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29歳からのプロ再挑戦と怪我。師玉祐一が語る挑戦することの価値

2016.04.08 / 森 大樹

師玉祐一
 
今回は東京サンレーヴス・師玉祐一選手兼任アシスタントコーチに話を伺った。師玉氏がプロとして初めて契約したのは何と29歳の時。その他にも1年間に2度の負った前十字靭帯断裂の怪我を乗り越えるなど、異色の経歴を持つ。現在は選手、アシスタントコーチ、トレーナーと3つの草鞋を履き、忙しい日々を送っている。

一度は諦めた選手への道に再び駆り立てたもの

――まず、今までにどのようなスポーツの経歴をお持ちか、教えてください。

3歳から中学1年までずっと水泳をやっていました。物心が付いた頃には泳いでいたという感じで、小学校中学年くらいの時から選手コースに入って練習していました。小学4年から土日には野球もやっていましたね。そして小学5年からミニバスケットボールを始めました。中学まではその3つを並行してやり、バスケットボールが最後まで残って、今もやっています。

その時期にMLBを観ていたらもしかしたら野球を選んでいたかもしれません。バスケットボールを選んだのは92年のバルセロナ五輪に出場した“ドリームチーム”、アメリカ代表を観たからですね。そこからNBAを観るようになっていきました。

――師玉さんは高校卒業後、専門学校と短期大学に進学していますが、それはどういった理由があったのでしょう?

本当は高校を卒業したらアメリカの大学に行きたかったのですが、いろいろな事情もあってできず、自分でお金を貯めて語学留学に行くつもりでいました。それと並行してクラブチームでバスケットボールは続けていたところ、bjリーグができるという話を聞き、せっかくのチャンスなのでトライアウトを受けることにして練習を続けていたのですが、途中で怪我をしてしまったんです。結局トライアウトは何回か受けたものの、どれも一次で落ちていたので一旦選手は辞めて、サポートする側に行こうと考えました。アメリカに行きたかった理由の一つがアスレティックトレーナーになるためだったということもあったので、それを日本で勉強することにして、専門学校に進学しました。

ただ、その時点で学歴としては高卒だったので、ついでに短大の通信教育課程も取ることにしたんです。なので、2年間で専門学校と短大を両方卒業したということですね。

――資格は専門学校在学時に取得したのですか?

そこだけで資格を取得することはできなかったので、専門学校で勉強をして卒業後に一番有名な(※)NSCAの資格を取ることにしました。

※NSCA-CPT:NSCA(国際ストレングス&コンディショニング協会)認定パーソナルトレーナー資格のこと。

――一旦はサポート側に回ることにしたものの、再びプレーヤーとしての熱が湧いてきたのはなぜでしょう。

僕は膝に水が溜まってしまうことがあったのですが、トレーニングの勉強をしていく中で体のことを知り、自分で実践することで改善されていきました。やはりトレーナーをするならどこかのプロチームを診たいと思っていたので現場に行くようにしていたのですが、それを見ているともう一度自分がプレーヤーとしてやりたい気持ちが出てきたんです。そのためにダメもとで動いていたら、運良く大分ヒートデビルズのトライアウトに引っかかって、初めてプロチームの練習生として行くことになりました。しかし、そこで怪我をしてしまいました。

連続した大怪我を乗り越える

――過去のリリース記事を見ると怪我をしてから契約解除までほとんど間がありません。シビアな世界ですね。

練習生から選手契約するか否かを判断するデッドラインがあるのですが、プレーを評価して頂き、それは結ぶことができました。でもホームゲーム前の練習で怪我をしてしまったんです。年齢もそれなりにいっていたので悩みましたが、いろいろな人とも話をする中でまだやれるだろうという結論に至りました。
 
自分でもプロとして契約してもらえるレベルまでできることが分かったので、あとは東京に戻って手術をし、リハビリを頑張っていかにその状態にまで持っていけるのか、ということだけでした。一度プロ契約を交わしたという実績がある以上、他のチームから声がかかる可能性もあると判断して選手としての挑戦を続けることにしました。
 
決意を固め、東京に戻るちょうどその日が3.11でした。大分から福岡に渡り、東京に飛行機で渡る予定だったのですが、途中の電車の中で周りの人がざわついているのを見て初めて震災が起きたのを知ることになります。その日のフライトはキャンセルになってしまったのですが、運良く次の日の便に乗ることができたので、結果的には予定通り手術を行うことができました。

――それで長い治療・リハビリ期間に入っていくわけですね。

でもこの時の怪我は最短の9ヶ月で動けるところまで戻すことができました。そのタイミングで大分のコーチに連絡したところ、チームも選手層が薄かったようで、練習参加してもらって判断するという話になりました。…しかし、そこでまた切るという(笑)

――1年間に2回断裂するというのも治療やリハビリの期間を考えるとなかなか珍しいですよね。

後々聞いた話だとちょうど9ヶ月頃が装具も取れて、動けるようになったくらいで一番再断率が高い時期だそうです。それで同じ年の2月に引き続き、12月に手術することになりました。2回目は元に戻るまで1年半くらいかかりましたね。2回目の時はまだ1回目の怪我からの復帰途中で、完全に筋肉が元には戻っていない状態だったため、その分時間が必要でした。リハビリもより慎重になりますしね。

――さすがに2回目は精神的にもきついと思います。

どうしようか悩みましたが、やはり諦められない自分がいました。結論としては治ったら僕はもう一度大分に行くつもりでした。縁もありますし、気にかけてくれている人もいますから。でもちょうどたまたま東京にチームができるという話を聞いたので、まずはそちらに連絡を取って練習参加のお願いをしました。しばらくは音沙汰なしだったのですが、ある日人手不足だから練習生として来てほしいと連絡がありました。それでbjリーグ参入初年度のサンレーヴスに入って今に至るということですね。

――練習生の間は選手として給与は出るのでしょうか?

交通費のみです。だからその間は専門学校時代にアルバイトをしていたスポーツクラブで働かせてもらっていました。選手としての時間なども考慮してもらっていました。

波乱万丈のバスケ人生

――プレーをしていて、今までで一番嬉しかったことを教えてください。

お客さんの前でユニフォームを着てプレーするというのが実現したことですかね。1年目が一番印象に残っています。

師玉祐一

――逆に辛かったことは何ですか?

約2年間に渡る怪我のリバビリです。バスケットボールをやっている時も練習がきついと思うことはありますが、プレーができるのであれば正直そこまで辛くはないんです。でもリハビリは先が見えないですし、プレーもできない。ただ毎日同じメニューをひたすらやるというのが本当に辛くて、もうやりたくないです。特に2回目は手術をする気にはすぐになったのですが、リハビリが思っていた以上に長くなりましたからね。

――きつい時期に一番支えになった人は誰ですか?

母親ですね。大分に行ったのが29歳、東京に練習生として行ったのが30歳、契約したのが31歳でした。普通なら怪我をした時点で『もうやめれば?』と言うと思うのですが、何も言わずに応援してくれていました。

もちろん自分の中で、今から他のことをやるのは違うと感じていたのも事実ですけど。トレーナーの道もあったから挑戦できたというのもあります。だから逆に若い時だったらどうなっていたか分かりませんよ。

師玉祐一

――師玉さんが思う、バスケットボールの魅力を教えてください。

今でもNBAは観るのですが、一度分かったつもりになってもまた、すぐに新しい発見があって、奥が深いです。新しい選手もどんどん出てきて、自分が想像していた限界以上のプレーが飛び出します。スピードや高さなど、誰にでも分かりやすいすごさもありますが、たとえ身体能力が高くなくてもタイミングや頭を使った動きなどができれば、そういった選手とも互角にやり合える競技であるというのがいいところです。

やはりその中でも自分と同じボジションであるシューティングガード(SG)の動きは気になって見ます。

――憧れの選手はいますか?

僕らの世代は皆、マイケル・ジョーダンを見て育ちました。シューズももちろんジョーダンです。

【後編へ続く】