きっかけは「金子塾」。本田圭佑を追い続ける木崎伸也は、いかにしてスポーツライターになったのか

2016.11.24 竹中 玲央奈

 

木崎伸也氏

「金子さんに『今回お前には世話になったから、願い事を叶えてやる』と言われて。そのときに、ドイツに行けと言われたんです。ドイツに行けばW杯4年後にあるから絶対仕事があるはずだと」

多くの人が憧れるスポーツ業界。その中でも特に人気なのが“スポーツライター”という職業ではないでしょうか。選手や監督など、現場を動かしている人にアプローチし、自分の言葉で情報を世の中に発信していく。スポーツの現場に密接に関わるこの仕事に憧れる方は多いことでしょう。

ただ、他の職種と同様に、”どうやったらスポーツライターになれるのか”という部分が不明瞭なことも事実。その道は人によって様々なのですが、今回はサッカー日本代表で中心を担う本田圭佑選手を長らく取材し、11月11日にその本田圭佑選手にせまった著書 ”直撃 本田圭佑”を上梓したスポーツライター・木崎伸也さんがどのようにしてこの職業に就いたのかを伺いました。

 

直撃 本田圭佑

11月11日上梓した著書、「直撃 本田圭佑」

たまたま見つけた”金子塾”がこの世界の入り口に

僕はそもそもライターになるつもりは全然ありませんでした。中央大学理工学部・物理学科の大学院の博士課程にいた2000年の12月に、スポーツライターの金子達仁さんが主催する”金子塾”というものがスタートしたのですが、そこに入ったのがきっかけです。当時、ぴあのHPに金子さんがグリーンカードというコラムを連載しており、そのコラムの下に小さく「スポーツライター塾を始めます」という告知があって、希望者は書類を送ってくださいと書いてあったんです。その時、2002年W杯に何か関わっていたいという思いと、ミーハーな気持ちなのですが、試合が見られるんじゃないかという考えがあって、応募をしました。

 

木崎伸也氏

大学院時代、パリの学会にて。

 

ただ、応募するからにはちゃんとやろうと思いました。そこで、自分なりに理系の視点でサッカーを語ったら面白いのではないかと考え、それを書いて願書を出したら受かったんです。筑波大学の浅川先生という流体力学でサッカーを研究している方がいるのですが、彼のサッカーと物理を合わせた研究の記事を読んだことが大きかったんです。

後々聞くと、金子塾へは300通くらい応募があって、受かったのは15人ほど。実は選考基準として学生は一切入れないという方針があったみたいなんです。金子さんの中では金子塾にいろんな職業の人を集めて、スポーツのシンクタンクにしようという構想があったと。実際に金子塾にはお医者さんもいたし、テレビ局の人、漫画編集者、学校の先生などがいました。ただ、理系がいないということで、学生だった僕が入れたんです。

ちなみに僕はサッカーを遊びでしかやっていませんでした。野球をやっていて中日ドラゴンズのファンだったのですが、高3でJリーグブームが始まり、そこからサッカーを見初めて、ドーハの悲劇があり、アトランタ五輪でのブラジル撃破があった。当時はそれを見ていて「こんなすごいことがあるんだ!」と思いましたね。

ですが、Numberで金子さんの記事を読んだら、その裏側ではチーム内で分裂に近いようなことがあったと。それが“叫び”と“断層”というタイトルで掲載されていて、後に“28年目のハーフタイム”という形で本になったものですが、あれを読んで”スポーツの文章ってこんなに面白いんだな“と思ったんです。そこから金子さんのファンになり、大学の図書室でNumberを読み始め、先に話した募集ページにたどり着いたわけです。

 

初の海外取材はアフリカ予選。1本の注射を巡り…

金子塾は2週に1回、金曜の夜20時から開催されていました。月謝は3ヶ月で1万円。終わったらみんなで飲み行って金子さんが奢ってくれるから、金子さんにとっては赤字だと思います(笑) 金子さんから発せられる当時のオーラや迫力は凄かったですよ。第1回では金子さんのインタビューをやったのですが、主にディベートを多くやった印象があります。その中で文章の書き方も教えてもらいました。

金子塾自体は2000年の12月にスタートして2002年W杯まで続いたのですが、色々変化もありました。僕は最初の募集、いわゆる”第1期生”として入ったのですが、第2期の募集もありました。そこで入ってきたのは5、6人。第1期は願書だけで文章の審査はなかったこともあり、文章力はまちまちだったんです。ただ、第2期は文章課題があったので、書くのが上手い人が加わった感じです。その中で欧州チャンピオンズリーグのデータを分析したムック本を作ろうということになって、金子塾のメンバーで取り組みました。もはやそのときは、編集プロダクション状態でしたね。

そのムック本の活動が終わったとき、金子さんが『この中から2人、俺が1人30万円払うからW杯杯予選に行かせる』と言ったんです。素人はビギナーズラックがあるから、敵地のW杯予選に行ったら面白いことが起こるはずだ、みたいなことを言っていて。それで、そのオーディションをやると。内容はそれぞれテーマを自分で設定して文章を書くという形で、上位2名がアフリカ予選に行けるというものでした。

木崎伸也氏

それをみんなで提出した後、いつも通り金子さんを交えて居酒屋に飲みにいったんです。そしたら急に金子さんが『アフリカに行く前には黄熱病の注射を打たないといけない』と言ったのですが、その中で黄熱病の注射を打ってきた人が1人だけいたんですよ。そして、その人が意欲を示すつもりで『自分は注射を打ってきました!』と言ったのですが、それに乗じて誰かがふざけて『木崎も打ってきたんですよ!』と嘘をついたんです。僕はもちろん注射なんて打っていないんですけど(笑)

そしたらなんと、金子さんが『じゃあこいつとこいつで決まりね』と、課題の文章を読まないでアフリカ予選行きの2人を決めたんです。注射を打ってきた人と、僕です。もちろんその後に「僕、打っていませんけど…」と伝えたのですが、金子さんも『ああ、いい。大丈夫』と。そもそも文章を読んでないし、注射を打っていないやつも選ばれているということで、塾生内ではもちろん不満が溜まりました。ただ、結局はその決定はくつがえらず、金子さんもめんどくさいからいいやみたいな感じで(笑)行きたい奴は自腹で、となって、結局3、4人、アフリカ以外の予選会場に行った人もいたし、アフリカに行った人もいました。

僕はナイジェリアとチュニジアに行ったのですが、結論からいうと超ビビリまくって何もできなかったんです。外は黒人ばかりで異様な空気ということもあり、あまり外にも出歩かず、取材としては大失敗。金子さんが期待していたようなビギナーズラックも起こらず。

自分なりにおもしろおかしく書いたつもりでレポートを出したのですが、金子さんの担当編集者に読んでもらった時に『君、書くのをやめたほうがいいよ』と言われましたね。“サラリーマンになるようなタイプの人間が、書くような仕事してもしょうがない”と。“もっと何かめちゃくちゃな思いとかがあってそれを表現するのが文章で、これはただのレポートだ”みたいなことを言われたんです。みんなの前でそれを言われるからすごく恥ずかしかったですし、悔しかったし、絶対この人を見返してやろうという思いも芽生えました。

 

「ドイツにいけば絶対に仕事がある」という助言

その企画の後、金子さんがキャンピングカーでパリから日本まで行きたいと言い出したんです。1998年のW杯開催地から、2002年の開催地まで行こうと。その準備を頼まれました。素人の学生でコーディネーターもやったことがないのに。レンタルキャンピングカーを探してパリで借りようとしたり、ルートを僕が決めて報道番組に「こういう企画するから番組化して、お金をちょっと出してくれませんか?」と営業にいったり。結果的に協賛も貰えました。

その中でキャンピングカーの旅がスタートして、約1カ月ヨーロッパをぐるぐる回って、ロシアへ行って、金子さんは最後、シベリア鉄道で帰りました。キャンピングカーで東京まで行くのは危険だという結論になったんです。もう一人、僕と塾生のトラック運転手は2人でキャンピングカーをモスクワからパリに返しにいきました。

そして、最後にホテルで食事会をやろうということで部屋の中にコンロ持ち込んでそばを茹でて食べていたときに、金子さんに『今回お前には世話になったから、願い事を叶えてやる』と言われて。そのときに、ドイツに行けと言われたんです。ドイツに行けばW杯が4年後にあるから絶対仕事があるはずだと。

『語学学校代は全部払ってやるから行け』と言われ、ヨーロッパ行きが決まりました。2002年の4月です。

 

フランクフルトの練習場

ドイツに2003年から2009年まで居住。フランクフルトの練習場にて。

 

ただ、最初に行ったのはオランダでした。ドイツ行きの準備をしていたら金子さんから電話がかかってきて『スポニチからオランダで通信員を探しているそうだから、やれ』と言われて。オランダはドイツから近いから、と。地図を見たら全然通えなかったんですけど(笑)

小野伸二選手の担当としてロッテルダムに行きました。ですから、最初に取材をしたのは小野伸二選手です。2002年7月にロッテルダムに行ったのですが、2003年1月に高原直泰選手がハンブルクに移籍をしたこともあり、スポニチから『ドイツへいけますか』と聞かれました。もともとドイツを目指していたこともあったので、「是非行かせてください」となって当初の目的地のドイツへ行き着いたという訳です。

ですから、ライターになったきっかけと言われれば、金子さんにドイツに行けば仕事があると言われて、行ったからですね。ドイツに当時、ライターは1人もいなかったんです。日本人はみんな、ブンデスリーガに興味がなかった。そんな競争相手がいない状態で、高原選手が来てくれて日本人選手を取材する仕事もあり、(2006年の)W杯の仕事ものちにあると考えたら、ラッキーだったなと。というか金子さんの先見の明がハマったなと。

だから、“ライターなりたい”と若い人から相談を受けた際には『今すぐ外国行けばすぐライターになれるよ』と言っています。

<後編へ続く>