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川嶋勝重が振り返る、ボクサー人生。「待遇がよかったら、ここまで続かなかった」

2016.01.14 / 森 大樹

川嶋勝重。第17代WBC世界スーパーフライ級王者。戦績は39戦32勝(21KO)7敗(1KO)。社会人からボクシングを始め、辛酸をなめながらも世界トップに上り詰めた男。現役引退後、アクセサリー職人として第2のキャリアをスタートさせた。自身の半生、ボクシングキャリアから現在の仕事まで語っていただいた。

川嶋勝重

川嶋勝重(かわしま・かつしげ)、第17代WBC世界スーパーフライ級王者。社会人になってからボクシングを始め、プロテストに2回落第するなど辛酸をなめながらも世界トップに上り詰めた男。

「ラスト・サムライ」の異名を持つボクサーは、2008年の現役引退後、夫人が経営するアクセサリーショップ「Ring」で職人として第2のキャリアをスタートさせている。今回は、川嶋本人にインタビューを敢行。自身の半生、ボクシングキャリアから現在の仕事までたっぷりと語っていただいた。

川嶋勝重(かわしま・かつしげ):
1974年10月6日、千葉県市原市出身の元プロボクサー。戦績は39戦32勝(21KO)7敗(1KO)。元WBC世界スーパーフライ級王者。1995年、大橋秀行(元WBC・WBAストロー級王者)が会長を務める大橋ジムに入門。ボクシング経験がなく、プロテストに2回不合格になるなど不遇をかこったが、不断の努力でキャリアを築き上げた。

「ボクサーはプロになっても、それだけでは食べていけない」

――川嶋さんがボクシングを始めるまでのスポーツ経歴を教えてください。

小学生の頃は陸上とミニバスケットボール、中学では軟式野球、高校からは硬式野球をやりました。社会人になってからは東芝の子会社の工場で働いていて、そこで軟式野球を2年半ほどやりました。

――そこからどのようにしてボクシングと出会ったのでしょうか。

僕の地元である千葉の市原から小・中学生時代の同級生の友人が横浜に出てきて、ボクシングを始めており、プロデビュー戦が決まったから観に来てほしいと連絡があったんです。高校は違うところに進学していたので、しばらく会っていなかったのですが、他の同級生約20人とチケットを買って応援しに行きました。生でボクシングを観たのはそれが初めてです。友人は試合で負けてしまいましたが、スポットライトを浴びている彼のことを観て衝撃を受けました。とにかく格好良くて、もはや勝ち負けは関係ありませんでしたね。

ちょうどその頃に姫路にある東芝の工場の一部をこちらに持ってくるという話になって、僕は1~2年現地に行くことになってしまいました。正直「うわぁ…姫路かよ…」という感じでしたね(笑)同級生に触発されて、僕もボクシングを始めるつもりだったのですが、姫路から戻ってきてからでは遅いと思いました。そこで上司にボクシングをやりたいという旨を伝え、会社を辞めることにしたんです。もちろん上司からも親からも反対されましたが、カバン1つで僕も横浜に出てきてしまいました。

――元々格闘技をやりたいとはどこかで思っていたのでしょうか。

同級生の試合を観るまでそんなことは全然考えていませんでしたが、ただ辰吉(丈一郎)さんやマイク・タイソンが大好きで、ボクシングに興味はありましたし、テレビではよく観ていました。

どこのジムに入ればいいのかも分からないまま横浜に出てきてしまったので、その同級生の友人のところに入れてもらいました。家もたまたま彼が住んでいるアパートの部屋が1つ空いているということで、家賃を半分払って一緒に住むことになりました。

――その家賃はアルバイトなどをしながら、稼いでいたということですか。

そうです。ボクサーはプロになっても全然それだけでは食べていけないですから。日本チャンピオンでも厳しいです。僕の4回戦、プロデビュー戦のファイトマネーは手取りで3万8000円でした。

――そんなに安いんですか!

しかも試合は2ヶ月に1回くらいのペースでしかできないですからね。日本タイトルを獲っても手取りで50万円ほどです。だから世界タイトルで放映権料などが発生しないとなかなか大きなお金はもらえないんです。だから僕は酒屋で5年、米屋で3年バイトしていました。

――アルバイトする場所のチョイスが変わってますね(笑)。今一緒にアクセサリーショップをされている奥様ともジムで出会ったとお聞きしました。

そうですね。自分がジムに入って1年後くらいから彼女はボクササイズをしにずっと通いに来ていました。僕は元町でアルバイトをしていたのですが、彼女も近くのアクセサリーショップで働いていたんです。街で見かける度に『もしかしてこの人、ジムにいる人じゃないかな?』と思っていたので、ジムの会長に聞いてみたところ、その通りでした。それでジムに来ている時に紹介してもらったという流れです。

うちのジムは厳しいので、練習生同士もあまり話をしないんです。顔は知っているけど、話したことがない人も結構いました。だから珍しいケースかもしれませんね。

――そのようにジムでボクシングを続ける中で川嶋さんはどのタイミングでプロに転向したのでしょうか。

実はなかなかプロテストは受けさせてもらえませんでした。だいたいセンスのある人はジムに入って半年ほどでテストを受けてプロになります。時間がかかる人でも1~2年で受けます。僕も半年ほど経った時に会長にプロテストを受けたいと言いに行ったのですが、『まだ全然ダメだよ』とあっさり断られてしまいました。1年弱経ってからもう一度お願いしに行ったところ、アマチュアの試合で勝つことを条件にプロテストを受けてもいいということになりました。ただ、そこでもまだ受けさせたくないというような渋い顔をされましたね。

でも、その試合で僕は相手を1RKOして勝っちゃったんですよ(笑)だから会長もテストを受けさせざるを得なくなりました。それでテストを受けてプロになることができたんです。

だからどちらかというと僕はボクシングのセンスのない方だったと思います。何となく自分でもそれが分かっていました。でも逆にセンスがないからこそ、補う部分を見つけようとしてきました。

チャンピオンになっても「負けてしまえばただの人」

――選手生活の中ではやはり減量が辛かったですか。

辛かったですね。僕はスーパーフライ級と1つ上のバンタム級、2つの階級を半々くらいでやっていました。その2階級は1.4kgしか差がないのですが、その体重分を落とすか落とさないかは全然違います。

――川嶋さんの減量におけるルーティーンがあれば教えてください。

期間についてはいろいろ試しました。1ヶ月かけてゆっくり落としていったり、1週間でやってみようとしたりもしましたが、最終的に2週間が僕の減量期間としてはベストですね。減量期間は1日1食で、初めの1週間は練習前にご飯・サラダ・ちょっとしたおかずを軽めに摂ってから行きます。後半の1週間は1日1食納豆・豆腐・もずくだけですね。そして最後の3日間は何も食べられません。あと摂るのは水分のみなので、飲んだ分だけ体重は増えます。500ml飲めばそのまま500g増えてしまいますし、用を足せばその増え幅が400mlになったりします。ダイエットと違って、グラム単位で計算が必要になってきます。

52.1kgがスーパーフライ級の体重制限なのですが、計量当日の朝は52.3~4kgで家を出ます。そうすると計量会場に向かうまでにだいたい200~300g落ちるので、体重制限ぴったりになります。

実は寝るだけでも体重は落ちるんですよ。普通の人であれば600gほどは軽くなると思います。僕らは既に減量してきているので、そこまでは落ちませんが、それでも200~300gは落ちます。

――奥様と食事をしたりするのは問題なかったんですか。

中には食べ物の匂いが無理だったり、食事を見るのも嫌でピリピリしたりする選手もいますが、僕は大丈夫なので、むしろ目の前で食べていい!見て満足する!くらいの感じでした(笑)

――ボクシングをやってきて一番嬉しかったことを教えてください。

やはり世界チャンピオンになれたことです。まさか自分がなれるとは本当に思っていませんでしたから。よくメンタルの先生が金メダリストは自分が一番になる光景を頭に常に描いている、なんて言いますが僕はそれを全て覆しました(笑)

でも逆に思い描いていなくても、何かを実現させることはできるというのを伝えることができます。一般的にはいいイメージを常に持ち続けて実現させている人の方が少なくて、それができる人はきっと元々何か飛び抜けているのだと思います。

今は企業から講演などの依頼が来ることもあります。NHKのスポーツ大陸に出演した時の放送を新入社員に僕が来ることを伏せたまま観てもらい、研修担当の人が感想を聞いた後に登場すると講演はうまくいきます(笑)

――世界チャンピオンになるまでのストーリーの中では欠かせない、徳山昌守選手との3回の対戦がありました。初対戦では敗れています。

言い訳になってしまいますが、実はその試合の1ヶ月前にぎっくり腰になってしまっていたんです。ジムとしても世界戦は初めてのことだったので、知らないうちにオーバーワークさせてしまったのでしょう。腰を痛めてからはもう靴下すら履けない状態でしたが、世界戦の前は毎日トレーナーが迎えに来るので、練習に行くしかありませんでした。興行として大きなお金が動いていることは分かっていたので、自分がぎっくり腰になったなんて言えなかったです。ロードワークも気合で毎朝出ていました。

ロードワークが終わると追い込みでジャンプをするのですが、そんなことできるはずもありません。走っている途中に一緒に行った後輩には腰が痛いことを伝えていたので、彼もトレーナーに報告しようか迷ったらしいですが、僕がジャンプもやる気満々でいたので、踏みとどまったそうです。そうしたら、試合前だからトレーナーの方からジャンプはしなくていい、と言われて助かりました。

――自分だけではなく、いろいろな人が関わっていると思うと言い出せないですよね。

でも家に帰ってきてからも良くならないままだったので、仕方なく会長に報告して、すぐに病院に行きました。ただ走ったりして動けているので、誰も僕がぎっくり腰になっているということを疑わないんですよね。それでブロック注射をすることになったのですが、めっちゃ痛かったです。でも全然効かなかったです。

会長も焦っていたのでしょう、あらゆる手段を使って治そうとしてくれました。魔女みたいな気功の先生を呼んできてみたり、痛い接骨院に行ってみたり…(笑)その場は少し良くなった気がするのですが、結局変わりませんでした。

最終的に柔道女子48kg級で活躍した江崎史子さんが診てもらっていた先生を紹介してもらって、行ったところ一発で治ったんです!その代わり、気絶するんじゃないかと思うくらい施術は痛かったです。ぎっくり腰は骨盤がずれることから起きるものらしく、僕の場合も片方に寄ってしまっていました。それをあらゆる神経を麻痺させて恥骨のところから「ドン!」と叩き、押し込んだところ、あれだけ痛かった痛みが帰りには全く消えていました。

――世界戦の前にはそんな痛みとの戦いがあったんですね。

しかもその先生は別でメインの仕事をしているので、お金を取らないんです。普段は普通に仕事をしていて、夜にボランティアで自分の診たい人だけを診ています。だから本来は紹介もNGの人なんです。僕の場合は世界戦前だったので特別にやってもらいました。

元々その先生は日本拳法をやっていて、師匠から体の仕組みについて教えてもらったそうです。だから資格を持っているわけでもないんですよ。それで治してしまうんですからすごいですよね。

試合1ヶ月前の時点ではほとんど動けなかったのが、2週間前になってようやく動けるようになり、そこから練習をして絞っていきました。そこまでに練習はやってきていましたから、あとは制限体重まで持っていくための調整ですね。

――初の世界戦はその後因縁が生まれる徳山選手の対戦でした。

無事に試合当日を迎えられたわけですが、ぎっくり腰だった期間が長くて感覚が狂っていたのか、足の筋肉が弱っていたのか、ちょっとしたことで転んでしまったりしました。試合中、2~3回はスリップで転びましたね。もはや勝ち負けではなくて、リングに上がることがやっとでした。でも判定負けという結果以上に手応えがあって、そんなに強い相手ではないと感じていました。万全の体制で次戦えれば勝てると思ったので、それを会長に伝えたところ、来年もう一回やらせてやるという話になりました。

――その次の世界戦で徳山選手に勝利し、見事タイトルを奪取しています。

たまたまですが、1RTKO勝ちすることができました。その後2度の防衛を挟んで、もう一度徳山選手と王者として戦うことになったわけですが、あれだけ豪快にKOしてしまったものだから、僕自身も余裕が出てしまっていましたし、ジムのムードもそうなっちゃっていましたね。でも一人、花形ジムから星野敬太郎さんを育てたトレーナーさんがうちのジムに移籍してきていて、試合の前にドアの下から手紙をくれました。そこには「楽勝ムードになっているけど、そんなことないから気を引き締めていけ!」と書かれていました。それでも僕はKOしたことが頭に残っていて、またそんな形で勝てるかもしれない、とどこかで思っていました。反面前回僕に負けた徳山はそれがすごく悔しかったのでしょう、最高の仕上げをしてきていましたね。1~2Rまでいつも徳山はガチガチなので、序盤は倒せそうな感触だったのですが、3Rになってそろそろ仕掛けようと思ったらどんどん相手のスピードが上がってきて、結局それに戸惑ったまま最後までいってしまい、判定で負けました。

――逆にKOされそうにはならなかったのでしょうか。

全くならなかったです。試合展開としてはパンチを出して逃げていく相手を追っていくもこちらは当てられない、というようなことの繰り返しでした。

――ベルトを奪われて、何を思いましたか。

まず、チャンピオンでいる時はどこに行っても声をかけてもらえますが、負けてしまえばただの人だな、と感じました。それでも徳山に負けたことが悔しくて、もう一度チャレンジすることにしました。

――しかし、徳山選手が王座を返上して暫定王者だったミハレス選手に敗れ、一度引退宣言をしています。

ボクサーなら誰でもそうだと思いますが、負けると辞めたくもなるものなんです。僕もそうでした。でもちょうどミハレスに負けた頃にテレビでお遍路をしているのを観たんです。それで自分もとりあえず行ってみることにしました。すると不思議とまたやる気が出てきたんですよね。

――お遍路を通して、もう一度挑戦する意欲が湧いてきたんですね。そしてもう一度ミハレス選手と対戦するも敗北していました。

その試合後、もう一回お遍路に行きました。その時は奥さんも一緒でした。

――2回のお遍路を通して、具体的に川嶋さんの中では何が変わったのでしょうか?

一日中ずっと歩き続けることは日常生活において、なかなかできないことですよね。でもお遍路で何日も歩いていると考え事もたくさんできるんです。ボクシング選手としてこのまま終わってしまうのかな…なんて考えたりする瞬間もありましたが、年齢的にまだできると思っていました。

――最後にムニョス選手に挑戦するも敗れ、引退を決意されています。

川嶋勝重

試合が終わって振り返ってみると最後のムニョスとの対戦で僕は休憩するラウンドを作ってしまっていたんです。後半スタミナがもたないからといって、それをしてしまったら、もう選手としては厳しいだろうと判断し、引退することにしました。

――社会人になってからボクシングを始めて見事、世界王者に輝いた川嶋さんですが、改めて振り返ってどのようなことが重要だったと思いますか。

実は一番初めに指導してもらっていたトレーナーはタイトルを持っているわけではなくて、ただ横浜高校でアマチュアボクシングをやっていただけの人だったんですよ(笑)だから僕の場合は別に特別な人に教えてもらっていたわけではないです。

初めは千葉に帰るわけにはいかないという気持ちだけだったように思います。周囲の大反対を押し切って出てきたので、試合をしないまま帰るわけにはいきません。反対していた人を見返してやりたいと思っていました。そういう負けず嫌いな部分は元々持っていたのかもしれません。トレーナーが誰であろうと関係なくて、常に強くなるためにはどうすればいいかを自分で考えていました。ボクシングはそういう性格面も大切ですね。

――金銭的な部分を含めた生活面とトレーニング面、両方の厳しさがある中で生き残っていくのはやはり意志がある人なんですね。

僕なんか日本チャンピオンになってもジムに月謝を払っていましたからね(笑)ある日会長と車に乗っていて、そこで初めてもう月謝はいらないと言われました。逆にアマチュアで実績を残している人は月謝もいらなかったり、家賃を払ってもらえたりするものなんです。ただ、そういう待遇の良さがなかったからこそ、這い上がるために頑張れた部分はあるかもしれません。僕は待遇が良かったらここまでできなかったと思います。でも今はアマチュアで成績を残していれば仕事をしないでボクシングをできる環境がある人もいるので前より恵まれています。

――当然試合前になればアルバイトも休むことになると思います。

日本タイトルに挑戦するくらいになれば1週間から10日程度休みをもらうことができますが、4回戦くらいまでは試合前の3日間、軽量と試合当日とその次の日くらいしか休めません!それでないと食べていけないんです(笑)

――でもチャンピオンになれば待遇も変わってきますよね。

ただ、チャンピオンに挑戦する段階で前もって興行権について契約が交わされます。もし次で挑戦者が勝ってタイトルを奪取したとしても、あと何回は現王者側が興行権を持ったまま試合をやる、というような内容が予め決められるんです。そうしないとそもそもタイトルマッチをさせてくれません。現王者側に旨味がある形でないと挑戦を受ける意味がないですからね。相手に興行権のある試合だと当然ファイトマネーも多くはありません。例えば有名じゃない選手がたまたま外国人のチャンピオンに勝つようなことがあると、向こうに興行権があるので、防衛戦を相手の国に行ってやらないといけなくなったりするんです。

――世界王者になっても難しい事情があるということですね。

あと、僕は最初のミハレスの試合の時にチャンピオンベルトを入れるためのカバンを盗まれたんですよ!ケースに入れて持ち歩く人もいるんですけど、かさばるので、22万円のバッグを買って控え室に置いておいたんです。このくらいのものに入れておかないといけないだろうと思い切って買いました。でも試合から帰ってきたらないんです!その日初めて持っていったので、ほぼ新品のままでした。

自分をいじめることが好きで、追い込める人がボクシングに向いている

――ご自身はセンスがないとおっしゃっていましたが、ボクシングに向いているのはどんな人でしょうか。

自分をいじめることが好きで、追い込める人です。野球などのチームスポーツは練習からみんなで頑張っていこうとします。それがいい部分でもありますが、どこかで誰か他の人がやってくれるという気持ちも生まれてしまいます。逆にボクシングは一人で追い込んでトレーニングするので、それができない人は難しいですよね。もちろんリングの上に立てば自分しかいなくて、誰も助けてくれませんから。

――自分を追い込むためのモチベーションはどこに持っていましたか。

初めは試合に勝ちたい、格好いいところを見せてやりたいという気持ちだけで頑張れるのですが、戦いを重ねていくとリングに上がること自体が怖くなっていきます。たくさん応援してくれている人がいる前で負けてしまったらどうしよう、という怖さが出てくるので、それがモチベーションとなって練習に励むようになっていきました。殴られることより負けることへの怖さがあるから、続けられたのだと思います。僕の若い頃と同じようにまだ勢いだけでやっている後輩達は大抵リングに上がった瞬間に極度の緊張に襲われ、何もできずに終わってしまうことが多いです。もちろん普段以上のものが出せてしまうことはどのスポーツにもあると思いますが、格闘技の場合は逆で、いつもやっていることの5~6割しか出せないことがほとんどでしょうね。

――事前に相手の研究などはするんですか。

それはします。ある程度相手の研究をして、どういう試合の流れになるかは読んでおきます。事前に想定していた流れ通りになるとそれが手応えになります。もちろんやってみて想像以上に相手が強いと感じることもあります。でも対戦しながらその場合の対処の方法を考えるなど、意外と試合中は冷静にいろいろなことを考えられているものです。ただ、試合の後半になってくればパンチを受けて頭もぼーっとしてくるので、だんだんがむしゃらに打つだけになっていきます。

終盤は計算のない打ち合いをしていたとしても、序盤から中盤にかけてはお互い駆け引きをしながら、戦っているということが試合の映像を観てもらえば分かると思います。一見殴り合っているだけに見えますが、本当はいろいろ考えているんです。

――引退した後、1年間空白の時期がありますが、その間は何をしていたのでしょうか。

何もしていなかったです。競馬場には行っていましたね(笑)

アクセサリーショップ

――現在のアクセサリーショップを開いた経緯を教えてください。

引退してから何かしないといけないと思いつつも、何をしていいか分からなかったんです。現役の時から商売を始める人も多いですけど、僕の場合は何も考えていませんでした。元世界チャンピオンの場合はジムを開く人も多いですが、僕は同じことをやるのが嫌いなんですよ(笑)散々今までやってきて、またボクシングをするのはつまらないと考えていました。それで変わった仕事として、アクセサリーの職人をすることにしました。

でも僕は人見知りなんです。最初はお客さんが来てもどう話しかけていいのか分からなかったです。元々ボクシングを始めた頃にやっていた配達の仕事も人とほとんど話す必要がないから選びました。運転するだけで常に一人でいられますから。でも今はお客さんと話すのが好きです。

川嶋勝重

――時間が空いた時にしている趣味はありますか。

特に趣味がなくて、家にいるのが好きなんです。時間があると家でずっと掃除や洗濯をしています。世界戦の午前中も掃除機をかけていました(笑)気分良く試合に臨みたかったからですかね。

――今も体を動かすことはありますか。

今は週1回、パーソナルトレーナーとしてキックボクシングのジムに行っています。そこで少し体を動かすくらいです。

――最後に読者の皆さんにメッセージをお願いします。

僕が世界チャンピオンになれたくらいなので、誰にでもチャンスがあると思います。自分なんかに能力はないと思っている人も多いかもしれませんが、特に若い人にはまだまだ可能性があるので、いろいろなことをやってみてほしいですね。