井本直歩子が難民支援で感じた、スポーツのチカラ。競泳選手からユニセフへ
井本直歩子、1976年5月20日・東京都出身。3歳から水泳を始め、小学6年のとき50m自由形で日本の学童新記録を樹立。1990年、北京・アジア大会出場。慶応大2年の20歳で出場した1996年アトランタ五輪女子800メートルリレーで4位入賞を果たした。2009年、ニューズウィーク誌「世界が尊敬する日本人100人」の一人に選出。
井本直歩子(いもと・なおこ)氏。1996年アトランタ五輪では競泳日本代表として出場するなど、数々の実績を残したスイマーです。現役引退後はインストラクターやスポーツライターを経て、紛争・自然災害下の発展途上国における教育支援の道を歩んでいます。
現在は、ギリシャで難民の子どもたちの教育に従事。2019年12月には、これまでの功績が認められ「HEROs AWARD」を受賞しました。
競泳の第一線で活躍していた彼女は、なぜ現役中から途上国支援に関心を抱いたのでしょうか?
憧れの人物はマザー・テレサ。変わった子どもでした。
途上国支援に興味を持ったのは、競泳選手として国際大会に出場したことがきっかけでした。
私は中学2年生から国際大会に毎年出ていましたが、自分の試合がない日はチームメイトを応援しながら何気なくレースを見続けていました。そこに途上国の選手たちも出場していたので、「こういう国があるんだな」と国旗を覚えたり、どこにある国なのか調べたり。
タイムが遅い選手を見ると、「環境が整っていないからでは」と考えを巡らせていたり。ある国を指導していたコーチからは、練習するためのプールが使えなかったという話を聞きました。選手村では、お菓子を沢山食べている選手たちを見て、「いつもは食べ物がないのかな」「レースに備える栄養の知識がないのかな」と考えたり。
そんな選手に触れるたび、自分は恵まれていることをひしひしと感じました。大会に出るたびに水着やジャージ、靴、スーツケースなどの試供品をいただいていました。大会後にはお土産を買うので、スーツケースに入りきらなくて、せっかく頂いたものを置いていったことも。「なぜ、国によってこんな違いがあるのか」と感じることが増え、貧困問題に興味を持つようになったんです。
日本人選手は、アメリカやオーストラリアなど強豪国の選手と試合後にジャージを交換することが多かったです。私は、そういった国の選手に加え、パプア・ニューギニアやマカオなど強豪とはいえない国の選手とも交換しました。周りの選手に「いいでしょ」と自慢げに言っていましたね(笑)。
競泳メディアに憧れの人を聞かれると、「マザー・テレサ」と答えていました。本当に変わっていたと思います。
スポーツ選手は、子どもに夢を見せられる。
紛争を知ったのは、1994年、私が高校3年時に発生したルワンダ大虐殺の影響が大きかったです。
毎日、新聞をチェックしていました。残虐極まりない行為が大規模で行なわれていて、信じられない気持ちでいっぱいで。自分が平和な日本で新聞を読んでいる間にも、世界のどこかで殺戮が起こっている。
同じ頃、旧ユーゴスラビアの紛争も起きていて、競泳の大先輩である長崎宏子さんから、当時のボスニア・ヘルツェゴヴィナに絡んだ活動のお話を聞きました。
中学で英語を習い始めてからは、国際大会で海外のコーチと話をする機会もありました。高校3年時には、大学の願書に「ルワンダの紛争に興味を持ち、将来は紛争の仲裁をしたい」と書いていて。慶應義塾大の面接でも、そのことを話しましたね。
慶大在学中に、子どもの頃からの夢だったオリンピックに出場できました。残念ながら800メートルリレーは4位で、あと一歩でメダル逃しました。個人種目も納得のいく成績ではなかったため、現役続行を決めて、米・サザンメソジスト大学に留学しました。
サザンメソジスト大卒業後、シドニー五輪の選考会があり、選考に漏れましたが、出し切ったと思いが強く、悔いはありませんでしたね。
帰国して慶大を卒業してからは、イギリスのマンチェスター大学大学院に留学。大学院を卒業後は国際協力機構(JICA)のインターンとしてガーナに赴任し、JICA企画調査員というポストを頂いてシエラレオネ、ケニア、ルワンダを回りました。
シエラレオネにいた時、国内の内戦を描いた「ブラッド・ダイヤモンド」という映画がちょうど公開されて。「ホテル・ルワンダ」などもそうでしたが、このような作品をきっかけに国際事情がもっと知られれば良いなと思います。
映画だけでなく、スポーツにも大きな力があります。子どもはスポーツをやりたくてしかたないので、教育プログラムにも必ずスポーツを入れています。学校の休み時間を多くして、心のケアの一環としてスポーツを楽しんでもらう。今までそういった機会を奪われてきた子どもたちですから。
2019年8月には長谷部誠さん(サッカー元日本代表)が、私たちが教育プログラムを展開しているギリシャ難民キャンプに来て下さいました。プロの選手とサッカーができて、子どもたちは大はしゃぎ。私も競泳を教え、そこから国際大会に出るようになった子がいます。スポーツ選手は、子どもたちに夢を見せることができるんです。
子どもに、教育を取り戻す。それが私の役目。
私は現在、ギリシャで活動しています。国内には約9万人の難民がいて、そのうち3万5,000人が子どもです。シリア、アフガニスタン、イラクなどからエーゲ海をボートで渡ったり、トルコからの陸路でギリシャに辿り着きます。
子どもたちに、教育の機会を取り戻させるのが私の役割です。
ユニセフでは教育チーフとして、心のケアを含めた難民キャンプでの教室を展開しています。また、ギリシャ政府と手を組んで、子どもたちがギリシャの公立学校に入れるよう活動しています。
当然、ギリシャ語がわからない子ばかりです。通訳を入れるなど、先生が難民の子どもたちにギリシャ語をイチから教育できるよう、就学環境を支援する活動をしています。
大変なことは多いですが、辛いと思ったことは一度もないですね。危険なところにいても、怖くないです。今まで競泳をやってきて、たくさん苦しい思いをしてきたからだと思います。あとは、もともと上手くいかないことばかりだったから、かえって割り切れているのかなと。
私は、教育を与えることしかできません。子どもが路頭に迷ったり、両親に職がなかったりしても何もできません。教育だけを、ひたすらやり続けるしかないんです。
とはいえ、やればやるほど子どもたちに教育が与えられていくので、ポジティブに捉えています。
HEROs AWARD受賞が意味すること
2019年12月にHEROs AWARDを受賞できたこと、信じられない気持ちでいっぱいです。
16年くらい日本を離れていますし、あまり知られていない分野なので。賞をいただけたことで、社会から認められた気持ちになれました。
途上国支援をするにあたって、「貧しいから助けなきゃ」と思う人もいれば、私のように「自分がやらずして誰がやるんだ」という人もいます。それぞれ入口は違います。私のようにスポーツを通して、途上国に興味を持つこともあるかもしれません。
私のような元アスリートが行動することには、大きな意味があるのかなと。アスリートの中でもやりたいと思う人はたくさんいる一方、やり方が分からないという人も結構いて。そういう方に対しては、何かしら提案ができれば良いなと思っています。
今の仕事を、死ぬまで続けたい
海外のアスリートでは、例えばデイビッド・ベッカムさん(元サッカーイングランド代表)などはユニセフの親善大使として、積極的に途上国の子どもを支援していますね。
一方で、日本人のアスリートは自然災害に対する支援のイメージが強いです。どちらが良いという話ではないですが、プロスポーツ選手が増えてきたこともあって、そういった支援に力を入れる人は良く見るようになりました。
日本に帰った時には、自分の経験を伝えるために高校・大学で講演しています。若い人たちがどれだけ興味を持ってくれるかはわからないですが、一人でも多くの人が感化されてくれれば嬉しいです。
2020年東京五輪開催に向けて、多くの国との交流が増えています。南スーダンの選手たちは、紛争の影響で練習環境が整っていないので、大会の約8カ月前から群馬でキャンプを始めました。スーダンがどういう国か知ることができますし、こういう機会が東京五輪でたくさん生まれればと思います。
個人的には、今やっている仕事を死ぬまで続けたいです。教育がなければ、子どもたちは思考能力も育たず、知識を得る方法も、話し合いで解決する方法も分からない。結果として社会は発展せず、紛争は増えてしまいます。
できるだけ多くの子どもに、教育を届けたい。そして、教育を受けた子どもたちに、紛争のない平和な社会を作っていってほしいです。