元ヤクルト投手・上野啓輔が「起業家」を選択した理由
上野啓輔。元ヤクルトスワローズの投手であり、現在は幼児向け野球スクールや野球用品の販売・製造を行なう(株)FROM BASEの代表取締役。「野球しかやってこなかった」彼が、突然社会に放り込まれた感じた苦悩とは?
2009年1月。常に“クビ”の恐怖と隣り合わせでプレーを続け、3年の月日が流れていた。4年目のシーズンを迎えようとしていたところ、電話でスプリングキャンプに招待しない旨を告げられた。つまり“クビ”だ。
その後もアメリカでのプレー機会を模索したが、時期的にも同じ境遇の選手で溢れかえっており、契約は困難と判断し、同時に日本への帰国を決意する。
上野氏がレンジャーズに所属していた時期は元メジャーリーガーで現在中日の投手コーチを務める大塚晶文氏の在籍期間と重なっており、交流もあった。その大塚氏の紹介で知り合った吉本興業のスポーツマネジメントの担当者にレンジャーズ解雇後、連絡を入れた。
「海外挑戦続行の意志を伝えると、神宮でドジャースの極東スカウトと台湾プロ野球のスカウトの前で投げる機会をつくって下さったんです。しかし、いい結果は出ませんでした。今思い返せばデキレースで、僕に日本への帰国を決断させるためにセッティングしてくれたのかな、と思います」
代わりに持ちかけられたのは四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズからのオファーだった。
上野氏は香川入りを決断。しかし、プレーする場所がその時点では他になく、「行けるなら行きますくらいだった」と当時の心情としては仕方なく入団を決めた形だった。
香川では加入1年目から起用されたが、結局目立った成績は残せず、球速もレンジャーズ時代からは落ちた。日本のマウンドの柔らかさに対応できていなかったのだ。
それでも複数のNPB球団のスカウトが訪れており、日本ハムからはテストにも呼ばれた。しかし、思うようなパフォーマンスは出せず、ドラフトにもかからなかった。
そして1年目を終えたオフのある日、香川の西田真二監督から厳しい言葉が飛ぶことになる。
「『2年目もチャンスやるけど、心を入れ替えて真剣にやらないとこのままお前の野球人生終わってしまうぞ』と言われたんです。香川1年目の時は天狗になっていたんでしょう。高待遇で香川に入り、“秋にはどこかドラフトで指名してくれる”くらいの意識だったのだと思います。」
西田監督の言葉から強い危機感を抱いた上野氏は、変化を起こすために肉体改造に着手。食事制限に加えて、練習も走り込み中心のトレーニングメニューに変え、100kg以上あった体重を92kg前後まで落とすことに成功。球速も149kmまで戻すことができた。
ドラフト指名の裏側。そして引退へ。
自信を持って臨んだ2年目のシーズン。オフにはヤクルトから育成ドラフトで指名されることになるのだが、これは上野氏が“雨男”であることと関係がある。
「香川での2年目、僕が先発の試合は雨で6〜7試合流れています(笑)そのせいでスカウトが試合を観られない日もありました。僕のシーズン最後の登板の日もヤクルトからはスカウト部長、担当スカウト、編成部長が来ると聞かされていました。しかし登板日の予報は雨。
結局本当に雨で試合は流れたのですが、ヤクルトのスカウト陣が来ることは決まっていたので、ブルペンで投球を見てもらうことになりました。
雨男の僕は、そういう天気が悪い日に調子がいいんです。その日に向けてしっかり準備してきたことも重なり、ものすごいいい球を投げることができました。これでドラフトにかからなければ、もう無理だと思えるくらいのピッチングをしたので、やり切った気持ちはありましたね。」
スカウト陣の前でのブルペン投球から数日後、ヤクルトから調査書が届いた。ちなみに調査書とは指名候補の選手に向けてプロ野球12球団から送られてくる、自分の家族構成、野球経歴、プレースタイルなどを記入する書類のこと。この調査書がなければドラフト当日の獲得リストに載らないため、たとえ注目選手でも指名されることはない。
ヤクルト入団後はフォーム改造に失敗するなど、実力を全て出し切ることができず、結果として戦力外通告を受けた。
そんな折に上野氏は今後について親友のアナウンサーに相談している。「彼からは『アメリカ見て、日本見て、次はアジアでしょう!』なんて言われて(笑)
それで彼の繋がりから台湾の郭泰源(元西武)さんや呂明賜(元巨人)さんと会わせてもらいました。」
開かれていった台湾球界への道。台湾ウィンターリーグに現地チームの選手として参加することとなったが、最後は背中を肉離れし、引退を決断した。