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松田悦典(元サガン鳥栖)が挑む、治療業界の変革。

2014.09.08 / AZrena編集部

松田悦典
 
本日は元プロサッカー選手(浦和レッズ・サガン鳥栖)で現在は、「わらびFit整骨院」の院長の松田悦典(まつだ・よしのり)さんにお話しを伺います。ファンからの要望によりチーム初の引退セレモニーを行ったことでも有名な松田さんです。読売クラブ時代からJリーグ開幕節の盛り上がりから、治療業界に対しての考え方、そして高校時代からお付き合いをしている奥様のお話までお聞きしました。
 

Jリーグのバブル時代を経験

 
――松田さんのスポーツ経歴と柔道整復師になって整骨院をするまでの経緯を教えてください。
 
サッカーを始めたのが小学校1年生の時。三郷のさくらサッカー少年団ってところで、兄の影響で始めました。父がそこのチームの監督をしていて。6年間やっていたら、読売クラブの話が人づてに来て、お前ちょっと受けに行ってみないか?と言われて受けに行ったのがきっかけで、読売クラブに入りました。
 
だから、小学校6年生のときに、少しずつ読売クラブの方に通うようになって。まだそのときは読売クラブか日産自動車(※)しかないような時代で。ラモスとか武田とか・・・だから来る人も膨大で、しかもみんな10番を背負っている奴が来るみたいな(笑)僕が行った時も290人くらい受けに来てたのかな。その中で受かったんです。
 
(※読売クラブ:東京ヴェルディの前身となったクラブ/日産自動車サッカー部:横浜F・マリノスの前身となったクラブ)
 
それでまず読売クラブに入って驚いたのが、プロ根性というか蹴落とす競争意識がものすごいあったんです。みんな小学校からそのまま上がって入ってくるでしょ、スクールって言うんだけど。そこからジュニアに上がってきて、これはみんな仲がいいから仲良しで上がってくるんだけど、外から入ってくる人は風当たりが厳しい。
 
自分のポジションがなくなっちゃうから。だから飛び抜けてうまいか、中に友達がいるか、それじゃないと本当に大変。俺は飛び抜けてうまいわけじゃないし、友達いないし、ましてや埼玉から行ってるし、本当大変でした。荷物持ちから1対1で負けて最後まで残ったやつ罰ゲームなんてのをやるとみんな俺のとこくるの。勝てるから。
 
それでも泣きながら通いました。三郷から2時間かけて。行きたくないって俺が言うから途中まで親がついて来てさ、でも途中で電車降りちゃったり。だけど中1の時の一番最初の試合に、確かサイドバックで出場したのね。その試合で認められたら、もう次の日からそれが全くなくなるの。面白いもんだよね。
 
――日本人選手が海外クラブに行った時に聞くようなお話ですね。
 
もうホント容赦ないから!俺なんか「三郷」って呼ばれてた。なんでかっていったら三郷から通ってたからなんだけど、松田って名前で呼んでくれないの。
 
クラブは強いから全国大会で優勝とかして、ユースに上がるか選手権に出るかってときに、やっぱり自分の名前を売るのは選手権の方が早いから、選手権を目指すことにした。何チームかあったんだけど、1つ上の兄貴が行っていた大宮東高校に決めて、それで1年の時から試合出してもらって選手権に出た。今思うと一番良い選択だったと思う。名前がガンって上がって、日本代表とか関東選抜とかにコンスタントに選ばれていくようになったから。
 
――いつからプロに行くって決まっていたんですか?
 
高校3年の初めくらいかな。浦和レッズの関口さんがずっと追いかけてくれていて。
 
――Jリーグでの生活はどうでした?
 
僕はJリーグではバブル時代と言われているんだけど、その中にはいたものの実際にレッズで試合に出ていて、華やかな世界にいたわけではないので、直にそれを味わってはいないんですよね。でも始まった時のあの爆発的な雰囲気は本当にすごかった。
 
レッズは試合に負けたりすると観客もすごいから、僕の車も2回ぐらいパンクしてたことがあったり(笑)。自宅に車が置いてあっても釘とか刺さってたりするんだよね。出てないのに。関係ないのにね。
 
Jリーグ開幕
 
※Jリーグ開幕当時の画像
 
――選手の車だって分かるんですね。
 
多分分かるんだよね。練習帰りでレッズのユニフォーム着てたりするから。
 
――当時選手はどんな車に乗っていることが多かったんですか?
 
国産車は三菱と契約してたから三菱しかダメだった。だからパジェロとか乗ってて。外車ならなんでもいいから金もらってるみんなはBMWとかポルシェとか乗ってたけど。
 
――本当にあの時の盛り上がりはすごかったですよね。
 
チケットが取れなかったもんね。
 
――でもあれがあったからJリーガーを、プロサッカーを目指したいと思う子が増えましたよね。
 
でも今の子はいいよね。世界が近くて。
 
――直接、世界に行く人もいますね。
 
いやー、当時はまだダイヤモンドサッカーっていうテレビ番組しかなくて、それも30分枠を分けて2週で前後半やるとか。酷い話だよね。 あの頃は誰がこんなに日本人が世界に行くと思ったか・・・
 

サガン鳥栖の選手として初めて引退試合を行う

 
――引退された理由はなんですか?
 
自分の中で10年で区切りをつけようかなと思っていたんです。鳥栖にいた時の最後の監督がセレッソから来た副島さんだったんです。戦術も考え方もしっかりした、僕らの中ではいい監督で、その監督に対して一年どうやろうと考えたとき、どういう風に自分が使ってもらえる選手になるかということだったんです。
 
僕はディフェンスをやっていたけど、背も小さいし、足も遅いし、技術もそんなにないし、真っ先に監督から排除されるタイプ。でも自分のセールスポイントである考えるプレーや、アグレッシブさ、そこをどうやったらこの監督は認めてくれるんだろうというところをすごく見てみたかった。
 
それで開幕戦とか初めは外されていたんだけど、最終的にチャンスをもらって出られるようになって、そこでじゃあこの年でやめようかなって踏ん切りがついた。
 
――ケガとかではなくて、自分の中でしっかりと決めたんですね。
 
そうそう。その前の年に膝をケガして半年間サッカーできなかったけどね。そこから復帰してというのもあったけど、最後の年は別にケガしていたわけじゃないから。
 
――引退してからすぐに資格を取ったんですか?
 
そう。ちょうどJリーグもセカンドキャリアの支援がスタートして、話を聞いてもらえるんだよね。その中で初めにインテリアデザイナーや、一級建築士になりたいと思ったのね。家具とかが好きで。でもあまりにも畑違いということで。自分がケガしたとき、トレーナーに診てもらったらなんで休んでるの?練習参加したら?と言われる経験があっていろいろ調べている中でこういう職業(柔道整復師)もあるんだなって・・・。
 
山岸範宏、松田悦典
 
※右が松田氏。左はモンテディオ山形に移籍した山岸選手
 
――なるほど。ちなみに、松田さんはサガン鳥栖の選手として初めて引退試合をおこなったと聞いています。(※松田選手はファンからの要望によりチーム初の引退セレモニーを行った)
 
自分が引退するときにはサガン鳥栖ができてから5年ぐらい経っていて、その中でファンからの要望で引退セレモニーをやったのは俺が初めてだと思う。多分今までずっと観て応援してきてくれた人がやらせてくれ、と言って。
 
たしか8人ぐらい引退する人がいて、俺1人じゃ申し訳ないから他の人にも声かけたんだけど、お前のためなんだからって言って断られて。それでも2人くらい来てくれて、一緒にやったんだけどね。
 
――それすごいですね。 嬉しいですよね。 やっぱり引退セレモニーとかやるともっとやりたいって思うものですか?
 
いや、もっとやりたいとは・・・正直思わなかったね。
 
松田悦典 
 
――自分で辞めるという結論出していますしね。
 
未練があるわけではないし、サッカー選手っていう自分でずーっとやってきた28年間だったから。アルバイトしたことないし、社会的なものも知らないし、サッカー選手じゃない松田悦典っていうのがどういった形で認められるのかなっていうのを知りたい。俺どこまで可能性持ってるんだろうっていうのを知りたいというのがすごくあって。
 
――それですぐ3年間学校に通ったわけですよね。
 
はい。だからもう嫁には頭が上がりません(笑)。その間働いて私が食わせるからあなた行って来なさいよ、っていうことだから。
 
――その時は奥さんはお仕事何をされていたのですか。
 
派遣で働いてました。収入なし、授業料でお金は出る、それでなくても食事代とかも出るっていうのですごく苦労したと思いますよ。
 
――すぐに自分のお店出したんですか。
 
学校に3年間、卒業してから修行として3年間、計6年やって今の治療院を開業しました。