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木村悠。あえて遠回りを選んだ「商社マンボクサー」の軌跡

2017.04.06 / 山本 一誠

木村悠

 

“商社マンボクサー“。木村悠が一躍脚光を浴びるキッカケとなったニックネームだ。大学1年目で日本一を勝ち取った気鋭のボクサーであったにも関わらず、彼のキャリアは遠回りの連続だった。商社で働きながらプロボクサーを続け、世界チャンピオンを掴み取った苦労人を支えていたのは、ストイックという言葉には収まらないほどの徹底した自己管理に他ならない。負けるたびに強くなる。そう感じさせる苦労人のキャリアと、その先に彼が描くセカンドキャリアとは。

 

弱かった少年を変えたボクシングとの出会い

-まず、木村さんがボクシングを始めた経緯を教えてください。

実はケンカに負けたのがきっかけなんです。中学の時はサッカー部で、あるとき僕がサッカー部のキャプテンを務めることになったのですが、団結力がなくてまとめようと思っても、なかなかうまくいかなかったんです。そこである時、チームメイトに「ちゃんとやれよ!」というように怒ったら、相手も怒って『タイマンだ!』みたいな感じになって。急に殴りかかってきて、そのとき自分は何もできなくて、やられるままでした。その時に強くなりたいなと思ったんです。

 

そこで出会ったのがボクシングでした。これだったら自分を変えられるかもしれないと思ったんです。最初はケンカに勝ちたい、やられた奴にやり返したいと思っていたんですけど、途中からそういうのも忘れました。本当にボクシングが楽しい、強くなりたいという思いでのめりこんでいきましたね。

 

高校もボクシング部のあるところを探して行って、そこである程度実績を残したので、推薦で法政大学のボクシング部に入りました。

 

-法政大学に進学して1年次に全日本ライトフライ級優勝を果たしました。

本来なら高校の時に一番になりたかったんですけど、あと一歩のところでなれませんでした。なので大学に行ったらまず絶対日本一になりたいと思っていて、1年次に成し遂げることができました。

 

-五輪を目指して居た中でそれが叶わなかったと聞きましたが、大学ボクシングの年代で一つ目指すところではあるのでしょうか。

五輪に出るのはハードルが高かったですが、全国で一番になったら五輪を目指すというのは、みんな目標に置いていました。トップ選手で全日本チームが組まれて、合宿をやって、五輪に向けて国内予選から海外予選まで試合を重ねて、本当に一部が五輪に出られる、というものです。

 

-いつごろ、五輪を断念したのでしょうか。

大学2年から3年ですね。ずっと自分の学年にライバルがいて、大学1年で優勝した時はその選手に勝ったんですけど、2年の国内の代表選手選考会で負けてしまい代表になれず、五輪に出られなくなりました。

内山(高志)選手や八重樫(東)選手、いま世界チャンピオンになっている選手はみんな同期なんですけど、そういった選手も五輪には出られず、自分に勝った五十嵐(俊幸)選手だけが出場しましたが、彼も一回戦で負けちゃったんですよ。それくらい僕らにとって五輪はハードルが高いというか、壁があったんです。

 

-ちなみに、大学生からプロになるまでの過程はどのような流れなのですか?

プロになるには所属ジムに入る必要があるんですけど、自分の場合は大学時代から帝拳ジムに通っていたので、そこで半年くらい準備をしてからテストを受けて、プロデビューという形ですね。

 

-プロになって生活はガラッと変わるものなのでしょうか。

実際プロだけで生活できている選手はほぼいないので、みんなアルバイトをしながら、合間を縫って練習しています。最初は昔ボクシングを始めたスポーツジムでアルバイトしながら、ジムに通うような生活でした。

 

木村悠

“サラリーマン”と“ボクサー”という二足のわらじ

 

-商社へ勤めるまでの経緯を教えてください。

アマチュアでは結果を残していたので期待されてプロになったんですけど、だんだん試合でも苦戦するようになって、途中で負けたんです。ジムが期待するのは、無敗でほとんどKOして日本チャンピオンになること。そこから世界チャンピオンになれるかなれないか、という基準で見ているのに、その前の前の段階で負けてしまった訳です。『甘いぞ』と忠告されましたね。

試合が終わって負けた後、一回自分探しにインドに行ったりして…。結局もう一回プロでやるとしたら、何かを変えないといけないと思ったんですよね。

 

その時に、たまたま大学時代の友人が集まった飲み会があったんですけど、だいたい卒業して2年、3年くらい経った時に同期の連中に会うと、みんな社会に出ることですごく成長しているんです。社会に揉まれて、プロ意識を持って働いている。それを目の当たりにして、自分もそういう環境に行けば内面が変わるんじゃないかと思ったんです。そして、会社員になろうと思いました。

 

18:30の練習に間に合うように業務をこなす

最初は「ボクシングをやっている」と言うと敬遠されてしまって、なかなか決まらなかったんです。そこでアスリートのセカンドキャリアをサポートしているエージェントの方を紹介してもらい、いろいろ探していただいて、そこで話が進んだのが植松エンジニアリングという専門商社でした。『ここだったらボクシングをやりながら続けることができるから、一回面接行ってみる?』と紹介していただきました。

 

-いざ社員になってボクシングを続けてみると、大変さはありましたか?

自分は中途のわりに何も知らない新人だったので、名刺の渡し方から電話の取り方、業務の進め方まで全部が一からでした。本当に怒られる日々が続きました。それでも、なんとしてでも18時までには仕事を終えて、18時半までにジムへ行くということは決めていました。18時までに終わるためにはどういうふうな業務スケジュールを立てればいいか、ToDoをこなせばいいか、逆算して考えていく癖はできましたね。

 

-その逆算は誰かに教わったのではなく、自分自身で考えたのですか?

仕事内容をどのように効率化して、区切りをつけてやっていくかというのは自分で試行錯誤してやりました。それもすごくボクシングに生きたんです。スケジュール管理や日々のToDoとか、練習の反省やPDCAサイクルを回すのに、iPhoneを使ってこまめにデータを取りながら、日々の練習に生かしていきました。

 

-とはいえ、ボクシングだけに集中したいという思いもあったのではないでしょうか?

初めのうちはありましたけど、ある程度リズムが出てくると、逆に何もしないほうが時間を持て余してしまって。もちろんボクシングだけのほうが練習の内容や時間も確保できるのはありますけど、プラスマイナスがあって、仕事のおかげで得られたものもあると考えると、トータルで仕事をやっていたほうが良かったかなと思います。ボクシングに生かせることもありましたし、人脈もすごく広がりました。仕事がある自分と仕事がなかった自分を考えると、人間力も含めて仕事をやったほうが成長できたのはありますね。

 

-商社に勤務するきっかけとなった敗戦から復帰戦まで2年のブランクがあったというお話も耳にしましたが、どういった状況だったのですか?

うちのジムはすごく厳しいところだったので、中途半端な状態ではリングに立たせないという方針があって、ようやく試合が決まった時が2年後だったんです。

 

-チャンピオンになるまではどのくらいの時間を要したのですか?

日本チャンピオンから世界チャンピオンになるまでは2年かかってないんですけど、日本チャンピオンになるまでは8年かかりました。そこがめちゃくちゃ長かったですね。再起してからも1回負けています。

 

木村悠

商社マンボクサーが教える、成功へのヒント

-企業に勤めながら夢を追いかける方へアドバイスを送るとすればどういったものがありますか?

ゴールに近づく選択をしていくことは重要だと思います。私もいろいろな誘いがあって、楽しい飲み会があったとしても、自分がチャンピオンになるために、そこに行くのと家に帰って身体を休めるのを天秤にかけた時に、どちらがよりゴールにたどり着けるのかということで選択してきました。どうしようかと迷うこともあるんですけど、優先するのはゴールに近づけるかどうか。

そう考えると、会社で飲み会があっても私は絶対参加しませんでした(笑)。 自分の道を貫く強さは必要かもしれないですね。流されていってしまうとその結果にしかならないですけど、自分に軸があれば、いろいろな選択肢があった時に自分に必要なものをチョイスできるのではないかと思います。

 

僕は無駄なことはしないようにしてきました。練習もそうです。ボクシングは長時間練習したから強くなるかというとそうでもなくて、短時間でもいいから一番重要なことを見極めてトレーニングしていく必要があります。仕事も同じで、例えば9時間という時間があったら、無駄な時間をできるだけなくして、自分の仕事の本質的な部分に時間を割いていくのは重要だと思いますね。

 

-相当意志が固くないと貫けないですよね。

意志もあるんですけど、自分の場合は強くなって応援されることによって責任感がでてきたんです。みんなすごく協力してくれて、試合にたくさんの人を連れてきてくれて、いろいろなサポートをしてくれていたので、そういう人たちの期待に応えたいというのが強くあって、自分の欲と戦う時に勝つことを意識するという考え方になったんじゃないかなと思います。

 

ボクサーを引退し次のステップへ

-引退後に商社を退職し、FiNCへ勤めた経緯を教えてください。

FiNCのアプリ内にある『チャンピオンの食事』というコンテンツで、自分の食事を投稿するのを3ヶ月くらい手伝っていた時期がありました。そういう繋がりがあって、引退した後に共通の知り合いの方から『FiNCで新しい取り組みをやるから手伝ってほしい』と去年の9月にお話をいただきました。勤務し始めたのは今年の2月ですね。

FiNCの仕事は自分がやりたいことにも直結していたんです。アスリートのサポートやセカンドキャリアは変えていきたいと思っていた分野なので、やりがいがあります。自分が好きだったチャンピオンが、行方不明になってしまうとか、仕事がなくて困っているという話を聞くと、憤りを感じるというか。あれだけリングで輝いていたのに社会で活躍できないというのは、どこか仕組みがおかしいのではないかとすごく疑問に思っていました。

 

-アスリートはセカンドキャリアにどうアプローチしていけば良いと考えていますか?

現役のうちからある程度基盤を作っておかないと、いきなり引退後というのは厳しいですよね。セカンドキャリアに触れられる教育的な機会や、引退した選手から話を聞ける交流会などが圧倒的に少ないので、そういうことを増やしていくことで、選手も今やるべきことができるんじゃないかなと思いますね。

 

-最後に、木村さんの今後のビジョンを教えて下さい。

個人としては、アスリート出身でビシネスの世界で結果を出す第一人者になりたいと思っています。会社の活動としては、頑張っているけど適切なサポートが受けられないアスリートにもっと活躍できる場を提供していきたいですね。現役の時だけでなく、引退した後も活躍できるような土壌を作っていければと考えています。アスリートは努力するという強いパワーを持っているので、社会に適応して目標さえ定めれば、社会で活躍できる選手をもっと増やすこともできると、強く確信しています。