リトアニアでプレーする日本人。2度の大怪我を乗り越え、頂を目指す

2015.09.10 森 大樹

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【丸山龍也(サッカー)】
リトアニアプロサッカーチーム、FKタクラス・タウラゲ所属。1992年7月4日生(23歳)・174cm・68kg・神奈川県横浜市出身。

丸山選手は小学生の時からサッカーを始め、アルバイトをしながらプレーをする中で、連続する怪我や大一番での退場という苦難を乗り越え、今なお海外でチャレンジを続けています。

 

漫画の影響ではじめたサッカー

 

-まず、取材に先立ってブログを拝見させていただきましたが、すごくたくさんの文章を書いていますね。

ブログを書いているのは個人のブランディングや頭の中の整理、あとは自分へプレッシャーをかけるという目的もあります。

高校生くらいの頃から書いてはいたのですが、プロになる際にこれを今後どうしていくか改めて考えました。今はブログでお金を稼ぐ人もいるからです。

というのも、だいたい海外でサッカーをしている日本人選手は日本でバイトしたお金を持って海を渡ります。クラブからの給料だけだと渡航費やビザなども含めて生活することが難しいからです。なので、一流選手以外だと日本でのバイトと海外でのプレーを繰り返している選手がほとんどです。そうなるとサッカーに使える時間も少なくなってしまうので、プレーしながらでもコンスタントにお金を稼ぐ方法を考えた結果、ブログをしっかり書くということを考えました。それで実際に記事を書く仕事が来ることもあります。

 

-生活が苦しいというお話ですが、リトアニアの物価は日本と比べるとどのくらいなのでしょうか。

平均の月収が8万円なので、だいたい日本の3分の1くらいでしょうか。ちなみに過去に僕がいたタイは5万円、スリランカは2万円だそうです。そういった国にもいた僕からするとリトアニアの物価はそこまで安く感じていませんが、やはり日本と比べると安いですよね。

 

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スリランカ時代の丸山選手

 

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現在はリトアニアでプレーしている

 

-それでは丸山さんのスポーツの経歴を辿っていきたいと思います。サッカーに初めて出会ったのはいつ頃のことですか。

僕の中での一番古いサッカーの記憶は1998年のフランスW杯の時です。まだ当時僕は6歳でした。でも実はW杯自体は観ていません。ただコロコロコミックに川口能活選手の読み切り漫画が載っていて、それを読んだ時にサッカーに惹かれて、親にボールを買ってもらったのを覚えています。

しかし、そこではサッカーにのめり込むことはなく、本格的に始めたのは小学校に上がってからです。一緒に仲良く遊んでいた僕を含めた3人組のうちの2人がサッカーを始めて、それで土日遊ぶ相手がいなくなってしまったので、仕方なく自分もやりようになりました。親には野球を勧められたんですけどね。

 

-ご両親は野球をやらせたかったのでしょうか。

サッカーと違って、野球はバッターボックスに立てば1人でテレビに映れる、と目立ちたがり屋の僕の心を刺激してきたので、もしかしたらそうなのかもしれません。でもその後父はサッカーチームのコーチを始めましたし、それを見て妹もプレーを始めたので、僕をきっかけにサッカー一家になっていったことになります。

 

-そしてサッカーを続けた丸山さんですが、高校進学の際はいろいろと悩まれたそうですね。

中学でもサッカー部に入りましたが、プロ選手になりたいと密かに思っていた僕は、その学校でプレーをしているだけではプロになれないと感じていました。なので、クラブチームに中学3年の時に移りました。そのチームでブラジル留学にも行きました。しかしそれは周りが受験勉強をしている中学3年の夏のことです。

 

-ご両親の反対はありませんでしたか。

僕の親は何かやりたいことがあるなら高校に行くべきだけれど、ないなら行く必要がないというスタンスでした。なので高校に行かずにサッカーをすることも考えていたのですが、それはそれで否定されました。当時は矛盾したことを言っているな、と思っていましたが、おそらく高校はとにかく出ておいた方がいいけれど、自分のやりたいことをメインにしなさい、ということを伝えたかったのだと思います。

 

-しっかり自分のことについて考えるように、というメッセージだったわけですね。

でも父は不器用なので、その時は怒鳴られただけでしたね(笑)

一応僕も受験はしました。受験したのは公立ですが、サッカー部も強くて、珍しくスポーツで受験することができる高校です。サッカーだけで受かる可能性もあったのですが結局実力不足で、中学3年になってもブラジル留学に行っていたりとサッカーばかりしていた影響もあって勉強で補うこともできず、落ちてしまいました。

親は滑り止めという考え方をよしとしなかったので、最終的には定時制の高校に通いながら海外志向の強い選手が集まるクラブチームでプレーをするという選択肢を取ることになります。

 

-他の友達が進路を決める中で不安もあったのはないでしょうか。

受験勉強もしていましたし、サッカーだけで入れる可能性もあったわけですから、自分のレベルの低さを突き付けられたことになり、落ち込みました。

しかも定時制高校の受験は中学の卒業式の後にあります。卒業時点で進路が決まっていないのは僕ぐらいだったので、これから先の人生がどうなるのか不安はありました。それでもサッカーはやりたいと思ったので、続けました。

 

計り知れない影響を受けた豊嶋邑作の存在

 

-それで入ったクラブチームで豊嶋選手と出会ったということですが、どのような影響を受けましたか。(→豊嶋邑作選手インタビューはこちら

もう、影響受けまくりですよ!(笑)受けた影響の大きさは計り知れないです。そこは社会人チームなので、僕と同年代の選手がどの程度の実力を持っていて、自分がどのくらいの位置にいるのか、計ることができないんです。でも高校3年生になって、大学1年生の豊嶋選手がチームに入ってくることになりました。豊嶋選手はレイソルユース出身で、当時の背番号は10番。しかも彼の代のレイソルユースは全国優勝をしています。彼はエリート中のエリートでトップチームにも上がれるはずだったのですが、直前で話がなくなって、ブラジルに行くためにうちのチームに来ることになりました。

 

-豊嶋選手はそれだけ同年代でもトップクラスの実力を持っていたのですね。

明日チームに来るという日は僕もすごく緊張しました。自分も頑張らないといけないと思いましたね。でもその日たまたま父とケンカして、明け方まで家から出ていて、結局次の日寝不足のまま練習に行ったのを覚えています。しかも土砂降りの雨が降っていました。

 

-そこまで鮮明に覚えているということは相当インパクトのあることだったんですね。

やはり今まで見た選手の中で一番うまかったです。ただ、その日は雨でグラウンドのコンディションが悪かったんです。ユース育ちの彼はずっと人工芝のグラウンドでやってきていたので、雨でドロドロになった土のグラウンドはやりにくかったのでしょう。そういう状況になった時のたくましさは自分の方があると感じました。もちろん彼が数段もうまいことは間違いありませんでしたが、自分にもそういう選手に泥臭い部分で勝てるところがある、と初めてそこで気付くわけです。

でも彼はうまいだけではなくて、すごく努力をしていました。しかもチームの練習は横浜で、彼は住んでいる茨城から電車で長い時間かけて通っていました。その電車の中では英語の勉強をしていたようです。

 

-年齢も近く、刺激になる部分が多かったんですね。

僕が黙々とトレーニングをしていたところ、後から付いてきて、どんな効果があるのか聞いてきたり、一緒にやったりしていました。こんな僕からでも吸収しようとする、その姿勢が素晴らしいと思いました。逆に僕が質問した時もしっかり答えてくれますしね。今まで僕も追いつけ、追い越せで頑張ってきました。

 

-その後は定時制の学校を辞めて、通信制の高校に編入されています。

単純に学校に行っている意味がないと思いました。本当はアルバイトをしてお金を貯めて、海外に挑戦しようと考えていたのですが、当時は午前中に練習して、午後から学校に行き、週末は試合がある、という生活リズム。お金を貯めるためにアルバイトをする時間がありませんでした。なのでそうするために定時制の高校を辞めて、働くことにしました。

 

-ちなみその時はどのようなアルバイトをしていたのでしょうか。

いろいろやりました。寿司屋さんの配達、ブラジル料理屋さんの出店、あとは某プロスポーツチームのマスコットキャラクターの中の人をしていたこともあります。

 

-それはかなりレアなアルバイトですね!

実際に選手と一緒に入場もしていました(笑)すぐ目の前で同い年のアスリートが高校生でありながらもプロの世界で堂々と活躍している中、僕は人形の中に入って子供に愛想を振りまくという非常に対照的な立場にいました。「俺は一体何をやっているんだろう…」と思うことはありましたが、一流選手達のロッカールームでの様子を見ることができたりして、プロを間近に感じられたので、すごく勉強になりました。

 

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交代で投入された直後にレッドカードで退場してしまった丸山選手

 

-その後は岩手のクラブに加入して、天皇杯を懸けた県大会の決勝に出場していますが、交代でピッチに入った直後にレッドカードで退場になっています。

それまで僕は本当に普通のサッカー少年でした。そんな選手が勝ったら天皇杯出場という大一番の試合に出るのはちょっとした事件です。それでたくさん友達がわざわざ岩手まで観に来てくれていました。

試合はグルージャ盛岡が相手だったのですが、開始直後に1人退場になってしまった上に、1-2と負けていて、後半残り時間約10分のところで最後の交代カードとして僕が呼ばれました。もう2試合(この試合ともう1試合)勝てば、ベガルタ仙台との対戦も決まっていたので、僕のテンションはすごく上がっていました。しかし出場して1分ほどで退場になってしまいます。何が起きたか分からなくなって、ロッカールームに戻ってからは物を壊すほど暴れまわった後、落ち込んでいました。

 

-様々な強いプレッシャーがかかっていたからそうなってしまったんでしょうね。

チームは八幡平というすごく田舎にありました。県大会決勝はNHKでテレビ放送されたのですが、八幡平市のスポーツチームが画面に映るなんて、地元ではニュースです。たぶん八幡平市だけでいくと視聴率は7~8割はあったと思いますよ。そのくらい皆さん応援してくれていたということです。しかし結局試合にも負けてしまい、次の日の新聞には僕の退場シーンが大きな写真付きで載って、ブログのコメント欄は誹謗中傷で埋まり、地元の人からの冷たい視線もかなり感じました。中には暖かく接してくれる人もいましたが、当時僕はまだ19歳で、人間として辛い状況に耐えるためのキャパシティも持っていませんから、相当凹みました。今でも夢に出てくるくらいです。

 

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退場シーンは次の日に大きく新聞で取り上げられた

 

2度の大怪我も、自分を見つめ直すきっかけに

 

-その後も悪いことは続き、大きな怪我を2回経験されています。

1度目の怪我はポジティブなものでした。左膝内側側副靭帯断裂、及び前十字靱帯断裂という大怪我でしたが、今までフィジカル面での強さが足りていないと感じていたので、トレーニングをして、体をしっかり作り直し、アルバイトをしてお金を貯め、海外に行こうと考えていました。そうやって始めの8ヶ月はちょうどいい機会だと思って、前向きにリハビリをやっていたんですけど、復帰してすぐの練習試合でまた前十字靱帯を断裂してしまいました。歩けないところから、また1からやり直しという感じです。本当に辛かったです。ただ、結果的にはすごく成長できたので、よかったです。しかも怪我をしたことでより深みのある人生を歩めていると思います(笑)

 

-乗り越えた今だからこそ、そう言えるというのもありますよね。

怪我をしていなければ、もしかしたらプロサッカー選手になっていなかったかもしれません。アルバイトをして、何となく数回海外に挑戦して終わっていた可能性もあります。でも怪我をしたことでサッカーやプロ選手になることへの想いも強くなったと思いますし、いろいろな人と出会えたりもしました。もちろん当時は地獄のようでしたけどね(笑)

 

-その辛い時期に鹿児島に行かれていますよね。

祖母から曽祖母の家が空き家になっているという話を聞いて、まだ手術をしてからようやく歩けるくらいにしかよくなっていませんでしたが、行くことにしました。その時はかなりのストレスがかかる家電量販店で働いていた上に、ピザ屋のアルバイトも掛け持ちでしていました。仕事の合間を縫ってリハビリをする生活です。今考えるとやりすぎですよね。しかも自分が本当にやりたいサッカーはできていないわけです。サッカーが怪我でできないから働いていたのですが、そのうちだんだんアルバイトをしている理由も分からなくなってしまって、いっそどこかに放浪しようと考え、鹿児島に渡ることにしました。

 

-相当精神的にも追い詰められていた時期ですよね。

はい。友達からの連絡も全てシャットアウトし、返事もせずにいきなり鹿児島へ行ったので、「丸山死んだ説」が流れたほどです(笑)全然関わりのなかった岩手と大阪の僕の友達同士で僕がどうしているか情報交換をし始め、妹に兄がどうしているか連絡が行く事態になったので、これ以上の大騒ぎはさすがにまずいと思って鹿児島で山籠りをしている旨を伝えました。

しかし放浪を始めれば収入もなくなるので、その時にパソコンでお金を稼ぐ方法を身に付けました。映画のレビューの記事を書いたりしていましたね。後々タイに行った時にそれが役立つことになります。

あとは暇で時間がたくさんあるので、ひたすら自分のことを考えていました。桜島が見える海に近い綺麗なところだったので、そこまで行き、夕日を見ながら涙を流すような日々を送っていました。

 

-自分を見つめ直すきっかけになったんですね。

親戚が近くに住んでいたので、人に会えないわけではなかったのですが、誕生日も一人ぼっちで迎えていました。クジラの刺身とケーキを買ってきて、ボロい家で密かに祝っていました(笑)

そうやって考え抜いた結果、やはり自分にはサッカーしかないと思い、横浜に戻ってくることになります。

 

【後編】へ続く