偉大過ぎる父・原博実を“利用”した先の使命。原大悟のドラ息子力

2018.07.20 小田 菜南子

偉大過ぎる父を持ったことは幸か不幸か。サッカー日本代表歴代得点ランキング4位。解説者として、監督としても愛された原博実さんの息子として生まれた原大悟さんは、自分の才能を探し求め一度はサッカーを離れました。

 

しかし“才能”という呪縛から解き放たれ、自らの使命を見つけたとき、もう一度サッカーと向き合い、父親と同じ世界へ入ることを決めます。

 

競技者としての経歴も、アナウンサーとしての実績もない原大悟さんは、どのようにして実況という仕事と出会い、キャリアを積んできたのか。“原博実の息子”としてもがきながら、一個人・原大悟の生き方を見出すまでのお話を伺いました。

 

疑うことなく進んだサッカーの道

サッカーをやれと強制されたことは一度もありません。でも、サッカーをやらないという選択肢もなかった。サッカーをしていることが当たり前の人生でしたね。たとえば父が「小さい時にはこれくらいのことをやっていた」と言えば、自分も同じことをしなくてはと感じる。負けず嫌いだからというよりは、常に追われているような感覚に近いです。父に勝ちたい、でも勝てない、どうしよう、と。無意識に焦りながら、大学までサッカーを続けました。

 

今振り返ると、苦しい思い出も多いように感じますけど、なぜか根拠のない自信もありました。高校選抜にも入れないのに、大学入るまでプロになれると思っていたんです。そのくせ、入部にセレクションがない大学を選んで受験するという(笑)。プロになるつもりなのに、厳しい競争は避けていました。目標と行動が矛盾していますよね。

 

それでも高校3年間はサッカーに打ち込んだという自負もありました。だから、大学に入ればある程度はやれるだろうと思っていたんです。でも結果は4か月でリタイア。高校時代と同じくらい、もしくはそれ以上の時間をサッカーに費やしたとしても勝てないような選手たちが大学にはゴロゴロいました。なかでも仲の良かったやつが一人いて、そいつは大の練習嫌い。筋トレもさぼっているくせに、ピッチに入るとめちゃめちゃうまい。体のバランスも良いし、スピードもある。背はそんなに高くないのにヘディングもできて、もう反則だろって。俺と同じDFの選手でした。努力でどうにもならない、才能の差を見せつけられました。それまではどんなに試合に出られなくてもあがき続けていて、サッカーを辞めることなんて想像もしていなかった自分が、ふと冷静になった瞬間でした。俺が辞めたあと、そいつは2年目でレギュラーを獲っていましたね。

 

もしプロになれなかったら部活の監督になろうと思って、教員免許が取れる大学を選んだのに、サッカー部自体を辞めてしまった。ここで、自分の人生設計の前提が崩れたわけです。サッカーに才能がないとわかったので、別の才能を見つけなくてはと躍起になりました。そこでたどり着いたのがお笑いでした。当時M-1が流行っていたことも影響したんです友達を盛り上げることも好きだし、得意だと思っていたのでこれだな、と。そこからお笑いに懸けようと。中学時代の友達を誘ってコンビを結成して、M-1に出場し惨敗したのですが、それでも諦めずに養成所に入り、そこでまたコンビを組んで活動を始めました。

初めて父に背いて選んだ世界

お笑いの道を目指すことについて、父は反対しませんでした。でもサッカーを辞めると言ったときだけは、反対されました。原博実が僕の人生に口を出したのは、それが初めてです。僕が試合に出られていないのは多分知っていましたから、選手としてではなく指導者を目指してほしいという思いがあったようです。「ベンチの選手に救われたおかげで今がある」とか、「彼らとは今でも仲がいい」とか、僕を思いとどまらせようといろいろな話をしてきました。でもそれが余計イライラしましたね。それは試合に出ていたやつが言えることだと。僕は今までずっとベンチだった。もうその役回りはうんざりでした。それ以上、この話について父と話すことはありませんでした。それから1、2年経って、お笑いライブをやるようになるとよく見に来てくれましたね。ちゃんとチケットを買って見に来てくれました。

 

 

そんな覚悟をもって、父ともぶつかって、賭けに出たはずのお笑いも結局辞めてしまいます。理由は、それもまた“才能”でした。養成所に入ると、ネタづくりが得意なやつ、大喜利が得意なやつ…いろんな人材がいるなかで、自分には何もないなとすぐに感じました。でも思い切って飛び込んだ世界だから、最初は必死に自分のポジションを探そうとしましたよ。自分が面白くないなら、相方の面白さを引き立たせるツッコミになろうと。そこまでは結構いい判断だったんじゃないかな。ただ、そのあとに結果を焦ってしまったんですよね。

 

当時コンビを組んでいた相方は、僕以上にお笑いを純粋にリスペクトしているようなやつでした。一発屋のような売れ方ではなく、ネタのおもしろさで着実にのしあがっていくことを目指していました。一方僕は、養成所での自己紹介やたまに出るお笑いライブで、父・原博実をネタにしたドラ息子キャラがちょっとウケたのをいいことに、サッカーネタで勝負しようと言い張りました。父の影に追われるのが辛かったくせに、当時はすっかり開き直って、これも才能だ、くらいの気持ちでしてやっていましたね。とにかく早く目立たないと消えてしまうと相方を無理やり説得して、コンビ名も“ザッケルーニィ”というサッカー色の強いコンビ名にしました。まさに一発屋っぽい名前ですよね(笑)。

 

最初は相方も一緒にサッカーネタを考えてくれましたけど、元々サッカーに興味はなかったようです。徐々に違和感が強くなっていったのか、ネタ作りのたびに方向性の違いで喧嘩をするようになって、コンビを解散しました。その相方は、今も違う養成所でお笑いを続けています。

 

相方は、自分にない才能を補ってくれる存在でした。彼を失って、途方にくれましたね。仕方なくピンとしてR-1に出たのですが、そこでやるネタも結局父を引き合いに出すことしかできない。それが僕の発想の限界でした。結果はもちろん一回戦敗退。見込みなしと認めるしかありませんでした。サッカーを辞めたときの何倍も悔しかったです。初めて自分の意志で選んだ道でしたから。