、プロまで上り詰めたという例も出てきています。

皆さんがスポーツ業界の仕事に向いているかは分かりません。でも、もしもいろいろなことを犠牲にしながらも、地域の人々との触れ合いを楽しんでやれる人はぜひ現場で働いてもらいたいです。

現代において、スポーツとの関わり方は多角化してきています。特にこの25年の間でIT技術が発達して、いろいろなことが便利になりました。例えば昔であれば写真はフィルムカメラだったわけですが、今はデジタルカメラで現像しなくともデータですぐに送ることができます。そういう変化にアンテナを張っているとスポーツ界で思わぬチャンスが出てくるかもしれませんね。