花谷昴(三段跳び)の覚悟。仕事と競技の両立を乗り越え、日本代表へ。
陸上競技・三段跳の花谷 昴 選手(株式会社ニューモード所属)のインタビューです。日本GP織田記念2位、日本選手権4位、関西学生記録(16m26)をマークするなど、最前線で活躍されている花谷選手。日本のお家芸と言われた三段跳の魅力に今回は迫ります!ホップ・ステップ・ジャーンプ!
サッカー少年だった小学時代から、陸上漬けの高校生活に至るまで
―― まずは花谷選手のスポーツ経歴を教えてください。
父親がサッカー好きで、その影響で小さい頃からサッカーをやっていました。特にどこかのチームやクラブに入ることはなく、友達と遊びでしていたくらいです。小学校6年のときに、小学生の陸上競技の全国大会「日清食品カップ」という大会がありました。その予選大会に、クラスで足が速く、走幅跳も走高跳もクラスで一番だったので、先生に出ないかと言われて出場しました。走高跳はあまり好きではなく、走幅跳が好きでそちらに出場しました。この出場が自分を陸上に目覚めさせたきっかけです。記録は4m02だったかな。
それまでサッカー少年で、サッカー選手になりたかったのですが、陸上競技の道具を使わずに自分の身体一つで競技することがすごく楽しかったことを今でも覚えています。自分より跳ぶ選手を見て、「すごい!」と思い、中学校では陸上をすることに決めました。
――中学校でも走幅跳をされたのですか。
いいえ。中学校で陸上部に入ると、まずは短距離か長距離の2択でした。長距離は好きではなかったので、とりあえず短距離を選んだのですが、僕の走りのピークは小学校4年生でした(笑)そこから抜かれに抜かれて、中学校では脚の遅い人でした。100mも15秒7と本当に遅かったです。
――ピークが早いですね(笑)陸上部に入り足は速くなりましたか。
中学1年で13秒55まで伸びました。勝負事よりも自分のタイムが縮まることが嬉しかったです。
――練習で大分早くなりましたが、そのタイムはまだ人並みくらいですよね。
2秒速くなりましたが速い選手は11秒台なので、まだまだ遅い方でした。2年になってから顧問の先生から「今年は走高跳と400mが強い選手が少なくて狙い目だ」と言われ100mをクビになりました(笑)気持ち的には400m走に出たかったのですが、1年のときに体育の授業で走高跳がクラスで一番だったので、先生の勧めもあり走高跳に決めました。
顧問の先生は長距離専門だったので、技術的な指導はほとんどなく、練習用のマットもスポンジの切れ端を集めて入れたようなお粗末なマット、バーは竹という練習環境でした。良かったことは京都では合同練習会があって、いろいろな学校が集まり、各種目で専門の先生が教えてくれる機会があることでした。そこで専門の先生に教えてもらったことと、陸上の専門誌を読み学んだことを意識しながら日々練習しました。
――中学時代から自分から学んで練習するというところがすごいですね。
中学1年の終わりから今までの陸上競技雑誌はほぼ全部持っています。あとは先輩に走高跳をしている人がいたので教えてもらったりもしました。背面跳びの練習もして、中学2年の春の大会で京都市で3位になりました。記録は1m69cmでした。
――いきなり3位はすごいですね!
自分でも驚きました。雨も降っていたのですが、当時はすべるという概念がなかったので、何も恐れずに跳べました。スパイクも走高跳のものではなく、初心者用のスパイクでした。そこからは中学でずっと走高跳に打ち込みました。跳べるようにはなりましたが、脚はその後一向に速くなりませんでした(笑)中学3年で、3種競技A(100m・砲丸投げ・走高跳)に出たのですが、走高跳の記録だけ良かったです。
――中学では全国大会は出場されましたか。
出場していません。全国の標準記録が1m86cmで、同い年の子が2人地元京都で開催された全国大会にいきました。1位の選手が全国大会のスローガンを考えて、2位の選手は選手宣誓をしていて、3位の僕はスタンドからカメラで撮っていました(笑)悔しかったのでよく覚えています。
――高校も走高跳をされていたのですか。
走高跳がやりたかったので、しっかりとした指導者のいる高校にいこうと思いました。勉強も両立したい思いもあり、西京高校が商業高校から進学校に変わると聞いて興味をもっていました。陸上競技部・顧問の渡邉為彦先生は、走高跳の指導で有名な先生でした。当時、西京高校の走高跳の女性の先輩がテレビで出ているのを見て、めちゃきれい!と思ったのも、一つのきっかけですね。
全国大会で起こった“ハチマキ事件”
――高校では三段跳もされていますが、三段跳をはじめたきっかけを教えてください。
入学直後の大会で、先生に三段跳にエントリーされて出場したのですが、記録が13m10cmと意外に跳べて、6位で次の大会に進めたことがきっかけです。大会までに、基本的な右・右・左の跳び方を覚え、簡単な助走練習をしての出場でした。また、入学してみると、男女で練習が分かれていて、女子の担当が渡邉先生で、男子は別の先生でした。僕は渡邉先生に見てもらえると思って入学したので、落ち込みましたね。その先生は砂場系(走幅跳・三段跳)の種目を教えるのが得意な先生で、走高跳の指導はあまり得意ではありませんでした。
――そのまま走高跳はされなかったのですか。
2年生になるときに、走高跳と三段跳の両方をやるのはきついと思い「走高跳がしたい!」と何回も先生にお願いしました。でも、ダメでした。思いの外、三段跳の記録が伸びていたからだと思います。当時は三段跳はサブ種目で自分は走高跳の選手だ、という自覚がありました。
――走高跳への思いがかなり強かったのですね。結局高校ではどちらもされていたのですか。
高校2年の近畿大会で、三段跳は6位で全国出場(6位まで全国大会に出場できる)を決めました。走高跳では予選は通過したものの、決勝は記録なしで終わりました。三段跳を始めてから、身体も大きくなり、走高跳にはあまり向かない身体になっていたこと、大会の結果を振り返ったときに三段跳のほうが勝負できるのでは、と感じました。それからは三段跳でしたね。
――全国大会の結果はどうでしたか。
全国大会では、事件が起きました。中国でSARS(サーズ)が流行して、楽しみにしていた修学旅行が延期されてインターハイの日程と被り、修学旅行に行けなかったのです。陸上部のみんなが応援に来られないからと、大きめのハチマキに応援メッセージを書いて、渡してくれました。それを腰に巻いて出場したのですが、その日一番の跳躍後、審判がかなり後ろの方で記録を計り始めたので「なんでですか!」と抗議したら、「手前で、ハチマキがついたよ」と、ハチマキの跡を見せらました。それで、見事予選落ちしました(笑)
――みんなが書いてくれたハチマキが裏目に出てしまったわけですね。
何とも言えない気持ちをどこにぶつけたらいいのかもわからず、かなり不完全燃焼でしたね。今でも、ハチマキの話になるたびに先生とこの話になります(笑)
インターハイ後には埼玉で国体に出ました。その時には腰椎分離症の症状が出始めていて、痛みが激しかったのですが、インターハイも不完全燃焼で終わっていたので、何とかしたい思いもあり、出場しました。仲間から応援メッセージを今度はしっかりと紙でもらいました(笑)そのおかげか、腰の痛みに負けず自己新で7位に入ることが出来ました。
――高校卒業後の進路は決められていたのですか。
母親の影響で、大学では語学系の勉強をしたいと思っていました。
――陸上は続けるつもりはなかったのですか。
燃え尽きていたこともあって、陸上は辞めるつもりでした。15m跳ぶためにあれだけきつい練習をやってきたのに、大学では16m跳ぶ選手もいるので、さらに上を目指すなんて途方もない壁のように感じて、怖じ気づいてしまい、辞めてしまいました。
――大学では陸上部にも入らなかったのですか。
最初は入っていないです。体育会のサッカー部に入りました。新人戦には途中出場もさせてもらいました。
――いきなりサッカーで対応出来ましたか。
スピードとバネを活かしていました。また、両脚で蹴れるというのも良かったみたいです。途中出場した試合では、キーパーと1対1の場面があったのですが、普通に外しました(笑)短い期間でしたが、サッカー部の練習はかなりきつかったです。とても貴重な経験をさせてもらい、当時のチームの方々には感謝しています。
――陸上に復帰されたのはいつですか。
大学1年の7月です。サッカー部は3ヶ月くらいでした。
――陸上に戻るきっかけはなんだったのですか。
後輩の応援に行ったときに、後輩の競技を見て感動したことがきっかけです。そのときに、僕はサッカーで人を感動させることはできないと思いました。また、競技場ではいろいろな人が挨拶をしてくれて、ここに来なかったら、今まで陸上競技を通して繋がっていた人たちとも一生会わないのかと思うと、寂しくなって復帰を決めました。
サッカー部を辞めるときに主将に「お前は逃げている」と言われたりもしましたが、陸上競技以外のスポーツをしたことは本当に良い経験になりました。走ったり跳んだりするという面では、サッカーにも向いていると思っていたのですが、さぼるのが下手で常に全力を出してしまい、全く体力が持ちませんでした。視野も狭くて、ボールをもらうと周りが見えないので、パスが出せないこともありました。本当に陸上競技とは全然違いましたね。
――視野の広さは個人競技とチームスポーツの大きな違いですね。
僕は車の教習所でも自分が視野が狭いと感じました。運転していても標識が全く見えていなくて、そのときサッカーのことを思い出しました。サッカーの人は見えているのかなって。
【後編】へ続く