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久光重貴(湘南ベルマーレ)。ガンを乗り越え、前進する男の生きざま

2015.02.19 / AZrena編集部

久光重貴(湘南ベルマーレ)。骨髄炎、右上葉肺腺がんという難病に見舞われながら、前を向き続ける男。ロングインタビューにて、その生きざまをご覧いただきたい。

久光重貴
 
今回はFリーグ・湘南ベルマーレ、久光重貴選手にお話を伺います。久光選手は現在、2013年に見つかった右上葉肺腺がんと闘いながら選手として復帰されることを目指し、治療に努めています。一時は試合に復帰できるまで回復し、昨年2月9日のホーム最終戦にも出場しました。
 
また、※「フットサルリボン活動」にデウソン神戸・鈴村拓也選手と共に取り組まれており、選手を続けながら闘病する姿は多くの方に勇気を与え続けています。
 
※「フットサルリボン活動」:フットサルを愛する人々に向けたがんの啓発、およびがんの子供達への支援を行う活動。
 

フットサルとの出会い

 
――まずは久光選手のスポーツ経歴を教えて下さい。
 
久光重貴(以下、久光) 小学校1年の頃から綱島にある横浜サッカークラブつばさという少年団チームでサッカーを初めて、そこには6年生までいました。中学校3年間は東京ヴェルディのジュニアユースに所属していました。その後帝京高校でサッカーをやりましたが、卒業後3年間はチームには属さず、蹴る機会があるときだけやっていた感じです。フットサルには21歳の時に出会い、(ペスカドーラ)町田の前身チーム、カスカヴェウでプレーを始めました。
 
――卒業後の3年間はお仕事をされていたということですか。
 
久光 そうですね。サッカーを続けたいという気持ちはありましたが、高校を卒業するとプレーできる場所がなくなってしまいます。それまでお金を払ってサッカーをやるということを想像したことがなく、戸惑いもありました。チームに入りたいという気持ちとクラブチームに月謝を払ってプレーするということへの違和感がある中でサッカーから遠ざかってしまいました。
 
一番始めにやったアルバイトは羽田空港のトイレ掃除の仕事でした。当時、一番やりたくない仕事をやろうとしました。人が一番嫌がる仕事をしておけば、その次にやる仕事に対して何でもできるだろうと考えたからです。
 
19歳の時にその仕事を始め、貯金をして車の免許を取ることを目標にしました。時間は6時~9時までで、その他の時間は空いていることが多かったので、自由にボールを蹴ったりしていました。その時は本当に遊びだったので、仲間内でやるところに呼んでもらっていた形です。
 
――サッカーでプロを目指そうと考えた時期はなかったのでしょうか。
 
久光 高校時代は考えていました。帝京高校でも選手権予選のメンバーにも入っていましたが、本選のメンバーからは外れてしまったんです。東京都予選を勝ち抜いて選手権に出られる、ここから上を目指せるという時に外されてしまい、すごくショックでした。でも今思えばすごくありがたかったと感じています。それがなければサッカーに対する想いはここまで強くなることはなかったと思います。ちなみに当時はFWでした。
 
――フットサルに出会ったきっかけを詳しく教えてください。
 
久光 トイレ掃除のアルバイトをして、車の免許を取った後に引っ越し屋のアルバイトを始めました。まだ若く、お金が稼げればいい、お金のためだけの生活をしていました。その歳で手にしてはいけないほどの額のお金は持っていましたが、それ以外に生きがいがないことに途中で気が付いて、本当は何がしたいのかを考え始めた時にフットサルと出会い、のめり込んでいきました。

言葉だけでなく背中で伝えていく必要がある

 
――カスカヴェウ(現在のペスカドーラ町田の前身のチーム)に入る経緯を教えてください。
 
久光 歌手のナオト・インティライミとは彼がまだ売れる前から知り合いで、一緒にボールを蹴る機会がありました。他のアーティストの方とも一緒にプレーをする機会があったのですが、その場所に当時の日本代表の選手も集まっていました。そこで※相根澄さんと知り合い、練習に誘って頂いたのがきっかけです。
 
※相根澄さん:湘南ベルマーレ(フットサル)監督。元サッカー、フットサル選手であり、元フットサル日本代表。サッカー・ヴァンフォーレ甲府などでプレーした後、フットサルに転向。Fリーグ創設に関わりつつ、ペスカドーラ町田の選手として初年度は自らもプレーした。
 
小野大輔、久光重貴
 
左はチームメイトの湘南・小野選手
 
――明確にフットサル選手になりたいという意識はあったのでしょうか。
 
久光 カスカヴェウでずっと続けてきたわけですが、Fリーグが発足するということでペスカドーラ町田に変わるというタイミングの時に運良く自分も移っていったという形です。なのでまずはチームを大事にしたいと考えていました。その当時※甲斐さんに、アマチュアだからこそプロの意識を持った方がいい。将来的にプロになった時、常にふさわしい立ち振る舞いができるようになるので、そこは考えた方がいいと教わりました。
 
※甲斐さん:甲斐修侍選手。現役選手であり、現在ペスカドーラ町田の代表も務める。
 
――以前インタビューさせて頂いた※市原さんとも親交があると思いますが、フットサル界の先輩として学ぶことはありましたか。
 
久光 実はカスカヴェウで一番初めにもらった背番号が4でした。僕にはイチさん(市原誉昭氏の愛称)の代名詞だった背番号4を次に背負うという大きなプレッシャーがあったんです。イチさんという偉大な選手の背番号をそれまでフットサルをやったことがなかった若造が背負うことでいろいろな人から比較もされましたし、その中で結果を残せないもどかしさもありました。でもベルマーレで一緒にプレーができたことは嬉しかったです。
 
イチさんがトレーニングをしている姿、誰よりも早く来て準備をしてから練習に参加している姿を見て、やはりこの年齢まで続けられるというのはしっかり自分の体と向き合っているからなのだと感じました。僕も長くプレーを続けるには体、気持ちと向き合いながら練習や試合をこなしていく必要があるとイチさんから学ばせてもらいましたし、その経験を若い選手達にもヒサさん(久光選手の愛称)がやっていたから自分もやろう、と言われることで次の世代に伝えていければと思います。それが僕らの役割であり、言葉だけでなく背中で伝えていく必要があります。
 
※市原さん:市原誉昭氏。フットサル元日本代表キャプテン。三浦知良選手の影響で小学校卒業後、単身ブラジルに渡る。Fリーグでは浦安、町田、湘南でプレー。
 
久光重貴
 

応援してくれる人がいるから僕らは成り立っている

 
――久光選手が思う、フットサルの魅力を教えてください。
 
実始める前は小学校からずっとサッカーをやってきたので、ある程度自分でもできるだろうという自信もありました。ちなみにフットサルで初めての練習はフィジカルトレーニングでした。だからボールを蹴ることがなかったんです(笑)これはフットサルではないなと思ったのを今でも覚えています。
 
練習に参加していく中で初めて紅白戦に出たのですが、その時はほとんどボールに触れませんでした。ボールのもらい方やタイミングが分からなかったんです。当時のカスカヴェウには相根澄さん、前田喜史さん、金山友紀さん(いずれもその後町田でプレー、日本代表にも選出)などがいました。唯一ボールに触れられたのは自分で相手から奪った時だけでした。
 
ただ当時のカスカヴェウのフットサルは面白くて、練習でやった形がそのまま試合で出るんです。相手に支配されることなく、自分達のペースで常に試合の主導権を握るというものを見せられた時にはフットサルの魅力を感じました。
 
――一番初めの紅白戦でボールに触れなかった悔しさをバネにやってきた部分もありますか。
 
久光 そうですね。悔しいですし、なぜ触れないのかと考えましたね。
 
――これだけ競技の知名度も上がって、プレーする場も増えているので多くの方に魅力が伝わって、会場に足を運んでもらえるチャンスももっとあると思います。
 
久光 土日は家族と過ごしたりする人もいる中でフットサルは優先順位をつけると一体何番目に入るのか、というのは考えないといけません。他にも買い物に出かける、野球やサッカー観戦に行くなどがあるわけですが、やはり優先順位の一番上に来てくれないと観戦する人は増えないと思っています。
 
――久光選手は積極的にファンサービスをされていると思いますが、そういった理由から行動されているのですか。
 
久光 実は湘南に移ってきた当初はファンサービスをするのがすごく嫌でした。負けた試合でも笑って接しなくてはならないわけですが、うまく笑えないんです。勝った試合でしかしたくありませんでした。
 
でもある日気づいたのは、負けたことに関して観に来ている子供達に罪は全くないこと、そして試合の勝ち負け以上に選手との触れ合いを楽しみに来てくれているということでした。そこで僕らが機嫌を悪くしているのは違うと考えるようになりました。
 
その後は試合で勝っても負けても、最後のファンサービスはしっかり相手と目を合わせ、自分の気持ちを見せて触れ合うことでもう一度観に来たいと思ってもらえるように心がけています。
 
自分がキャプテンをやっていた時期にも負けた時に下を向いて握手している選手がいたので、それは違うという話をしたことがあります。ベテランやできる選手はその辺りの切り替えがすぐにできているように思います。経験がない選手は自分の感情のままに出してしまうので、すごくもったいないです。
 
――実際に一緒に写真を撮り、サインももらえればその選手のファンになりますよね。サポーターも悔しい気持ちは同じ中で、ファンサービスをしてもらえるとまた次の試合も応援する気持ちが湧いてきます。
 
久光 そういったファンを少しずつ増やしていかないといけません。応援してくれる人がいるから僕らは成り立っているということをもっと感じないといけないのだと思います。これからが本当に大事な時期です。
 
自分達はいい時期も経験させてもらったので、今後もっと良くしていくことで若い選手にもいい思いをさせてあげたいです。そうなればまた次の世代にも繋がると思います。僕ももう一頑張りしないといけませんね(笑)治療をしながら活躍することができればもっと応援してくれる人も増えると思いますから。
 
湘南ベルマーレ
 
試合後にはサポーターと勝利を分かち合う

ガン発症をきっかけにフットサルリボン活動を開始

 
――今もガンの治療をされていると思いますが、病気はどのような形で発覚したのでしょうか。
 
久光 自覚症状はほとんどなくて、Fリーグのメディカルチェックを受けた時に初めて怪しい影が映っていると言われました。もしかしたらフットサルをプレーしていなければ見つからなかったかもしれません。
 
人の縁でフットサルを始めて、このタイミングで病気と向き合うことになったわけです。様々なことが繋がって僕がやるべきこと、やらなければならないこと、僕にしかできないことがこれからも少しずつ増えていくので、責任を持ってやっていきたいです。
 
――フットサルリボン活動を中心に様々な活動をされていますよね。
 
久光 ガンの啓発、啓蒙活動に関しては自分が治療を始めると公表してから本当に多くの方に支えられたと感じていたから始めました。応援してくれる一人ひとりに僕は何かを返せるわけではなく、会いに行って言葉をかけられるわけでもありません。では自分は何ができるかを考えた時に、将来もしかしたらその人や僕を応援してくれる人の大切な人がガンになるかもしれないので、そこに対して何かできることがないのかと思うようになりました。
 
 
――フットサルリボン活動を通して勇気をもらっている方も本当に多くいらっしゃると思います。
 
久光 直接感謝のメッセージを頂くことも増えてきました。そういった声をもらうと僕も活動の中でガンの子供達の支援はもちろん、生きていく中で病気やケガと向き合うことはたくさんあるけれど、大人になるというのは楽しいことだよ、と伝えていきたい意欲がさらに湧いてきます。毎日仕事に追われて残業して疲れた姿を見せるのではなく、大人になれば自分のやりたいことや夢を実現させる力を持てると見せてあげたいですね。
 
病気であってもケガであってもどんどん自分のやりたいことを考えて夢を持てる子供をフットサルリボン活動で出会った子達を中心に増やしていきたいと考えています。そうするには僕自身が人生を楽しまないと大人の楽しさを伝えることはできないと思っています。
 
小宮山友祐、久光重貴
 
左は浦安・小宮山友祐選手。「PROJECT NO.5」というFリーガー対談を通したフットサルの普及と試合入場者数に応じた金額をフットサルリボンへ寄付する活動を行っている。 
――ご自身の中で様々な葛藤があったとは思いますが、闘病しながらも選手としてプレーを続ける道を選ばれています。その選択に至った経緯を教えてください。
 
久光 皆さんからのメッセージの中に「必ずピッチに戻ってきてほしい」という言葉が多くありました。それを見た時にこれは皆さんが作ってくれた僕の夢の1つなのかもしれないと感じたんです。実際に昨年の2月の復帰戦には多くの方が観に来てくれたのですが、同じようにガンの治療中という人も多かったんです。
 
そういった人達がフットサルに触れるきっかけを作れたということ、久光さんが頑張るから私達も頑張りますと言われたことは本当に嬉しかったです。そこで選手としてプレーをすることは1つ、僕にしかできないことだと気付きました。ガンを治療しながらプレーをすることは簡単ではないですが、現在進行形で病気と闘っている人にとって意味があることなのだと思います。
 
もちろん僕も特別ではなくて、しんどい時や辛い時もあります。でも皆さんから力をもらっているように同じガン患者の方にも一緒に頑張りましょうと声をかけ続けていきたいと思います。もちろんプレーを続ける限り、選手としての責任もあると思っていて、自分が努力をし、質を求めることができなくなった時には選手としてやってはいけないところにあると考えています。
 
ピッチに立つための努力ができなくなった時には素直に体がしんどいのでできないと言います。自分の気力がある限りは歯を喰いしばって、プレーをすることを体現していかないといけませんね。
 
――体調もまだ万全ではない中で試合会場にいるファンの方と積極的にコミュニケーションを取られている姿が非常に印象的でした。
 
久光 僕が弱音を吐かないのはフットサルという好きなことをやらせてもらっているからですし、一人ではできないことに対して力を貸してもらって協力して頂いているというのがあるからです。今の病気に関して自分の気持ちが折れてしまう時もあります。怖くもなりますし、泣きたい時もありますが、それを人には見せません。
 
同じように闘病している人達と手を取り合ってやれることを見つけてやっていくことで人生の生きている時間の中で何ができるのか。限られたことしかできないかもしれませんが、やれることを見つけて精一杯取り組みたいと考えています。
 

一秒後には進める、一秒前には戻れない

 
フットサルや治療以外の時間で何かされていることがあれば教えてください。
 
久光 この体でできることであればいろいろなことに挑戦してみたいと思っていますし、可能性を広げていきたいという想いはあります。
 
道を開いていきたいです。意識してやっていること、日課にしていることとしては日記があります。1行でも2行でもその時に思ったことを書き留めるようにしています。その瞬間にはもう戻れないわけですから、その時の気持ちを大事にしないともったいないですよね。
 
――弟さん(久光邦明選手)が同じチームにいらっしゃいますが、何か意識することはありますか。
 
久光 弟がそばにいることは特に私生活の面で本当にありがたいです。選手としてピッチに立った時にはお互い良きライバルですし、12人の枠を取り合わないといけないわけですから、手は抜きません。フットサルをやる時には一人の選手として見ますし、家族といる時には兄弟として支えあっていかなければなりません。
 
――久光選手の今の目標を教えてください。
 
久光 選手としてピッチに立つ以上はゴールを決めることや、勝利に貢献すること、自分がチームのためにやれることを率先してできる選手でありたいと考えています。年齢的にはベテランと呼ばれる域なので、気持ちが落ちている選手がいればそれを引き上げることや、いろいろなところに目を配ってできることを見つけていきたいです。
 
――最後に読んでくださる読者、フットサルファンへメッセージをお願いします。
 
久光 まず、うまくなるのに年齢は関係ないんです。以前※後呂と一緒にスクールをやっていた時に60歳くらいの人が来ていたのですが、一生懸命やってうまくなっていきましたし、そこで若い人達と触れ合うことが生きがいにもなっていたと思います。今後は例えば平塚でのスクールはフットサル場でやっているわけではないので、今までフットサルをやったことがない人向けに開催することを考えています。
 
今フットサル場でプレーしている人達は観戦経験がある方も大勢いると思うのですが、スクールをテニスコートなどで開催することで初めて観に来てくれる方が増えると考えています。そうなればお客さん自体も増えますし、より多くの方がフットサルの魅力を感じてくれると思っています。
 
よく僕は「一秒後には進めるけれども、一秒前には戻れない」と言っています。なので常に進むという気持ちを持つことと、失敗しても常に時間は過ぎていくので後悔するのではなく、その失敗を取り返すことをしないともったいないです。
 
一秒一秒を立ち止まることなく僕も頑張りたいですし、この時間を共有している人達との瞬間を大切にしたいと思います。人との出会いを通して自分も人生が変わってきています。だから常に時間と人との出会いを大切にしていきたいですし、一人でも多くの人と会って話をしていろいろなことを伝えてもらいつつ、自分も伝えていきたいと考えています。
 
※後呂:後呂康人選手。ペスカドーラ町田背番号4。ポジションはアラ、フィクソ。