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新卒で楽天へ入った男の次なる舞台は、愛する常勝軍団・鹿島アントラーズ

2017.10.10 / AZrena編集部

鹿島アントラーズ

金曜日に夜行バスで東京まで行き、そこから鹿嶋に行って、また戻ると。土曜の試合はまだ良いんですけど、日曜ナイターは大変でした。終わった後に、また東京駅まで戻り、東京駅から夜行バスで仙台へ向かって、着いたら仕事に行く。そういう生活を続けていました。

(大澤隆徳  鹿島アントラーズ 事業部 セールスグループ スポンサー担当)

 

多くの方がプロスポーツクラブで働くことに憧れを持っているかと思います。

ですが、ひとえにプロクラブの仕事と言っても形態は様々であり、そこに至るまでの道筋も十人十色。

実際に働いている人の数も決して多くは無い中、業界への入り方や道筋は明確化されていません。ただ、現在その現場で働いている多くの人達の経験談から見えるものも多いはずです。

スポーツ業界で働くには?そのために何をすれば良いのか。先人たちの足跡をたどる本連載において今回、お話を伺ったのは明治安田生命J1リーグにおいて首位を走る(2017年10月6日現在)“常勝軍団”鹿島アントラーズのスポンサー営業を務める大澤隆徳さんです。

もともと鹿島アントラーズのファンであった大澤さんが“愛するクラブ”の一員となった裏側には、とてつもない行動力と強い思いがありました。

 

地元は浦和だが、応援していたチームは…

僕は浦和レッズや大宮アルディージャのホームタウンであるさいたま市出身なのですが、3歳の時に父親が商社に勤めていたこともありドイツのデュッセルドルフへ行き、9歳まで住んでいました。その後にさいたま市へ戻ってきました。

サッカーを始めたのはドイツにいたときです。ドイツではサッカーが日常の生活に文化として根付いていました。公園に行くと、日本人の友達や見ず知らずのドイツ人とボールを蹴って遊んでいたんです。「Bolzplatz」といって簡単に言うとサッカーが出来る公園?のような場所です。そこで、サッカーにはまり、毎週金曜と土日のどちらかは現地のドイツのサッカースクールに通うようになりました。だから僕は、サッカーを習いに行ったというよりも、公園に遊びに行ったらサッカーがあって、気づいたらサッカーを始めていたという流れです。大人になって親から聞いた話によると当時はドイツ語を普通に話していたようでした(笑)。

 

日本に戻ってからは地元のサッカー少年団に入って、そのまま地元中学校のサッカー部に入り、高校は武南高校に進学しました。正直、サッカーでそこまで通用するとは思っていなかったんですけど、埼玉の高校で自分が一番強いと思うところでやってみたいという思いがあったんです。もちろんレギュラーになりたいという思いもありましたけど、それよりもレベルの高いところでやってみたかった。そうしないと後悔すると感じたので。

 

武南高校で3年間を過ごした後、指定校推薦で中央大学経済学部国際経済学科に進みました。大学のサッカー部には基本的にはサッカー推薦の人しか入部できないので部活動としてサッカーを続ける気は無かったですし、サッカーのサークルに入ろうとも思わなかったです。ただ、中央大学体育同好会連盟フースバルクラブというサッカーサークルの人たちに勧誘されて、一度練習に参加させてもらいました。

サークルのメンバーの中には全国選手権に出たことがある人やJクラブの下部組織出身の人がいて、結構真剣にサッカーに取り組んでいたのです。サッカーサークルのイメージがこの時、一気に変わりました。ここだったらサッカーをやっていて面白いなと思いましたし、将来を見据えた人間関係を構築することも考えて、このサークルに入りました。

転機となった2006年W杯

もともと、高校生の頃は選手の代理人になりたいと思っていました。

ただ、“なんとなく”です。2006年のドイツW杯の日本対オーストラリアの試合を現地で見て、「サッカーワールドカップはビジネスになるんだな」と肌で感じました。ちょうど大学に入ったばかりの頃で、経済学部に入ったけれど、そこで何を勉強したいのかが正直分からなかった。ただ、スポーツと経済というワードが頭に残っていて、その視点を持ってドイツW杯を見に行ったら、「サッカーを仕事にすることが出来るかもしれない。サッカーに関わる仕事はこういうこともあるのだな」と強く思いました。自分の大学生活の中で、「大きな目標」が出来た瞬間でした。

そして帰国後、日本でサッカーに関わる仕事は何があるのかな?と考えた時に、Jクラブの仕事が一番近いな思ったので調べてみました。調べていく中で鹿島の事例が多くでてきたのと、もともと好きなクラブだったので、「鹿島アントラーズで働きたい」と思ったんです。

『99.9999%Jリーグ参入は無理』と言われた中から、地域を巻き込んで、県も市も巻き込んでスタジアムを作った。サッカーやアントラーズがきっかけで地域が活性化しているという事例が出ていたので、こういう場所で仕事をしたいなと思い、鹿島を目指し始めました。

 

よく聞かれるんですけど、僕は実家が浦和にありながら浦和レッズのサポーターではなかったんです(笑)。当時は浦和のチケットがなかなか手に入らなかったのですが、たまたまチケットを取れた時があり、見に行った試合の対戦相手が鹿島でした。ヤナギさん(柳沢敦)、浩二さん(中田浩二)、満男さん(小笠原満男)がいて、純粋に「強いな」という印象を持ちました。こっちの赤(鹿島の赤)の方が好きだなって(笑)。

その時は99-00シーズンあたりで、カシマスタジアムを2002年のW杯に向けて改修していた時期。だから、鹿島はよく国立競技場をホームとして使っていたんです。親がよく国立まで連れて行ってくれましたね。そして、2000年に3冠を獲った。周りはほぼ全員が浦和を応援していましたが、おそらく僕だけが鹿島を応援しておりました。週明けに学校の友達に会うたびに「浦和は勝ったけど、鹿島は負けた」「次の鹿島対浦和の試合は鹿島が勝つからね」
そういう会話をしていた子供の頃が、今となってはとても良い思い出です(笑)。

「Jクラブの仕事がしたい」という強い思いを持った中で、大学2年時には集まった学生達が自由に研究テーマを決められるゼミに進みました(経済学部の福田川ゼミ)。そこで、「サッカーと地域の関係性をやりたい」と伝えたら、それが通ったんです。そこで本を読んだり、教授からアドバイスを聞いたり、そもそも地域活性化という視点でスポーツ以外の事例もあったので、それも調べたり。どういう形でやっていくのがベストなのかという研究をずっとやっていました。

その中でモデルとして調べていたのが鹿島アントラーズと、東北楽天ゴールデンイーグルスでした。楽天は野球というコンテンツだけではなく、野球以外のものでも集客していくことを目標に、尚かつ東北の地域を元気にすると思いを持っていたんです。

大澤隆徳氏

“自分で切り開いていく力”

そして大学3年生になり就職活動の時期が迫ってきたのですが、IMGの日本のダイレクターを務めている菊地さんという方とたまたま親族に知り合いがいた縁で繋がることができ、一度お会いさせていただきました。そこでは“Jクラブの仕事がしたいが、どうすればこの業界に入れるのか”ということを聞きました。

そこでの答えは『自分で切り開いていくことが第一』と。人に助けてもらうことももちろんだけど、自分で考えて動かないとダメだということを言われたんです。そして、とにかくチャンスがあったらそこに足を運ぶ、いつチャンスが来ても良いように、自分がプロスポーツの世界で何がしたいかを常に意見として持っておくように、ということも言われていました。

ただ、『新卒で入っても戦力にならないしクラブのためにならないから、普通に一般企業を受けたほうが良いんじゃないか』というアドバイスも一方ではあったのです。とはいえ、そこまで言われても鹿島に入りたすぎて(笑)。親会社やスポンサー企業に入ればどうにかなるんじゃないかと思って、トステム(現LIXIL)にも、住友金属(現 新日鐵住金)にもサントリーにもKDDIにもエントリーをしました。

 

結局、いずれの会社も受かることはできなかったのですが、同時にエントリーしていた楽天から内定をいただき、入社を決めました。

大澤隆徳氏

ではなぜ楽天を受けたのかというと、東北楽天ゴールデンイーグルスとヴィッセル神戸という存在があったからです。ここで働けばプロスポーツの仕事に関われるんじゃないか?と思いました。また、これからの時代はインターネットを使って仕事することが当たり前になってくると思っていたので、そういった会社に行きたいなと。

当時、楽天は英語化を推進していたし、将来はグローバルに仕事をしたいと思っていたことも理由の一つです。サッカーは世界中どこでも行われているし、サッカーを通じて色々な人とつながることができる。日本語しか話せなかったら1億2千万人としか繋がれない。ですが、少しでも英語が話せたら全世界と繋がれるチャンスがあるので、働きながら英語も鍛えられればいいなと思い、楽天に決めました。

 

楽天在籍中に得た、鹿島で働くチャンス

楽天に入ったのが2010年4月で、辞めたのは2012年1月でした。辞めた理由は、鹿島で働けるチャンスをもらえたからです。きっかけは楽天入社直前の2010年の3月。都内で、今の上司となる取締役事業部長の鈴木秀樹がセミナーをやっていたのです。“プロスポーツが地域に与える影響”というようなテーマの講演で、そこで菊地さんに言われたことが頭に残っていて、「チャンスがある時に行かないとダメだな」と思ったんです。

厳密には社会人限定のイベントだったのですが、4月から社会人になるということで掛け合ってみたらOKをもらえ、鈴木秀樹のところに行って名刺をもらいました。そこで「鹿島で働かせてください」と言ったんですけど、当然ダメだと言われて。ですが、楽天に入った年の夏、Jリーグの試合の後に再度連絡をして、お話をする時間をいただきました。

今思えば、いちプロサッカークラブの取締役事業部長の人間に対し、会わせてくださいと良く簡単に言ったなと(笑)。ただ、そこで話をしている中で、「試合の日だけでも手伝うことはできます」と申し出たんです。すると、その翌週くらいに連絡が来て、『試合の運営に入ってホームゲームの時だけ手伝ってみるか?』と言われました。もちろん受けますよね。
月から金までは楽天で働いて、土日のどちらかホームゲームの時は鹿嶋に行くということになりました。

 

入社して最初は品川で働いていたのですが、途中で仙台に異動になりました。異動してからはアントラーズのスタッフの方からは「遠くなるけど大丈夫か?」と心配されたのですが、「行きます!」と言って、実際に通いました。金曜日に夜行バスで東京まで行き、そこから鹿嶋に行って、また戻る。土曜の試合はまだ良いのですけど、日曜ナイターは大変でした。

終わった後に、また東京駅まで戻り、東京駅から夜行バスで仙台へ向かって、着いたら仕事に行く。そういう生活を続けていました。その中でもちろん、本業もしっかりとやっていました。そこをおろそかにするのは社会人としてダメですし、それ以上にスポーツ業界にいきたいという思いが強くて、勝手に体が動いていました。

辛い仕事も、好きなクラブで仕事が出来る歓びが勝る

スタジアムで行っていた仕事は競技運営担当の補佐や、コンコースで行われているイベントの手伝いです。プロスポーツの仕事は華があるけど泥臭い、というのは聞いていましたし実際大変でしたが、好きなことだから苦になることはありませんでした。確かにイベント運営は汗もかくし、すごく暑い中でもやらないといけないので負担は大きい。ただ、それよりも楽しいとか面白いが上回りました。好きだったクラブに関わることができるという充実感のほうが大きかったですね。

 

そして、2011年の東日本大震災があったシーズンに、鹿島の中で採用の話が上がり、『スキルは置いといて、気持ちはあるからやってみるか』と言われて、即決しました。

もちろん嬉しかったのですが、同時にすごく不安にもなりました。自分の好きなクラブでそこまで責任を背負ってできるのかな、と。ファン・サポーターの思いも自分なりに理解はしていましたし、大好きな鹿島のフロントとしてやるプレッシャーが出てきたのは事実です。

 

スポンサーの冠試合は3〜4ヶ月前から仕掛ける

最初の2年間は、現場で競技運営の仕事をさせてもらっていたのですけど、経験したことがなかったのすごくミスもしたし、怒られたし、自分がクラブに貢献しているなんて思えないくらいでした。正直、「こんなに覚えることがあるのか」と痛感しました。一つの試合を成り立たせるのにこんなに苦労するのか、と。Jリーグもカップ戦も国際試合も、チャリティーマッチのような試合も、カシマスタジアムで行われればなんとなく同じような気はしますけど、裏方に入ると違う景色が見えるのです。

例えば、ドリンク一つを例に挙げると、通常ならスポンサーのサントリーの飲料を使っていれば良いのですが、大会によっては違うメーカーのものにすることもあります。そして、違うメーカーのものにするためには段取りも異なる。その中で経験も知識もないので、色々な人に怒られながら覚えました。だからこそ、色々教えてくれた人には今でも感謝しています。

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基本的に、スポンサー企業とは新シーズンが始まる前に契約書を交わし、打ち合わせを進めていきます。そこでは、年間を通じていつどの試合でどういうアクティビティをやるのか、どのタイミングでどういうお客さんをターゲットとしていくのか、といったような話をします。そして、シーズンが始まったらそれを上手く回していく作業をします。スポンサーの名前が付いた冠の試合の担当もやっていて、開催するときはだいたい3〜4ヶ月前くらいから動き出します。どういうことをやるか打ち合わせをして、スポンサーの要望を聞きながら調整するとか、そういった業務を絶えずやっています。

あとはスポンサー担当の仕事とは全く別ですが、アジアチャンピオンズリーグの試合では来日する審判団のリエゾン業務をしております。審判団が空港に着いてから、帰国するまでのアテンド業務です。

ようやく楽天で鍛えられた英語が活かせる時がやってきました(笑)。生活スタイルも文化も違うし、特に東アジアで開催されるACLのゲームでは、大半が中東の方が審判となります。異なる宗教への理解も必要ですし、食事にも気を使わないといけない。ただ、そこで丁寧な対応をすることが「鹿島アントラーズの運営は完璧だ」という評価にもつながるし、審判団が別の場所で「鹿島アントラーズの受け入れなら問題ない」という話を他の審判団にしてくれます。正解がない仕事ですが、自分なりの解答や目標をもって取り組んでいます。

スタッフにも受け継がれるジーコの精神

鹿島クラブハウスの選手ロッカー入り口には、ポルトガル語と日本語で「献身・誠実・尊重」と書かれた額縁が飾ってあります。

この言葉は、ジーコの教えをまとめた3カ条で、鹿島に携わるすべての人間にとっての原点です。その中で、スタッフも勝利に対して徹底的にこだわり、極端な例ですけど、昨年の〇〇〇戦はこういうルーティンで勝ったから次の〇〇〇戦もそれでいく、前回の▲▲との試合は飛行機で行って負けたから次は新幹線で行く、ということもします。勝つための準備は何でもやるというところがすごいなと思いますね。そこは自分自身も大事にしています。選手が勝利の為に様々な準備をするように、スタッフも勝利の為に出来ることは何でもやります。

 

週に1回、クラブハウスのグラウンドを使って、スタッフサッカーというのもやるのですが、そこも本気です(笑)。本気で体のぶつけ合いもあるし、それもみんなが勝ちたいから起きることなのです。負けて良いことはあまりないじゃないですか。僕らはホームタウンの人口を合わせても約28万人しかいない場所でサッカークラブ経営をしていますし、Jリーグにおける観客1人あたりの平均移動時間も、約2時間かかっています。だからこそ、来てくれた人には勝利を提供しなければいけない。

仕事以外の部分でも「勝利」を意識することにより、勝利への思いはより強くなります。

 

“勝つことだけがスタジアムの楽しさじゃない”と言われることもありますけど、僕らは勝利のためにやらないといけないと強く思っています。勝つことに重点を置かなくなったら、鹿島アントラーズではなくなってしまうと思いますし、そこは絶えず意識しています。優勝が決まることを想定して、事前にイベントの準備をするクラブは多いと思いますが、鹿島はそういうことはしません。

勝ってから考える。
“目の前の試合で勝つことだけに全力を尽くす”というのがスタンスとしてあります。それくらい、徹底しているのです。

『何のために仕事しているんですか?』と聞かれれば、「チームの勝利のために」と言えるぐらいです。新しく入った人でも、昔からいる人でも共通の認識は持っていると思います。そこがこのクラブの強みです。「常勝軍団」というイメージは、僕が鹿島に入る前からメディアを通じて皆様が広く認識していただいている鹿島アントラーズのイメージそのものだと思います。

 

実際に入社して感じるのは、「常勝軍団」になるために何か特別なことをしているわけではありません。「チームの勝利のため」に各人が与えられたことにベストを尽くしている。当たり前のことを当たり前にやる。それに尽きると思います。

 

思いを口にすることが重要

今は、僕がスポーツの世界に入りたいと思った時よりも、いろいろな情報が得られやすくなったし、SNSで色々な人から話を聞きやすくなったと思います。

僕自身は『自分で切り開く』ということを言われてそれを強く感じましたが、コミュニケーション能力は必要だなと思います。

また、鹿島で働いて強く感じるのは、ハート(気持ち)がなければダメだということ。スポーツに対する思い、サッカーに対する思い。
そういう部分は、なんとなくでも話している中で相手に伝わります。だから、自分の気持ちに嘘はつかなくて良いと思うのです。他人にこういうことを言ったら恥ずかしいとか、そう思う必要はないです。声に出すことで助けてくれる人もいると思います。

 

諦めない、ということも重要です。
アントラーズの選手も、諦めなかったから昨年、クラブワールドカップの決勝でレアル相手に先制点を取られたけど、前半の内に同点に追い付き、一時は逆転まですることが出来たと思っております。

僕が業界に入ろうとしたとき、『人脈がないと厳しい』とか『20代では難しい』と言われたこともありました。ただ、人脈がなければ作れば良いだけの話ですし、20代で厳しいと言われても、確率はゼロじゃない。挑戦すれば、もしかしたらできるかもしれない。そう考えた結果、僕の今があると思っています。諦めないこと。これが一番だと思います。