鈴木國弘・ジーコの元通訳が振り返る、スポーツにおける語学の重要性
スポーツは世界共通の"言語"と言われることがあります。ですが、英語やフランス語などいわゆる本当の"語学"に触れることでスポーツへの関わり方や楽しみ方、知られる知識の幅が広がることは言うまでもありません。そして、それが人生を豊かにすることもまた、間違いないと言えるでしょう。
今回から”スポーツ×語学"をテーマに、その関連性や語学を学んだことでスポーツ人生においてどういったプラス面が得られたか、などを様々な方に語って頂きます。第1回目はサッカー日本代表の監督も務めたジーコ氏の通訳を長らく務めた鈴木國弘さんです。
大使館と語学学校でのアルバイトでポルトガル語を覚える
私が最初にブラジルへ行ったのは19歳の時だから、もう41年前です。18歳で高校を卒業して1年間アルバイトをして資金を貯めて、むこうに1年間ほどいました。
中学でサッカーをやっていたのですが、ちょうどその頃ブラジルが1970年メキシコ大会で3度目の優勝をして、ジュール・リメ杯(初代W杯トロフィー)がブラジルに永久保存されたんです。あの影響ももちろんあったと思います。「これからブラジルが来るんじゃないか」と。
行く先としてアメリカも迷ったのだけど、当時アメリカはあまりサッカーをやっていなかったみたいだったから、じゃあブラジルだなと。当時はネットも携帯もない、設置電話や公衆電話のみの世界。今ほど情報がないじゃないですか。そんな状況下、サッカーで生きていこうと思っていて、今でもそれが続いている状況です。ブラジルに行った先のことは何も考えていませんでした。
日中はブラジル大使館でアルバイトしながらポルトガル語の学習していました。語学学校に行くお金もなかったので、タダで言葉を覚えられて小遣いをもらえるのはありがたいなと(笑)
それを終えると今度は唯一都内にあったポルトガル語の語学スクールで3時間ほどアルバイトをしに行きます。ここは(※)与那城ジョージさんがいて、彼に勧められたんです。そして夜中は四谷のブラジリアンバーでバーテンダーをやって、平均睡眠時間3〜4時間で、翌日またブラジル大使館に朝から行って…と。そんなことをずっと1年間やっていたらお金も溜まったし、ある程度言葉も覚えたりして、一挙両得でした。
ちなみに大使館のバイトは、バーで働いていた時に『19(歳)でこんなところで働いていたらダメだ』とお客さんで来ていた大使館職員の人に言われ、「ポルトガル語が習いたいんです」と話したら、じゃあ『うちでバイトしたら』と声をかけてもらえたので、その翌日から行くようになったんです。
バーで働いたことは大きかったんですね。うろ覚えですがおそらくラモス(瑠偉)ともそこで知り合った。それで試合を見に行くようになって、そこに与那城さんたちもいて…と。ラモスと出会い、そのつてでブラジルに行けたんですよ。
当時はラモスが日本に来て1年目か2年目だったのですが、友だちになったことでブラジルの家を紹介してもらえました。彼もリオデジャネイロ出身だったから、その影響で僕もずっとリオにいました。当時は橋渡ししてくれる人も少なかったし、ラモスのおかげでブラジルに行けたみたいなところはあります。
彼は当時、日本語がほとんどできなくて、僕もまたポルトガル語ができませんでした。でも当時は自由で読売クラブの人が僕らの草サッカーに平気で出てくれたりしていたんです。そんなこともあって「俺の家にいれば?」と誘ってくれたんです。ラッキーでした。
※与那城ジョージ:元サッカー選手。指導者。当時日本サッカーリーグ2部だった読売サッカークラブを1部に導き、強豪クラブへ押し上げた“ミスター読売”。
今なら豊富な参考書が、当時はなかった
ポルトガル語のテキストは当時、ほとんどなかったですね。だからもう耳で覚えるしかない。個人レッスンで学ぶとものすごく高くつくから、そんなことは考えもしなかった。1、2回座学を受けたことはあるんですが、それも金額が高くて続かなかったですね。
ただ、なぜか最初からポルトガル語の音は出せたんです。そこは先生も不思議がっていて、『文法も知らないのになぜ発音ができるんだ』と。そのあたりは耳で聞いている量が多いからというのはあったんでしょうね。
バーで働いているときは弾き語りをしているブラジル人の言葉をなんとなく最初は耳で聞いていました。向こうは日本語が少しできたので、今度は繰り返し聞こえる言葉の意味を質問してみるようになって、そこからは単語の羅列みたいな形で会話をしていました。
ブラジル大使館の人たちもすごく丁寧に教えてくれたんです。当時は10代でポルトガル語を習いたいという人なんてまずいなかった。そういう意味では希少価値が高かったんでしょうね。今だとブラジル大使館に務めるのはなかなか難しいでしょう。当時だからこそできたことですよね。1日ポルトガル語漬けの良い環境でした。1日で日本人よりもブラジル人と接している数の方が多かったですしね。
語学はあくまでも生活のためのツールだと思っており、語学を極めようという意識はあまりなかったんです。ブラジルに永住するつもりもなかった。ただ、サッカーをやっていると言葉ができないと不便なんです。監督の言っていることがわからないですから。
当時は特に危険性が高くて、遠征でアウェイに行くと必ず喧嘩があるんですよ。僕らはアウェイの試合が多くて、キャプテンが『今日は荒れるぞ』と言うんですよ。『乱闘になったらお前を一番先に逃がしてやるから、観客が出てきて乱闘になったら一番早く逃げてバスの中に駆け込め』と。そういう配慮もあって僕はいつも、観客席とは逆の、バスが停まっているサイドでプレーをしていました。逃げやすい場所のポジションをやっていたんです(笑)
でも要はそれも言葉ができないと何を言っているか全然わからない。自分の身を守るためにも言葉が必要でした。
ちなみに、文法は未だによく分からないです。勉強したこともないし、何が前置詞で何が冠詞かも全く分からなかった。そういう考え方をしなかったから。日本人が生まれてきて、生きていくために日本語が必要だから覚えていくみたいな感覚ですね。周りが日本語だけだから覚えていくみたいな。それを0歳じゃなくて19歳から始めたということです。
ジーコの"教育"
そしてジーコの通訳をすることになるわけですが、ジーコはこれまでトップでやっていた選手で、私はアマチュアでやっていたレベル。だから、言葉は通じてもそれが本当のところで何を意味しているかがよく分からなかった時があったんですね。ジーコは私を介して話すわけですが、私のサッカーの知識と語彙力で伝えようとしても、ある程度ジーコのサッカーの哲学を学んでいないと成立しないんですよ。最初は「この人何を言っているんだろう?」という状況でした。
それで、ジーコが私を教育し始めたんです。通訳としての最低限のサッカーの知識と、自分の考え方、行動様式みたいなものを1ヶ月くらい毎日。彼は東京に住んでいたので一緒に車に乗って、往復6時間くらい、彼のレクチャーをひたすら聞いているわけです。そういうものを学んで初めて彼の言葉を伝えることができるレベルに達しました。
彼がなぜ日本で監督になったのか、世界中がジーコの一挙手一投足を気にするわけです。ただ多くの人はポルトガル語が分からないので、私の日本語が英語に訳される。それはものすごいプレッシャーでした。辞めると何度も話したんですが、ジーコは『お前のやり方でやればいいんだ』と言ってくれていて、そのやりとりが3ヶ月くらい続きましたね。1回契約したのになぜ自分から引き下がるんだ、それはプロじゃないと。
私は「まず“プロ”ってなんですか?」という感じでしたね。お金をもらっているから責任が生まれるんだと言われても、全然言っている意味が分からなくて。そんな意識もしたことがなかった訳です。そういったやりとりをしていくうちに、ジーコの意思を第三者に伝達できるレベルになって、ようやく通訳という仕事が成立し始めました。
正直に言って、1日も早くやめて重荷を解きたかったですが、それだけ辞めたくても辞められなかったということは、何か縁があったのだと思います。ジーコの兄貴や顧問弁護士も、なんでお前がジーコの通訳をやっているのかわからない、と言うんです。ジーコのレベルになれば、通訳を変えたいと言ったらすぐクビにできるわけです。でもお前ごときがなんでそんな言葉をしゃべっているのに通訳をやっていたのか、未だに分からないと言われますね(笑)
通訳に必要なのは“雰囲気を読むこと"
アントラーズには当時サントス(元ブラジル代表MF)がいました。円陣の時、日本人なら「さあいくぞ、オーっ!」くらいで短く済むと思うのですが、サントスはお喋りだからとにかく話が長いんです。あの人は哲学者みたいな感じだったので、そこでいろいろな哲学を吐くのですが、私としては人生で一度も聞いたことのないような言葉が出てくる。今ならば適当なことを言えばいいんですけど、当時は言葉が出てこなくて「やべー…」みたいな(笑)
黒崎(久志)が『鈴木さんどうしたの、ちゃんと訳してよ』みたいなことを言っている中、自分は「この言葉なんていうんだろう…」と考えている。そうすると他のブラジル人は大笑いしていて。ジーコも『そんなに難しく考えることはない。すべてノリなんだ。なんでもお前の好きなことを言っていいんだ。ただ、ハーモニーというか、その場の雰囲気が調和されている状態がベストなんだ。それを崩すな』と。サッカーの通訳なんてそんなもんなんだと言われたんです。『雰囲気を読むことがプロ』だと。それを言われた時にだいぶ楽になりましたね。
プロとしては勝ってなんぼなわけで、勝利ボーナスを稼ぎ、リーグチャンピオンになるためにやっている。そのためには他の日本人選手が納得してノリノリな状態でプレーしないといけないのですが、ちょっと変な訳し方をして彼らが傷つくと、選手としては“ジーコに怒られた”ということでビビって動けなくなるわけです。
それをなくすために、例えばある選手に対してジーコがめちゃくちゃに厳しい言葉を浴びせているのに、雰囲気を読んで褒め上げているように見せるといったことができるようになりましたね。ジーコからすると怒鳴っているのですから、その怒りをそのまま選手に伝えてほしいと思いますし、そう言われた時もあるのですが、先にも言ったとおりそれはまずい。
だからジーコは怒っているのに、「最高だぞ!」みたいに訳すことも(笑) そうすると相手はジーコに褒められたと思って、イキイキと動いてくれる。そうしたらチームにとってものすごい戦力になってくれるので、そこまで考えてやるようになりました。ジーコが日本の文化を知った来日3年目くらいからは“日本人はこういう風にのせないとダメ”ということを彼自身がわかってきたので、直訳ができるようになりました。ただ、最初の1,2年くらいはそういう感じでやっていたりしましたね。