「監督」ではなく「知識人」。スポーツ通訳とは一線を画する、オシムの通訳の難しさ。

2017.06.30 竹中 玲央奈

 

かつて日本代表監督を率いたイビチャ・オシム氏の通訳を務めていた千田善氏が語るスポーツと語学の関連性。前編では岩手で生まれ育ち、東京大学を経てユーゴスラビアへと留学したまでの経緯を語って頂きました。後編である今回は、帰国後にどのようにしてオシム氏の通訳になったのかを語って頂きました。そして、彼が考えるスポーツ選手における語学の重要性とは。

 

日本でオシムと再会

オシムさんが日本に来たときは驚きました。ただ、最初はどれだけ日本で真剣に指導するつもりかわかりませんでした。Jリーグが始まったとき、引退間際の大物外国人選手がたくさん来日し、“象の墓場”と言われていました。オシムさんもキャリアの晩年で金稼ぎに来たのかとも思いました。今となっては本当にごめんなさいなんですけど。ジェフがいきなり優勝争いをしているのを見たら、これは本物だな、さすがオシムさんだな、と。

やっているサッカーの基本線は僕がユーゴスラビア時代に見たものと同じでした。ただ、もっとスピードアップしたかもしれない。サッカーはどんどんどんどんスピードが速くなっていますから。実際に70年のワールドカップのペレとか見てみると「こんなスローでやっていたの!?」という気も本当にします。

とくに速くなったのは80年代後半から90年にかけてかな。アリゴ・サッキがインテンシティの高い戦術を採用した。そうすると他のチームも対応しないと負けるから同じようになり…というサイクルはあったと思います。ここ25年か30年ですね。その後もサッカーがどんどんスピードアップしているのは間違いないと思います。

最近、オシムさんが現役の時の動画をYouTubeで見つけましたが、それものっそりしてますね(笑)。しかし、オシムさんがジェリェズニチャルを監督として率いていたときの映像はないんです。だから正確に比べられないのですが、当時のジェリェズニチャル・サラエボは本当に11人しかいないのか?と思うくらい、人が湧いて出てくるサッカーをしていました。ジェフ時代も基本的には、よく走る、「人が湧いて出てくる」スタイルでしたね。

そうやって、いちファンとして見ていると、2006年の6月に※“「オシムって言っちゃったね」事件“があり、オシムさんが日本代表監督に就任することが決まりました。ドイツW杯が終わった直後です。最終的にサインをしたのが7月21日。これが監督就任記者会見兼調印式でした。それを僕はテレビで見ていて「これで代表も面白くなるぞ!」と思っていたんです。大学の夏休み前くらいで、当時教えていた中央大学の学生のレポートの採点をしていました。

※川淵三郎元 日本サッカー協会キャプテンが2006年W杯の総括会見において次期監督として交渉中のオシム氏の名前を出してしまった事件。

“傍観者”から一転して代表監督の通訳に

記者会見を見て「よしよし」と思った2,3日後、オシムさん側と僕の共通の知り合いAさんから電話がかかってきました。「シュワーボ(オシムさんのニックネーム)が通訳を探しているけど、サッカー協会の面接を受ける気はある?」と。

もう二つ返事で、大学の仕事はあきらめる覚悟で、御茶ノ水の日本サッカー協会に行きました。ところが、面接ではなくていきなりミーティングで通訳をさせられました。8月初めにキリンチャレンジカップの代表メンバー発表をしなければいけない。もう1週間しかない。そういう状況でした。

連日何時間もミーティングをして、ひとまずメンバーを決めた。ところが、発表当日には13人しか名前を出さなかった。結果的には2日後ぐらいに追加発表したんですが、みなさんビックリしたと思いますよ。オシムさんは涼しい顔で「11人いればサッカーできる」みたいなことを言っていました。明確には言わなかったけれど、オシムさんとしてはタイトな日程に対する抗議だったんです。「最初からこう来るか、いやはや、予想以上になかなか面白い人だな」と思いました。そんなどたばたからスタートしたんです。

結局、サッカー協会の面接はありませんでした。共通の友人Aさんがオシムさんの奥さんに、僕がどういう人間でどのぐらい語学ができるかというような話を既にしてあったようでした。

実は、その時にはもうサッカー協会が選んだ通訳さんがほかに2人いたんです。現地でセミプロのサッカーをやっていた人、ベオグラード大学の体育学部で勉強した人、そういう経歴の方ですね。初めは、トレーニングの通訳は彼らがやり、記者会見やミーティングの通訳を僕がやるという説明だったんです。2007年の3月のペルー戦まで3人体制でした。ミーティングや記者会見だけでなく、トレーニング通訳もほとんど僕がやっていたんですが、3人体制の方がなにかと助かりましたね。

結局、サッカーの通訳としては1年4カ月。その後、オシムさんが2007年11月に倒れた時は、集中治療室から出るまで1カ月半、自宅に帰らずにつきっきりでした。最初は医師団と家族のあいだ医療通訳ですね。意識を回復した後は本人と医師、看護師さんたちとの通訳。集中治療室から退院した後は、リハビリ通訳です。今から考えると笑い話ですが、通訳の方向が変わった。関係が逆転したんです。代表チームの時はオシムさんが「もっと走れ」とか言うのを訳していたけれど、今度は、医者や理学療法士さんたちがやれと指示したことを、僕がオシムさんに伝えるわけですね。「肩を上げて」とか「ひじを伸ばして」とか。オシムさんは文句も言わず、立派にリハビリをやっていました。しかも、ある動作を10回やりましょうと言われると、必ず11回やる。すごい人でした。

医療通訳・リハビリ通訳は2007年11月から、オシムさん夫妻が2009年の1月に帰国するまでの1年ちょっとです。代表通訳とあわせて3年弱、オシムさんとすごしたことになります。