東俊介。元ハンドボール日本代表主将は、なぜマネジメントの道を選んだのか?
現役時代、大崎電気で9度の日本一に輝き、代表チームの主将も務めた東俊介氏。7年前に現役を退いた後に選んだのは“マネジメント”の道だった。指導者のオファーもありながらもあえてその道を選ばず、現場から少し距離をおいたところでハンドボール界に貢献しようと考えた彼の人生に迫った。
運動は苦手だったが、ボールを投げることだけは得意だった
-まずは、東さんとハンドボールの出会いを教えて下さい。
僕はハンドボールを中学校1年生から始めたんですが、実は運動が苦手だったんです。小学校6年で170cmくらいはあったんですけど、走るのは遅くて野球やサッカーも下手だった。鉄棒やマット運動もできなくて、運動音痴といって馬鹿にされることもありました。なので、運動が好きじゃなかったですし、体育の成績も悪かったんです。5段階評価で2ということもありました。普段は体が大きいぶん、威張っていたんですけどね(笑)
そういうこともあって中学の時も運動はしたくなかったんですけど、僕が進んだ学校は何か部活動に入っていないと応援団に入れられるんです。それは少し恥ずかしくて、やりたくないなと思いました。どちらかというと本を読んだり絵を描いたりするのが好きで、得意でもあったので、文化部に入ろうかなとも思ったのですが、この大きな体で文化部に入ったところでモテないなと思いまして(笑)それでキツくなさそうな運動部を探していたら、ハンドボール部に当たったんです。そこは他の部をやめた人やあまり部活動に入りたくない先輩が入る部で、練習も全然ないし、先輩も来なかったんです。「これは楽だな」と思って入ったのがきっかけです。
-部としてあまり活動しなかった中で、競技面での結果がどう出たのかが気になります。
顧問の先生も全然来ないですし、練習も週に1回くらいだったのですが、最初の1年生の大会で市大会で準優勝できて、僕自身も活躍できたんです。そこで「ハンドボールって面白いな」、「もっとやりたいな」と思ったんですね。それで練習を週2回くらいするようになって、ハマっていきましたね。
部活自体も市で3位に入るのは当たり前になってきて、県でも僕らの1つ上の学年はまかり間違って3位になったんですよ。実はすごく運動神経の良い人が多い部活だったということです。こう言うとあれですが、ヤンキーとか不良が集まる部活だったんですよね(笑)練習もあまりないし、上下関係も厳しくないので、運動能力はあるけど、努力したくないという人が集まったんだと思います。ちなみに僕らの代は県でベスト8でした。
-運動神経が高い人が集まったと言うことでしたが、東さん自身が部に入ったときはその中でやることに抵抗感はあったかと思います。
唯一、ボールを投げるのは得意だったんですよ。順調に身長も伸びていって、中学校3年生で183cmになりました。県内でもトップクラスの身長ということもあって、強豪校からスカウトが来ました。
日本一の選手を目指した高校時代
-高校でもハンドボールをやるという意思は固まっていたのでしょうか。
最初はスカウトを受けた強豪校に行こうと思っていたんですけど、僕はあまり素行が良くなかったので、中学の方から『推薦には出せない』と言われ、普通に試験を受けたんです。色々あって合格しましたけど、入学前の強化合宿でのトレーニングについていけなくて、辞めようと思っていました。でも、そこでやめるとハンドボール部員として入学させてもらえたので、高校も辞めなければいけない。それは嫌だなあと。
しかし、相変わらず練習にはついていけないんです。当時は上手くなった新入生から上級生との練習に混ぜてもらえるのですが、僕は全然混ぜてもらえなくて、1人残って壁にボールを投げたりドリブルの練習をしたりしていました。
新入生は部に入ると最初に自己紹介があるんですけど、そこで抱負や目標を語るんですよ。僕は態度と体がデカかったのもあって「日本一の選手になります」ということを先生や先輩の前で言ったんです。でも、実際は練習にすら全然付いていけていない。そこで同級生に「お前は口ばかりだな。そんなんじゃ日本一なんてなれないだろ!」と言われて、カチンときたんですよね。「それならやってやるわい!」と。僕はナメられるのが嫌いなんですけど、それなら、ナメられないためには出来るようにならなければいけないじゃないですか。そいつよりも上手くなってやろうと思ったんです。そこから努力をし始めて、順調に伸びていったんです。
-なるほど。成長の過程を詳しく教えて頂きたいです。
最初、僕のポジションはバックプレーヤー、例えば宮崎(大輔)君みたいにゴールから遠いところからシュートを打って、たくさん点を取るようなポジションだったんです。ただ、全然上手くプレー出来ないので、監督がポストというDFの中に入っていくポジションにコンバートしたんですね。
すると、身長が大きいこともあってボールを良く貰えて、ばんばんシュートも決められるようになった。今思えば、これが大きな転機でした。その後、デビュー戦となった新人戦で格下のチーム相手に活躍をしたので、続けて起用してもらい、強いチーム相手にも活躍することでレギュラーの座をつかみました。それが高校1年の秋ですね。
その後、2年生の秋と3年生の秋に国体に出て、3年生の夏にはインターハイに出ました。ただ、全部1回戦で負けたんです。全部、準優勝以上の相手と戦いました。くじ運が悪かったんですよね。
-そこまで成績を出したら大学でもやろうという流れに必然的になるように思います。
高校生の時にU-18の日本代表に選ばれたこともあって、強い大学に行きたかったですし、実際にスカウトも来ていました。ただ、あまり裕福な家庭でもなかったので、強いところには行けなかったんです。
なので、授業料免除など、お金の面で支援をしてくれるところに行こうと。それで、当時は関東リーグの2部にいた千葉の国際武道大学に進みました。高校年代の日本代表に入っている選手が2部のチームに行くことはなかなかなかったですし、2部だと馬鹿にされることもあります。ただ、僕はナメられるのが大嫌いなので、結果を残すために1年のときから監督や上級生にバンバン意見を言っていました。
それで2年生のときに1部に上がって、東日本インカレという大会で準優勝をしました。これは快挙ですよ。全日本インカレでもベスト8に入ったのですが、それは今でも国際武道大学史上最高成績となっています。
後に日本代表として日の丸を背負い、プレーすることになる
監督とハンドボールに救われた人生
-大学時代はかなり活躍なさっていたのでしょうか?
そうですね、弱いチームながらも活躍していました。1部リーグでプレーしていたのが2シーズンしか無かったのですが、1部にいるときにとにかく目立とうと思ったんですよね。それで、髪の毛を長くしていたんです。全然似合わなかったんですけど(笑)そんな選手、昔はいなかったので、周りから『切れ!』と言われ続けていたんですけど、頑として切りませんでした。悪目立ちでもあったんですけど「悪目立ちだとしても、プレーさえ見てもらえれば自分を獲得してくれるチームはある」という自信があったんです。結局、高校時代の監督に注意されて、髪の毛は切りましたけど(笑)
高校時代の監督が僕の最大の恩師であり、今でも頭が上がらない人なんですが、監督と出会っていなければ僕はろくでもない人間になっていたと思うんです。僕の生まれ育った地域はあまり治安が良くない場所でもありましたし。でも、監督とハンドボールに人生を救ってもらいました。その監督に迷惑をかけることだけはしてはいけないと思い、他の人に言われても切らなかったんですけど、切りました。その後、懲りずに金髪にもしたのですが、再び恩師に『黒に戻せ』と言われたので染め直しました。
大崎電気では9度日本一に輝いた
-実際に、目立った成果はあったのでしょうか。
プレーは凄く良くできて、3年の春は1部リーグの得点王ランキングにも入っていたんです。それに、1部でプレーするとかなり実業団チームからの目にも付くんですよね。2部とは全然違います。そこで、当時日本で一番強かった中村荷役というチームからスカウトが来たんです。凄く嬉しかったですし、お世話になろうと思っていたんですけど、大崎電気からもスカウトが来たんです。大崎電気は当時弱かったですし、最初はお断りするつもりだったのですが、当時大崎電気のコーチだった山本興道さん(ソウル五輪日本代表)から『二人きりで話がしたい』と言われたので、お会いしました。正直、1軒目で帰ろうと思っていたんですけど、飲め飲めと言われるうちに4軒目まで行ったんです。そこで、その4軒目で『お前なんかいらないよ、日本一の中村荷役で、お前の力ではない中で日本一になれば良い。俺は俺でやるから』と言われたんです。そこでカチンときて「俺が日本一にしてやるよ」と言って、大崎電気に行くことに決めたんです。
-4軒目とはだいぶ行きましたね(笑)
そうですね(笑)そんな中で大崎電気に決めたんですけど、8チーム中の6,7位で凄く弱かった。ただ、僕が大崎電気に入団した次の年に中村荷役が不景気の影響で廃部になったんです。実は山本さんはそのことを知っていたのですが、僕をスカウトするうえでその事実を使わなかったんです。その人間性に惚れましたね。振り返れば、あの時に中村荷役を選んでいれば、今の自分はありませんから素晴らしい出会いに恵まれ、正しい選択が出来たと思っています。
“宮崎大輔ブーム”の裏でのマネジメント不足
-現在の大崎電気は当時よりかなり強くなりましたね。
きっかけは2000年に三陽商会のハンドボール部が休部になり、所属していた日本代表選手3名がプロ契約選手として移籍してきたことです。日本リーグの通算得点記録を持っている岩本真典さんと(※)“中東の笛”が話題になったときのキャプテンの中川善雄さん、日本リーグのベストディフェンダーを二度、獲得した永島英明の移籍により、チームとしてのランクが大幅に上がったんです。
その年、レギュラーシーズンで2位になって、プレーオフに初出場しました。以降、コンスタントにベスト4までは勝てるようになりましたが、準決勝の壁を破れなかったところで、宮崎大輔選手の入団によって初めて優勝することが出来ました。
※中東の笛:2007年、北京五輪・ハンドボールアジア予選において審判の不可解な判定が続き、予選自体がやり直しとなった騒動の総称。明らかに不可解で中東諸国に有利な判定が頻発したことにより、この名がついた。
-宮崎大輔選手の存在はハンドボールの話をする際には外せないですし、彼の登場で話題になりました。
“中東の笛”で五輪予選がやり直しになったこともありますし、彼がテレビ番組・スポーツマンNO.1決定戦で優勝したこともあって、メディアの露出が増えたんです。ただ、そこはマネジメント不足だとも思います。
-宮崎大輔選手がブームとなった後に"次が続かなかった”という側面ゆえに、でしょうか。
そうですね。宮崎選手の登場で「ハンドボールが変わるんじゃないか」と思ったんです。あれだけテレビに出て、これから盛り上がっていくんじゃないかと。ただ、変わらなかった。そこで愛想を尽かして離れていった方もいると思うんです。他にも世間に面白いことはたくさんありますから。
試合の演出に関しても、プレーオフになると少しはマシなんですけど、レギュラーシーズンの試合は発表会の域を出ないというか、イベントとしての魅力に欠けているんです。その部分を一生懸命やっているのが琉球コラソンという沖縄のチームなんですけど、そこは素晴らしい演出をしていると思います。スポンサーもつけて、集客をしっかりしています。他のチームはどちらかと言うと集客というよりも動員というイメージが強いんです。学校の先生にお願いして、“人だけ入れる”ような形ですね。そこを変えないといけないと感じています。
-工夫をしないとお客さんも続いてこないと。
そうですね。でないと、"お金を払って行くものではない”と刷り込まれてしまうんです。“行かされた”という風に思われると印象もよくないですし、それは選手にも伝わるんです。“お金を払って見に来てもらった”という感じではないですよね。コンテンツとしては悪く無いと思うんですけど、マネジメント不足だと感じています。
スポーツマネジメントの道を選んだ理由
-コンテンツとしてのハンドボールの魅力はどういった部分でしょうか?
例えば、バスケットボールはシュートが外れた時はただのミスになるのですが、ハンドボールの場合はGKがいる分、それが“ナイスセーブ”になる場面があるんですよね。だからシュートを決めても外しても盛り上がるんですよ。フットサルよりもシュートは多く入りますし、手で扱っている分、横に出ないんですよね。ヨーロッパではチャンピオンズリーグもあってお客さんも凄く入っているんです。でも日本においてそうならないのは、やはりマネジメントの側面の問題かなと感じています。
-おっしゃったマネジメント不足が競技の発展に影響していると思いますが、現在の東さんの活動を詳しく教えて下さい。
大崎電気で11年間、選手としてプレーをして、現役時代には9回の日本一を経験してチームと日本代表の両方でキャプテンもやりました。ただ、五輪や世界選手権には出られませんでした。その後、指導者のお誘いも受けたんですけど、今までの経験を活かしてスポーツマネジメントを学びたいと思ったんですよ。それで大学院に社会人修士として1年間通って、野球の桑田真澄さんを始め、色々な方と一緒に勉強をしました。そこから紆余曲折を経て今は日本リーグの運営をやっています。今は2012年に立ち上がったマーケティングチームというところのリーダーを務めています。
-スポーツマネジメントを学ぼうと思った経緯を、詳しく教えて下さい。
僕が現役の時に大崎電気は男子と女子、2つのチームがあったのですが、女子のチームが1999年度のシーズンをもって無くなったんです。女子のほうが男子より強かったのにもかかわらず、無くなってしまった。それはほんの一例で、企業スポーツだと強い弱い関係なくチームが消滅することがあるんですよね。会社の業績や世の中の景気によって、無くなってしまう。そういうことがありました。
他にもホンダという日本リーグを6連覇したチームがあったのですが、最後の優勝の直後から活動を縮小していったんです。2003年のことです。その年に行われたアテネ五輪予選で最大のライバルの韓国と引き分けて、本大会に行けなかったんです。そこでホンダとしては"投資する価値がないだろう”という判断をされ、無くなってしまったんです。その時に自分の大好きな先輩が凄く悔しそうにしていたのが今でも忘れられません。そこで「強いチームを作ってもハンドボールはメジャーにならないな」ということを思いました。ハンドボールをメジャーにするにはハンドボールをビジネスにする人が必要だろうと。ただ、そういう人は待っていても出てこないと思って、それならば自分がそういう立場になろうと思ったんです。
2019年の女子世界選手権、そして2020年の東京五輪に向けて
-今のハンドボールを取り巻く環境と、それに対してどういうアプローチが必要かと考えていますか?
2020年の東京五輪の前に、2019年に女子の世界選手権が熊本で開催されるんです。そこに向かって活動をしようとしているんですけど、如何せん代表が弱くて結果を残せていない。今回もリオデジャネイロ五輪予選で、男子はアジアで5位に終わり、本戦に進めませんでした。女子は3月末に最終予選があるのですが、少し厳しいかなと。選手や指導者は色々海外に行ったりして現状を打破しようとしているのですが、僕自身も協会やリーグ機構の中にいるものとして、彼らに対してしっかりとしたサポートができていないと思っています。
加えて、アテネ五輪予選前は各日本リーグのチームに外国人選手がたくさんいたのですが、今はリーグ全体で男女共に2、3人くらいしかいないんです。本当にローカルリーグという形になっています。そうこうしているうちに中東の方が力をつけてきているんですよ。カタールは帰化選手を多く入れて、世界選手権で準優勝しています。
これから少子化になっていく中、果たして子供達がハンドボールをやりたいと思うのだろうか、とも考えます。ハンドボールが面白いというのは僕らのように競技のムラの中の人が言っているだけで、他にも魅力的なスポーツはあるし、何よりもやっていて華やかな舞台に子供達は憧れますから。そもそもハンドボールを"知らない”ということもあるんです。そうやって触れる機会がなくなってくると日本においてハンドボールが無くなるんじゃないかという危機感がありますよね。
-ハンドボールの認知度を高めるということも必要ですね。
現在やっているのは、世界ゆるスポーツ協会というところと組むことですね。ハンドソープボールという、手にハンドソープを塗ってプレーするものなのですが、ボールを思い切り握れない分、速いボールが投げられないんです。あとは、コンタクトもドリブルもNG。だから、運動神経が良くない人でも楽しめる。本当につるつる滑るのでボールを落としてしまうんですよ。ミスをするとワンソープといってさらに滑るように手に塗るというルールがあったりします。
未経験者向けに「ハンドボール体験会をやりましょう!」といっても、なかなかできないんです。ハンドボールの魅力は走って、跳んで、投げて、ぶつかるというスピーディな攻防なので、未経験者が簡単にはできません。ラグビーの体験会をやろうといっても怖くてできないという人が多いかと思いますが、同じですよね。なので、色々な制限を工夫していたときもありました。コンタクトをなしにしたり、女の子のシュートはGKは手を使ってはいけなくしたり、と。ただ、根本的な解決には至らなかったんです。せいぜい友達の友達くらいしか集まらなくて、そこでどうしたらいいかなと思っていたところに世界ゆるスポーツ協会の代表の方に出会って、こういう形で広めていこうとも思いました。ハンドソープボールはそれで色々なメディアにも取り上げてもらったんです。
-普及活動にはそういった側面からのアプローチも必要なんですね。最後になりますが、東さんの今後の目標を教えて下さい。
ハンドボールの実業団選手としてやってきて、引退してハンドボールの普及活動をやって、今は日本リーグのマーケティングやマネジメントをやってきましたが、なかなか思うような結果が出ない。それはなぜかというと、僕の力不足だと思うんです。アイディアを出したとしても、仲間を作る能力とか考えを通す政治力とか、大きなスポンサーになれる財力とか、そういうものが足りないなと痛感しています。昨年で僕は40歳になったんですけど、日本リーグも40周年だったんです。そこにすごくシンパシーを感じていて。去年の時点で五輪まであと5年、世界選手権まで4年ということもあったので「ここで変わらなければいけない」と思って突っ走ってきましたが、思うように事が進んでいないんです。
なので、ハンドボール以外の力を付けるためにも、これからは別のことをしなければいけないと考えています。壁は色々とあると思っているんですけど、それにぶつかってみて、今までと同じことをやっていても乗り越えられないのであれば横に1回ずれてみようと。そこで力をつけたりハシゴを持ってきてとか、そういう時期に、今は来ているのかなと思っています。