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渋澤大介・モンテディオ山形強化部が目指す「J2からアジア」への道

2020.09.25 / AZrena編集部

J2リーグ・モンテディオ山形強化部の渋澤大介さんは、市立船橋高校サッカー部で全国制覇を果たし、国士舘大学へ。その後海外リーグでプレーし、引退後はサッカー留学の斡旋や選手仲介人に従事。そして、現職に。Jクラブの強化部スタッフとしてのビジョンや思いとは。


<写真提供:モンテディオ山形>

「今はJ2で見ても、経済規模は真ん中より少し上くらい。J1に上がっても定着は難しいですが、クラブとして中長期的な視点で戦略的な取組みが出来れば必ず上を目指せます。僕がここにいる間は、J1昇格~定着ではなく、アジアの頂点を目指してやっていくつもりです」

 

J2リーグ・モンテディオ山形強化部の渋澤大介さんは、市立船橋高校サッカー部で全国制覇を果たし、国士舘大学へ。その後は海外リーグでプレーし、引退後はサッカー留学の斡旋や選手仲介人に従事。そして、現職に至っています。

苦労を乗り越えて掴んだ、Jクラブの強化部というポジションで、彼は何を成し遂げるのでしょうか。

(聞き手:竹中玲央奈)

 

どん底から這い上がり、全国制覇の立役者に

僕は千葉県柏市出身で、幼少期は柏レイソルの大ファンでした。1994年にJFLからJリーグに昇格した試合も観に行きましたし、父親は日立台(日立柏サッカー場)のゴール裏で太鼓を叩いていて。僕も年長から小学校低学年までは、ゴール裏にいたんです。

 

小中学校では、柏イーグルス(現・柏レイソルアライアンスアカデミーTOR'82)でプレーしていました。元日本代表や、多くのJリーガーを輩出しています。

 

卒業後、憧れていた市立船橋高校へ入りました。ただ、僕は一時セレクションで落ち、一般受験で体育科を受け、たまたま合格出来てサッカー部に入部したんです。

 

言うまでもなく部員のほとんどは推薦組です。一学年25人くらいで、一般組はたったの3~4人。紅白戦になると、一般組はスタンドで見ているだけで、途中からも出られない。全国制覇を狙っているチームなので、僕たちはお荷物なんです。分かってはいたけど、やっぱり悔しくて。この状況をなんとか打開しようと思っていました。

 

その中で必死に取組み、夏頃から1年生チームでの試合(現在のルーキーリーグ)で出場機会も増え、冬に3年生が引退した後はトップチームに入ることができました。

市立船橋時代<写真提供:渋澤さん>

3年生の春先まではレギュラーではなく、何とかメンバーに入れるかどうかの立ち位置でしたが、7月のインターハイ予選と関東プリンスリーグのどちらも勝てば本戦出場という試合で途中出場で結果を残し、本大会のメンバーにもギリギリで滑り込みました。本大会は全試合途中出場でしたが、4点を決めてチームは優勝。得点ランキングで2位になったんです。

 

この活躍もあって大会後には多くの大学からオファーが届きました。体育の教員免許を取りたかったので、体育学部があるところを探しましたが、国士舘(関東1部)から特待生の話を頂き、入ることに決めました。

 

特待生として進学も、中退して海外へ

国士舘大学は1学年50人くらいの大所帯で、1軍に行くと部内でのステータスがかなり上がります。ただ、僕は3軍スタート。※インディペンデンスリーグが主戦場でしたが、他大学で1年時から活躍する高校の同級生達を羨み、次第にサッカーに身が入らなくなりました。勉強も最低限のレベルしかやっていませんでした。

トップチームの選手以外(セカンドチーム以下の選手)に、公式戦の出場機会を提供することを目的とした大会

 

特待生とは言え、親に寮費やその他の費用などを出してもらっていて、好きなことをやらせてもらっているのに、これで良いのか。そう考えていたときに、友達の兄がドイツでプレーしているという話を聞きました。

 

今となっては海外でプレーする日本人は珍しくないですが、当時(2009年)はかなりの少数派。海外という選択肢もあるんだなと。「お金がもらってサッカーができる」という安易な考えでしたが、競技に集中できる環境があるなら、海外に行こうと思いました。

 

そうこう言っている間に、大学ではトップチームに上がることができてしまって。このまま大学でプレーしたらチャンスはあるのではと考えましたが、心の中では決意が固まっていたので、大学には「海外に行きたい」と言いました。そして、大学側からは「辞めなくても良いから、とりあえず1回行って来い」と。行った先はイタリアで、1か月間の滞在期間でチームも決めることができました。そして、帰国し大学を中退し、サッカー部を退部しました。特待生なのに部を辞めることになりましたが、尊重してくれた関係者の方には感謝をしています。

 

新天地で結果を残せず引退。海外に行く選手の“窓口”に

イタリアでは下部リーグで3年半くらいプレーして、その後はポーランド4部のクラブに加入しました。前期で得点を量産し、冬の移籍市場で2部のクラブに行くチャンスもありましたが、移籍金が折り合わず破断。その後の後期シーズンは怪我もあって思うように活躍できず、ポーランドでのプレーを1年で終え、現役を引退することにしました。

ポーランド時代 <写真提供:渋澤さん>

 

その報告のために、自分のマネジメント会社で、代理人も紹介していただいたユーロプラス・インターナショナルへ行きました。引退した事実と「海外に行く選手の窓口になりたい」という漠然としたビジョンを伝えたら、「明日から来てほしい」と契約書を渡されました。両親にも引退する事を伝えていなかったので、引退報告と就職報告が重なり両親はかなり驚いていました。そこからユーロプラスインターナショナルで5年半働きました。仕事の内容は、サッカー留学の斡旋や、育成年代のスカウト、イタリア人を招いた指導者講習会、育成年代向けのサッカークリニックの開催、その際の通訳業務などです。2018年には日本サッカー協会公認の仲介人の資格を取得し、海外からJリーガーになる、いわゆる“逆輸入選手”の入り口を作っていました。

 

選手のため、組織のため。未経験からJの強化部へ

現役時代は良くも悪くもエゴイストで自分の事ばかり考えてプレーしていましたが、引退後は自分に関わる選手のため、組織のために力になりたいという想いが強くなりました。仲介人をしていても、「このチームが強くなるにはどういう選手が必要だろう」と常に考えていました。そして「仲介人よりもクラブの強化部で働きたい」と思ったんです。

 

ただ、元JリーガーでもなければJリーグクラブとの繋がりも少ない自分がクラブの強化部に入り込むのは難しくて、仲介人からクラブスタッフに転職という前例もほとんどありません。それでも入りたいのであれば、熱意しかないなと。クラブは選ばず、自ら獲りに行こうと考えました。

 

まずはユーロプラス時代の繋がりを活かして、いくつかのクラブにコンタクト取りましたが、当然ポストが空いているところは無く、叶いませんでした。でも、その内の1つのクラブの方から「モンテディオ山形が強化部スタッフを探している」という情報を貰い、連絡先を頂いて直ぐにメールで履歴書と職務経歴書を送りました。

 

その後、すぐに進展は無く可能性は低いと思いましたが、チャンスを待つことにしました。その間、育成組織でのスカウトなどのお話を幾つか頂きましたが、「トップチームの強化部」に拘っていた自分は頂いたお話をお断りし、モンテディオ山形からの連絡を待つことにしました。そして年が明け、シーズンが開幕する直前に連絡を頂き、晴れてこのチームの一員になることが出来ました。

 

今考えれば、強化部スタッフとしては年齢が若く、クラブでの職務経験も無い自分にオファーすることは簡単ではなかったと思っています。だからこそ、このクラブに拾ってもらった恩を結果という形で返していきたいと強く思っています。

 

J1昇格~定着ではなく、アジアの頂点へ

山形の強化部は、強化部長を含めて4人のみの小さな組織です。この人数でアマチュア選手のスカウティングに行ってJリーグも視察して、海外にも足を運ぶ。平日は自チームの練習にも出て選手の様子もチェックします。チームを編成する上で、日々の練習を見て、選手のプレー面は勿論、メンタル面なども知る必要があります。

 

朝から練習を見て、昼は事務所に戻って、いわゆる事務作業も行います。契約の時期になれば契約書を作ったり、移籍の手続きも出てきます。週末は関東に足を運び高校生や大学生の試合を見て、選手のレポートやリストを作成。あとは自チームの選手評価もしますしJリーグの他クラブの選手映像を見たり、ワイスカウト(サッカーのスカウティングツール)を見たりと、業務は多岐に渡ります。

 

クラブは昨シーズンから相田健太郎社長が就任して、様々な取り組みを行なっています。昨シーズンは観客数が平均2,000人アップしました。県内の人口減少、少子高齢化が進む中で、成果を出しているんです。新しいことに挑戦していくスタイルなので、ポテンシャルを感じますし、だからこそ僕のような人を選んだのかもしれません。

 

環境面も整っています。スタジアムは山形県総合運動公園の中に位置していますが、敷地内にはクラブハウスや練習場、Bリーグが開催するアリーナもあります。そのほかにも多くのスポーツ施設を持っていて、クラブが指定管理をしています。クラブハウスは6月中旬にリニューアルしました。練習場の真横にあり、トレーニングルームも完備しています。選手にとって申し分ない環境が整いました。あとはサッカー専用スタジアムができれば、さらなる高みを目指せますね。

 

スタジアム構想も少しずつ進んでいます。実現のためには、行政が主体ではなく、クラブだけでやれるくらいのパワーを持ちたいところです。強化部としてクラブに携わる中で、このクラブはもっと大きなクラブになれるポテンシャルがあると強く感じています。

 

とはいえ、今はJ2で見ても、経済規模は真ん中より少し上くらい。J1に上がっても定着は難しいですが、クラブとして中長期的な視点で戦略的な取組みが出来れば必ず上を目指せます。僕がここにいる間は、J1昇格や定着だけではなく、アジアの頂点を目指してやっていくつもりです。

 

サッカーをサッカーで捉えない

僕が仕事をする上で大事にしているのは、サッカーをサッカーで捉えないこと。僕も含め、多くの選手やスタッフは、ずっとサッカー畑で生きてきた人間です。ただ、デジタル化が進んでいる現代社会では、感覚だけではなく理論が必要になってきます。現代社会において、サッカーがどのような立ち位置にあるのか。サッカー界から見た社会ではなく、社会から見たサッカー界という視点を常に持ち、サッカーという枠組みを飛び越えた視点を持ちたいと思っています。

 

選手たちには、クラブや地域への愛着を持ってもらえるようにしたいです。このクラブに居る選手たちは様々な理由で巡り巡って山形に来た選手です。限られた選手としてのキャリアの中で辿り着いたこのモンテディオ山形というクラブ、山形県という地域に対してのロイヤリティを高める為の取組みを会社全体として行なっていきたいと思っています。

 

また、強化部としては、育てて売ることも重要です。昨シーズンまで山形に所属していた坂元達裕は、今季セレッソ大阪に完全移籍しました。移籍金は決して安いものではなかったです。チーム編成を任される立場としてはこういったビジネスも必要ですし、より戦略的にクラブや地域に対して何ができるのかを常に考えなければいけません。

 

特に地方クラブは、過去に引っ張られすぎる傾向があります。でも、過去は変えられないけど、未来は変えられる。昔はこうだった、今まではこうだったという考えを持っていると、新しいことができないんです。時代とともにサッカーは進化しているので、常に考え方や取組みもアップデートしないとこれからの時代は。

 

その中で僕の強みは、海外の常識を取り入れられること。「日本ではそうかもしれないけど、海外だったらこうですよ」と僕なら言えるんです。サッカーの最先端は海外(欧州)ですし、海外には様々な分野においての良い見本が沢山あります。アジアを目指す上で海外の良いものを日本仕様に変えて取り入れていくことも必要だと思っています。自分のように外から来た人間だからこそできることがあるので、今までにない知識や発言を心かげていきたいと思っています。