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稲葉洸太郎(フットサル日本代表)は、なぜ現役中に挑戦を続けるのか?

2017.09.21 / AZrena編集部

稲葉洸太郎の肩書は、多岐にわたる。フットサル選手、経営者、オーナー、アドバイザー、コーチ、テクニカルディレクター……現役選手でありながら、これほどの挑戦を続ける理由とは? 本人に訊いた。

稲葉洸太郎
 
スポーツ選手であれば、誰もが避けて通ることはできない“セカンドキャリア”問題。現役時代に華々しい成績を残した選手であっても、第2のキャリアで苦戦を強いられることは少なくない。
 
2004年、当時の史上最年少(21歳)でフットサル日本代表に選出され、2度のW杯に出場した稲葉洸太郎。現在はFリーグ・フウガドールすみだの選手としてプレーするほか、会社やフットサル場の経営、育成年代の指導など、その活動は多岐に渡る。
 
フットサル界の中心人物として活躍し、Fリーグの普及にも多大な貢献を果たした彼が、なぜピッチ外で幅広いチャレンジを続けているのか。そこには、現役中に取り組むべき理由と、フットサルへの熱い想いがあった。
 

指導者であり、プレーヤーであり、社長。

――まず、稲葉選手の肩書きはどのくらいあるのでしょうか?
 
稲葉洸太郎(以下、稲葉) フットサル選手、会社経営者、フットサル場のオーナー、キッズ大陸のアドバイザー、暁星マルセーエーズのコーチ、POTENCIAのテクニカルディレクター…という具合です。
 
――実際にプレーするだけでなく、指導にも力を入れているのですね。
 
稲葉 母校でもある暁星小学校のサッカー部が4年生からしか入れないので、暁星マルセーエーズで個人スクールとして3年生までを教えています。
 
それに加えてPOTENCIA(ポテンシア)というフットサルスクールを、元フットサル日本代表監督のミゲル・ロドリゴと一緒にやっています。ネイマールやロナウジーニョ、イニエスタやシャビもそうですけど、スペインやブラジルのサッカー選手は、まず子供の頃にフットサルを始めるんです。
 
日本だと小学生年代の指導者は「まだ足の裏は使うな」「トーキックはダメ」という人もまだいますけど、サッカーをやっている子に「週1回だけでもフットサルをやりませんか?」というふうに提案する形で、オリジナルのスクールや、既存のサッカーチームやスクールのお手伝いとして、コーチに指導方法を教えたり、メソッドを提供もしていて、高校や大学のサッカー部にも提案していって、フットサルをやってほしいと思っています。
 
――海外のサッカー選手は、子供の頃からフットサルを当たり前のようにプレーしているのでしょうか?
 
稲葉 スペインではサッカーの指導要綱に入っているくらいです。海外では当たり前だから、という理由で日本人にもフットサルをやらせようとしても反発が起きてしまうので、「これはどうですか?」と提案するような形で、ミゲルと一緒に活動しています。
 
とはいえ僕が伝えるだけだと、僕もサッカーからフットサルに来た人間なので、説得力が弱いんですよ。なので、ミゲルが伝えてくれることには大きな意義があります。スペインでサッカーとフットサルとの関わりを熟知していて、日本のことも深く知っている彼と組むのはベストだと思っています。
 

遊びで始めたフットサルから、代表へ

――初めて日本代表に入ったのはいつ頃でしょうか?
 
稲葉 大学生で初めて日本代表に入ったんですけど、それまでは遊び感覚でフットサルをしていたんですよ(笑)。暁星高校を卒業する前に、遊びでフットサルの大会に出て、そこからだんだんとのめり込んでいきました。
 
まだ当時は日本リーグもなく、プロの世界もなかったので、民間の大会によく出ていました。大きい大会にも次々と出るようになったら、全国大会で優勝することができたりしていくうちに、日本代表に呼ばれたんです。合宿に行っても、自己流でやっていたのでフットサルの動きも分からないし、怒られながらやっていました。
 
最初の国際試合は、日本が初めて自力でW杯出場を決めた2004年のアジア予選でした。その当時は僕だけが大学生で、周りは社会人ばかり。遊びの延長線上という気持ちで行っていたんですけど、大会が進むにつれて周囲のフットサルにかける気持ちが伝わってきました。4年前に負けて悔しい思いをして、それからの4年間はこの大会のために戦ってきた、というような人たちばかりだったんです。
 
初めてW杯出場を決めた瞬間は、大の大人がみんなで泣いていましたね。それを見て僕は感銘を受けて、日本代表としての責務を感じました。それと同時に、学生の世代は僕しかいなかったので、これからは俺がチームを引っ張って、下の年代に伝えていく必要があると思いました。そこから、フットサルをどう職業にしていこうかと考え始めたんです。
 
――フットサルを職業にするために、どのような行動をされたのでしょうか。
 
稲葉 ビーチバレーや卓球などの選手と話していたんですけど、みんな個人スポンサーが付いているんですよね。日本代表に入ったのがきっかけで関東リーグのFirefoxに移籍しましたけど、お金ももらえませんでした。
 
それに、大学の卒業も控えていますし、親には心配をかけていました。それならば企業に雇ってもらいながら、フットサルをやれるのがベストだと考えたんです。そういう考えもあって、卒業から何年かはフルタイム勤務ではなく、企業の所属選手というような形でプレーしていました。
 
――2007年にFリーグが開幕し、2008年にはW杯に出場しました。
 
稲葉 W杯では予選リーグを突破できずに悔しい思いをしましたが、日本代表として大会初勝利は果たせました。そこから4年間は、次のW杯のために集中して頑張ろうという想いで過ごしていました。
 
2012年のW杯では、キング・カズこと三浦知良選手とも一緒にプレーをしましたね。
 
稲葉 カズさんとプレーできたことは本当に幸せな時間でした! 小さい頃から憧れだったので。準備期間も含めると1ヶ月以上ともに毎日生活をして色々なお話をさせていただきました。 
 
それまでの4年間はフットサルに集中していたこともあって、サッカー関係の方とお話をしても「サッカーはサッカーで、フットサルはフットサルだから」という変なプライドがありました。ただ、カズさんと一緒に出た2012年のW杯が終わってからは、カズさんの影響もあって、やっぱりサッカーとフットサルは同じフットボールだなと考えるようになって。
 
それくらい大きく影響は受けましたね!
 
今はフットボールの割合はサッカーが大半を占めていますけど、幼少期からフットサルを始める子供を増やせば、競技の認知度も自ずと上がってくると思って活動しています。
 
――幼少期からFリーガーを目指す子供も増えてくるのではないでしょうか。
 
稲葉 今はフットサルしかやっていない子も出てきてはいますが、まだまだライバルが少ないんですよね。もっとその人数が増えてきて、毎週のように練習試合ができるようになって、常に競争が生まれれば良いなと思っています。そうすれば、日本のサッカー界にも良い影響が与えられるはずです。
 
稲葉洸太郎
 

サッカー選手はサッカーコートを作って欲しい

 
――フットサル場を作った経緯にも、そのような想いがあったのでしょうか?
 
稲葉 フットサル場に関しては、自分の場所を作りたいことと、仕事としてフットサルに携わりたいという想いもありました。引退してからというよりは、現役中から少しでも作り上げていって、引退後にはしっかりと形になっていることを目標にやっています。もちろん子供たちや、Fリーグを目指す選手たちにはたくさん練習に使ってほしいですし、自主トレにも使えるように開放しています。
 
今はサッカー選手が数多くフットサル場を作っていますけど、サッカー選手はサッカー場を作れ!と思うんですよ。『フットサル選手はフットサル場を作れない』と思われるのが嫌だったのが、コートを作った理由の1つでもあります。その当時は尖っていたし、今となってはサッカーのことを認めて一緒に生きていこうと思っているので、そんな気持ちはあまりないですけど(笑)。
 
――フットサル場をプロデュースすることで、稲葉選手やFリーグの認知度向上にも繋がりそうです。
 
稲葉 フットサル人口は増えてきていますけど、Fリーグや稲葉洸太郎の存在を知っている人は、ほんの一部ですからね。僕のフットサルコートを使ってくれている方でも、僕のことを知らずに楽しんでいる人はたくさんいます。ほとんどの人はサッカーをやりたいけど、人数が集まらなかったり、体力的にフルコートを走るのはきつかったりして、手軽なフットサルをやっているんだと思います。
 
――現役中にフットサル場を作るというこだわりは強かったのでしょうか?
 
稲葉 フットサル選手は練習以外の時間がたくさんあって、その時間を何に使うかは大切だと考えています。僕の場合は2012年のW杯が終わって、結婚をして子供も産まれたんですけど、子供が産まれると引退していく人も多いんです。ただ、僕の中ではフットサルしかなかった。 
 
フットサルの仕事をどう膨らませていくかと考えたら、自分でやるしかないな、と。最近は引退が前より近づいてきていて、準備していかないといけないこともあって、空き時間に対しての考え方も変わってきています。
 

W杯出場を逃した影響

――とはいえ、会社を立ち上げることは、なかなかできないことだと思います。
 
稲葉 選手としてトップでやりながら、こういうこともできるんだと見せたい気持ちもあります。僕はFリーグ創成期からプレーをしてきましたが、リーグ自体がすごく伸びているといえば、盛り上がりは横ばいなところもある。それでも自分の中では何かやってやろうという想いがありますし、そうしないとフットサルに人生を捧げている僕たちが食っていけなくなるんですよね。
 
選手たちにもフットサルを盛り上げようというアンテナがある選手もいれば、全然そうでない選手もいます。ただ、去年のW杯予選で日本代表は負けて、本戦進出を逃したんですよ。僕は予選には出場していないですけど、本戦には出場するつもりでいたので「負けた・・・」となって。盛り上がりがまた落ちるんじゃないかとか、いろいろと考えて、本気で立ち上がろうという気持ちになりました。
 
日本が世界の舞台へ行けないくらい、今はアジアにいる他国の力が伸びてきているんです。サッカー日本代表も、予選を突破することすら簡単ではないじゃないですか。アジアは強化に力を入れてきていますし、日本がどう戦っていくのかを考えないといけないレベルに来ていますね。
 
――W杯に出られなかった影響は感じていますか?
 
稲葉 伸びるための良い機会だったのに、何も変わらずにまた4年間を過ごさないといけなくなりますよね。日本って、サッカー界では小学生年代が世界トップクラスのクラブチームに勝ててしまうくらい、世界で戦える力を持っているんです。だけど、中学、高校を経てプロになった時に、世界の強豪国と差が出てしまっています。そこに何かがあるんですよね。
 
小学生の時に勝ちに固執した戦い方をすれば、ある程度は勝てると思います。でも、それをやってしまうと中学、高校で伸びなくなるし、「もっと考えさせろ」とミゲルは言うんです。自分で考えて、自分でプレーを決断させること。日本ではああやれ、こうやれと型にはめたがる人もいるじゃないですか。
 
スペインやブラジルでは自分たちで考えて、決断してプレーをすることが当たり前なので、ここが伸びるんです。POTENCIAでは、技術だけでなく考え方の部分も取り入れて、サッカー界に提案したいと思っています。
 
稲葉洸太郎
 

現役中に引退後を考え、動く理由

 
――昨年に会社を設立しましたが、主な事業内容を教えてください。
 
稲葉 スポーツ関連の教育事業、スポーツ施設やフットサル、スクールの運営が楽になるようなアプリを展開したりしています。また、フットサルのメソッドも展開していますので、フットボール界全体の底上げに繋がれば嬉しいですね。それと、スポーツウェアの企画・販売も手がけています。
 
――現役中に引退後のことを考えて取り組んでいるとなると、一部のファンはそこにネガティブさを感じることもあるのではないでしょうか。
 
稲葉 それはそれで良いと思うんです。もちろん、全てをフットサルに費やすこともできますけど、現状はそれだけで何千万円もらえる選手が、日本人ではいないですから。サッカーで何千万〜何億ともらえれば、引退後に何年か空白の時間があっても、そこで準備すれば良いと思います。でも、僕らはそうではないので、時間がある中で引退後のことを考えないといけないんです。
 
あとは現役中のほうが名前は知られていますし、応援してくれる部分もあるので、今やることに意味はあります。ネガティブな見方はあるかもしれませんが、何かをやる時には全員が賛成してくれるわけではないですし。その反対意見はありがたく頂戴して、試合ではしっかりと結果を出す気持ちでいます。
 
――練習以外の時間をどう生かすかが大切ですね。
 
稲葉 勉強して一つでも資格を取るとか、パソコンなどの知識だけでも入れるとか、選手は何かしらすべきと思います。やれることはやっておいたほうが絶対に良いですし、僕は今34歳ですけど、Jリーガーでこの歳までプレーできる選手は少ないじゃないですか。
 
1、2年で解雇になる選手多いですし、突然そういう境遇になった時に「どうする?」と考えるよりは、いつそうなっても大丈夫なように備え、考えつつピッチでも頑張るというのが大事かなと思います。プレーに支障をきたすようなことはしないほうが良いですけどね。
 
――多岐にわたる活動の行く末を期待しています。最後に、今後の目標を教えてください。
 
稲葉 選手としては、日本代表というのを常に目指しながら、日々取り組んでいます。ビジネスとしては、今やっていることの規模をもっと大きくして、フットサル界に恩返しできるようにしたいと思っています。
 
今度、大手の衣料品量販店が海外に出店するのですが、実はその内装の一部分を僕たちが手かげています。その仕事ができたのもフットサルで培った人脈のおかげですし、フットサルがプラスになっているんです。ゆくゆくは今回の繋がりもフットサルのためにならないかと模索しながらやっています。
 
今後もいろいろなことに取り組んでいきたいと思っています。
 
<了>