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ドッジボール日本代表総監督・吉田隼也が語る競技の魅力。

2015.06.18 / 森 大樹

吉田隼也

今回はドッジボール日本代表総監督・吉田隼也さんにお話を伺います。小学4年生の時にドッジボールと出会った吉田さんはご家族と共にドッジボールに長く携わっており、2012年から創設された日本代表でも選手・総監督としてご活躍されています。ドッジボールへの熱い想いを語って頂きました!

教えるだけでは感じられない面白さ、楽しさ

――まず吉田さんがドッジボールをされるまでのスポーツ経歴を教えてください。

ドッジボール以外ですと小学校から高校までずっと野球をしていました。

ドッジボールとの出会いは兄と小学校4年生の時、大会に出場したことがきっかけです。兄と兄が誘って集まった友達のチームに僕も入って一緒に出ました。ドッジボール協会ができて今年で25年になりますが、設立のきっかけは少年誌・コミックボンボンのドッジボール漫画「爆風ドッジ」から来ています。その漫画の影響で実際にドッジボール大会が開催されることになったんです。なのでローカルで行われていた試合などを除けば、おそらく僕らが出たその大会が日本で一番初めに開催されたドッジボール大会ということになると思います。その時の事は今でも覚えています。その大会開催がきっかけとなって詳しいルールが作られ、今日のドッジボールに至ります。ちなみに当時、僕が出場していたチームは今も引き継がれています。

――そのチームは日本で一番歴史があるということになりますね。

そうですね。私もドッジボールができたときからやっていることになるので、他の方と比べて競技歴も携わっている時間もかなり長い方になると思います。

――中学校、高校ではドッジボールは続けられなかったのですか。

中学、高校では野球に専念していてドッジボールから離れていました。その間も小学生の時のチームの監督を父が、コーチを兄がやっていて、指導メニューを考え、毎週練習を行っていました。私も競技から離れてはいましたが家に帰ればいつも試合のビデオを一緒に見ながら家族とドッジボールについて話をしましたね。

――しばらくの間離れていた吉田さんがドッジボールに復帰したきっかけを教えてください。

私が18歳くらいの頃からチームは強くなり始め、その影響で子供達も70名ほどに増えていきました。それで兄から自分だけでは練習を見ることができないから手伝って欲しいと言われ、復帰することにしました。兄と2人体制になってから全国大会に出始めています。ドッジボールは兄が始めたもの、という認識だったので長くは関わらないだろうと思っていましたが、自分達が作ったチームだったので責任も感じて、本格的に手伝うようになりました。

兄は中学・高校と自分の時間を使って、チームの指導をずっと続けていました。僕は現在ドッジボールの日本代表総監督をさせて頂いていますが、今でも兄が考えてきた練習方法や指導方法から学んでいます。研究熱心な兄がいて、練習ができるチームがあって、ドッジボールに恵まれた環境で僕は育ってきました。

吉田隼也、吉田直人

吉田さん(左)のドッジボール人生に大きな影響を与えた兄・直人さん(右)

――吉田さんのドッジボール人生においてお兄様の存在は大きいということですね。

はい。兄のことを僕は本当に尊敬しています。ただその中でも練習方法や戦略を考え、自分でも試しながら指導をずっと続けていました。

日本代表発足から総監督になるまでの道のり

――指導する側から競技をするようになったきっかけは何だったのでしょうか。

20歳頃の時のことです。自分で実際にお手本を見せながら指導していたのですが、そのうちに血が騒いできて、教えるだけでなく自分達も競技をしたいという話に仲間達となりました。ドッジボールは基本的に小学生までしか大会がありません。本気でやってきた子供達が中学生になったらドッジボールを辞めざるを得ないというのは寂しいですし、もったいないとも思っていたので、中学生以上が参加できる一般(中学生以上・大人)の部を作ることにしたんです。一般向けの大会は東京都の協会が開催しています。それで私達は競技経験のある仲間を集めて練習をして大会に参加しよう、ということになりました。やってみると、教えるだけでは感じられない面白さ、楽しさを感じることができました。

――幅広い年代が楽しめる方が競技の活性化にも繋がりそうですよね。

――その頃から日本代表を作りたいとお考えだったのでしょうか。

まだ当時は日本代表なんて考えてもいなかったんです。周りからは日本代表ができたらいいね、オリンピック競技になったらいいねと言われることもありましたが、正直厳しいだろうと思っていました。

最初の頃は僕らが真剣にやっていると、「ドッジボールは小学生までの子供が真剣にやるスポーツで、なぜ大人が本気でやっているんだ」と言われることもありました。一般として本気でやり始めたのは自分達をはじめとした本当に少数のチームだけだったので、周りからはそういう目で見られてしまったのだと思います。それでも周りに少しでも知ってもらう目的であえて東京選抜というチーム名を付けました。

吉田隼也

――目指すべきトップの存在を作れば、子供達が競技を続ける励みにもなりますね。

ドッジボールは確かに子供にやらせた方がいいスポーツではあります。小学生の発達の時期にいろいろな動きができるようになって、将来他のスポーツに転向したとしても役立つと言われています。

ただ中学から他のスポーツをするのももちろん良いことですが、中には本気でドッジボールが好きで、小学校卒業後も続けたい子がいます。小学生に本気で競技として指導しておいて、卒業したら次のステップがないからドッジボールを諦めて、違う競技をさせるということで本当に良いのだろうか、と思ったんです。

私達には競技を好きにさせた責任もあって、続けられる場所や子供が憧れるような存在を作らないと、本当にドッジボールは小学生だけのスポーツで終わってしまうと考えました。

日本代表という環境は、子供が憧れる存在をつくるということだけでなく、子供時代にドッジボールを諦めなければいけなかった人達に対しての刺激になってほしいと考えています。実際にこれまで大人のチームがなかった東北や中国・四国といった地域でも少しずつですが盛り上がりを見せてきています。

――チームが増えてくれば一般の全国大会も盛り上がりそうですね。

2013年に初めて全日本選手権が行えるようになりましたが、最初は参加するチームもかなり少なかったです。急に始まった全日本選手権というものに対してイメージが持ちにくく、強いチームも予定を合わせて出場する価値があるかどうか、分からなかったのだと思います。

それが2014年に全国9会場で予選大会を開催したことで参加チームの関心が一気に高まったように感じます。昨年の全日本選手権は全国各地から強豪チームがドッジボール選手にとって憧れの地である東京体育館に集まり、まさに2014年の最強チームを決めるという大会を開催することができました。私にとっては、一般のチームを立ち上げてからここに至るまで10年以上かかったことになりますね。

ドッジボール・2014年アジア杯日本代表

2014年アジアカップ日本代表(吉田さんは背番号1)

――長い道のりだったのですね。日本代表が発足したのはいつからですか。

今僕が総監督を務める、ドッジボール日本代表ができたのは2012年のことです。僕は当時30歳でした。韓国で行われる初めての海外遠征に選手を派遣するという話になったのですが、まだ当時は代表がなかったので、選手の選考方法も選考基準も決まっていない状態でした。でも、僕の中のイメージはサッカーや野球の日本代表と同じ「日本の代表」ですから、この機会を逃すわけにはいかないと思ってすぐに応募しました。

――日本代表の選考には大勢の人が集まったのでしょうか。

その時に集まったのはたったの14名です。僕は彼らのことを勇者だと思っています。当時、大人のドッジボールは競技環境が限定的で他のチームの強豪選手のことは大体知っているという状況でしたので、当然名乗りを挙げれば周囲に注目されます。いざ日本代表となるといい選手達も慎重になり、様子をみてしまい、進んで手を挙げられなかったのだと思います。

今の日本代表にいる本当にうまい選手も当時はほとんど誰も手を挙げていません。お金も実費だったですからね。でも僕は日本代表という夢が叶うと喜んで飛びつきました。そこまでして参加する価値があるのか、いろいろ周りからも言われましたが、その価値なんてこれから自分達で高めていけばいいと思いました。とにかく10年以上諦めないで続けてきたドッジボール界に爪痕を残したいという一心でした。父や兄と共に時間と情熱をかけて作り上げてきたことを証として残したかったんです。

――その後日本代表に対する周囲の反応も変わっていきましたか。

1年目の評価は遠征から戻ってきた僕達の熱い気持ちに反してあまり良くなくて、周囲からは冷やかされました。2013年には4カ国集まって日本でアジアカップが開催されたのですが、その頃には強い選手も興味を持ち、集まってきましたね。

吉田隼也

――その頃に吉田さんは日本代表総監督に就任されています。

アジアカップあたりから選手は集まってきましたが、組織としてまとめる人が必要な状況だったので、協会から監督の要請がありました。でも、僕としては選手としての立場をまだ終わりたくなかったので、選手としてもセレクションに参加させて頂くという条件でお引き受けすることにしました。2014年のアジアカップでは応募人数もかなり増え、監督として周りをまとめながら自分も選手として残れるようにしっかりとしたパフォーマンスを出すことは大変でした。

――ずっと指導されてきた経験があった吉田さんだからこそできることですよね。

本当に今までの経験は大きいです。でも以前からスポーツに関する基礎的な知識が足りていないと感じていて、その状態で指導することに疑問を持ったので、2008年・27歳のときに桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部スポーツ健康政策学科に1期生として入学しました。勢いだけで指導をするのはいけないと感じたので、大学でスポーツについて学びながら指導していきました。本気でやったらどうなるのか試したい、後悔ないようにやってみようと思ったんです。2時間かけて大学に通い、アルバイトをしながら学費を稼いで、夜はドッジボールの指導をするといった生活を送っていました。

――なかなかハードな生活ですね。時間がない中で一般チームの練習はいつされているのでしょうか。

小学生の練習が終わった後にしています。メンバーは、やはりそのチームの卒業生が多いですね。その中でも僕は飛び抜けて熱く競技をしているので、チームのみんなにもこの人どれだけ熱いんだ、と引かれているかもしれません。(笑)

【後編】へ続く