田中幸太郎(レスリング)が語る、アスリートの存在意義。
高校時代には三冠を達成し、2011年ロンドンで行われたプレ五輪で準優勝するなど、国内外で活躍を見せるレスリング・田中幸太郎。惜しくも今年のリオデジャネイロ五輪への出場はならなかったが、次を見据えて練習に励んでいる。
彼はJOCが行っている就職支援活動「アスナビ」を通して、2013年に阪神酒販株式会社に就職している。選手は企業に所属し、業務をすることで給与をもらいながら選手活動を行っていくことができる。
その中でも彼は選手として出せる価値を、自ら所属企業や社会に還元していくべく、日々考えを巡らせている。
競技を始めた経緯、栄光と挫折を味わった学生時代
――まずは、田中さんのスポーツ経歴から教えてください。
幼稚園の年中くらいから小学校6年生まで、柔道をやっていました。小学4年生からは柔道に加えてレスリングと、実は少しだけサッカーもしていたんです。
――柔道やレスリングは、自分の意志で始めたのでしょうか?
柔道は実家の近くにある大阪の道場でやっていました。当時の私がやんちゃだったこともあって母親が道場にぶちこんだんだと思います(笑)レスリングは父親ができる場所を見つけてきて、柔道の足しになればいいな、という感じで始めました。レスリング1本にしぼったのは中学からです。
――学生時代のレスリングの成績はいかがでしたか。
初めて全国大会で優勝したのは小学6年生の時ですね。中学では、1年生の時は全国大会決勝で負けてしまいましたが、2年生と3年生では優勝しました。高校では2年生の時に3冠(全国高校選抜・インターハイ・国体)を獲りましたが、3年生では怪我があったり、インターハイ決勝で負けたりして結局無冠に終わってしまい、少し不安になりました。その時は「勝つのがあたりまえ」という感覚があったので。
大学では2年生の時にインカレを獲りましたが、3年生の時は怪我で大会に出られず、4年生の時は負けてしまいました。
――学生の頃から怪我が多かったんですね。
そうですね。よく試合前に怪我をしてしまっていました。怪我はつきものなので、みんなそうなんですけどね。
――ひざを手術したこともあるそうですね。
左ひざを2回手術しています。レスリングは構える時、左右どちらかの脚が前に出るので、その分もう片方の脚に負担がかかってしまうということが、競技をやっていく上で絶対にあるんです。負担がかかったところに支障をきたすというのは、よくある話です。
――レスリングの選手は常にテーピングをしている印象がありますが、突き指くらいでは怪我とは言わないですよね。
そうですね。常に突き指をしている感じです。もう指がボキボキで、だんだん関節が太くなってくるんです。(指を曲げながら)この指はもう脱臼していて、じん帯がないので曲がってしまいます。服とかにその指が引っかかった時は「危ない!」ってなります(笑)
夢見た五輪の舞台と届かなかったリオ。
――ロンドン五輪では、金メダルを獲得した米満達弘さんのスパーリングパートナーとして現地に帯同しましたね。
大学4年生の時でした。本当は自分がロンドン五輪に出場したかったんですが、負けてしまって。それでもパートナーとして選んで頂いたので、帯同して一緒にスパーリングをやっていました。
――ロンドン五輪の会場の雰囲気はいかがでしたか?
何もしていないのに、会場の雰囲気にのまれそうになりました。やっぱり五輪の雰囲気は違いましたね。選手が雰囲気に飲まれてしまうというのが、一体どういうことなのか、なんとなく分かりました。
――よく五輪には魔物がいると言いますもんね。
言いますよね。自分がそこで勝負をすると考えたら怖いというか、それこそ本当に魔物がいそうでしたよ。それでも、試合を見ていて、自分もこの舞台に出てみたいなということは感じました。
――昨年12月には、リオデジャネイロ五輪の代表選考会となる日本選手権に出場して、2回戦で敗れてしまいました。負けた後のレスリングに対するモチベーションに変化はありましたか。
昨年6月と12月の日本選手権をレスリング人生のピークと位置づけてやってきた部分があったので、6月に負けた時は、どうしたらいいか分からなくなってしまいました。でも12月に勝てばいいという感情がどこかにあって、それをモチベーションにやっていたんですけど、また負けてしまい「終わった…」と思いました。今はだいぶ落ち着いてきましたけど、まだ大会前の時とは違ったふわふわした感じがあります。
転機となったローシングルの習得
――今までのレスリング人生で一番うれしかったことを教えてください。
世界ジュニアです。大学2年生の時に20歳以下の世界大会に出場して、準優勝しました。決勝では負けてしまったんですけど、すごい自信になりましたし、大学2年生の時のパフォーマンスは今でも良かったと思っています。私の得意技は(※)ローシングルというのですが、いろいろな方に『それでは世界に通用しない」と言われることが多いんですよ。そう言われるたびに、ローシングルで勝つという思いが強くなっていきました。その思いをフルに体現して世界で勝っていけたというのは、一つ自信にはなりましたし、してやったりという感じですね。
※ローシングル:相手の片足を掴んだあとに低姿勢をとり、相手のひざを自分の肩で押す技術。
――世界の選手と戦って勝てたというのが、レスリング人生の中での大きなポイントだったんですね。
目標は五輪にあったので、世界を相手にどう勝つかという目線は常にありました。
――ローシングルが得意になったのはいつからですか?
中学校からです。恩師の浅井努先生という、今は京都八幡高校の教員をされている方に教わりました。その先生はローシングルが得意なわけではなかったんですが、レスリングをいろいろと研究されていて、アメリカのジョン・スミス(ソウル五輪、バルセロナ五輪金メダリスト)というローシングルが得意な選手のことを教えてくれました。彼は体の線が細く、手足が長い体型で当時の私と似ていたので、先生と一緒にビデオを見たりしながら勉強して、真似していました。
――「ローシングルじゃ勝てないよ」と言われても、ジョン・スミスがいたからこそ続けてこられたというところはあるんでしょうか。
カウンターを受けやすいので、特に力のある外人には返されやすいというのは一理ありましたけど、ジョン・スミスという手本があったことは大きかったです。「なんでこいつは勝てるんだ」というのは不思議ではありましたけど。
――ローシングルを習得して、結果はすぐに出ましたか。
動き自体はそんなに難しくなく、当時はそれに対処できる選手も少なかったので、最初はすんなりとローシングルで勝てるようになりました。やっていくうちに警戒されてきましたが、そうなってからはローシングルでどう勝っていくかをより深く考え始めて、どんどんレベルが上がっていったと思います。
結果が出ないもどかしさと戦う
――レスリング人生の中でつらかったことを教えてください。
社会人になってからです。社会人1年目はダメで、2年目くらいから結果が出るんだろうなとどこかで思っていましたが、それでも出なくて。学生時代は1年に1回は何かしらのタイトルを獲っていたので大丈夫だろうという思いはありました。ですが、五輪が絡んだりして、世代をまたいで選手が出場してくる大会になると、やっぱりどこか勝ちきれないことが多かったんです。お金をもらいながらレスリングをしているのに、プロとして結果を残せていないことにはもどかしさがありましたし、会社の役に立てていないという苛立ちはありました。
――お金をもらって働いているという感覚は、普通の社会人にも必要なことだと思いますね。
私がそういう感覚を持っているのは、会社に週2回通って仕事をさせてもらっていることも影響しています。現場を見ながら、いち社員として利益を取ってこないといけないという考えはありました。周りからは選手として特別扱いじゃないですけど、そこまで気にしないで競技に集中してくれればいいとサポートしてくれています。だからこそ、その分競技で絶対に結果を出さないといけないという感情が高まっています。私が会社の営業で利益を上げられない分も、競技で倍くらい取ってくるから大丈夫だ、そこでしっかり返すんだ、と。なので、いざ負けてしまうと何も会社に返せていないということは毎回思います。
選手として、社会人として
――阪神酒販に就職した決め手はなんだったんでしょうか。
レスリングに集中できる環境ということが大きかったですね。それまでも何社か受けてはいましたけど、週5できてくれないとダメとか、週3はきてくれないと厳しいという条件があって。ぎりぎりのところで週3は厳しいな、という身勝手な一線は引いていましたね(笑)
――今も会社に週2回通い続けていますが、そこには何かこだわりがあるのでしょうか。
私が就活をするにあたって、リオデジャネイロ五輪を目指していたので、卒業してから3年間は競技に集中したいと思っていました。競技がメインというのはぶれなかったのですが、社会との接点は絶対に持ち続けておかないといけないというのが、どこかにありました。それで会社にも週2回で、とわがままを言ってやらせてもらうことになりました。
最近、アスリートのセカンドキャリアがどうとか言われていますけど、僕は選手だけを続けていても結局社会では受け入れてもらえないと思うんです。早稲田大学時代に卒業後はばりばり仕事をやっている先輩方を見ていたので、それもかっこいいと思いながら、社会人としての経験も大事だよな、と感じていました。
――五輪でメダルを獲ったとしても、その後のキャリアに苦労する選手はいますよね。
たとえ五輪で金メダルを獲ったとしても、将来の不安はぬぐえないと思います。海外では五輪で金メダルを獲ると一生を保証される国もあります。しかし現状、日本ではそうではない。たとえ金メダリストであっても何らかの形で社会人として働いていかなければなりませんよね。レスリングを通して学んだ事や経験をしっかりと社会に還元していくことが出来るように、競技に打ち込む今のうちから社会からこそ学んでいく事が大切だと思っています。
――会社では、どのようなことを行っているのでしょうか。
営業部にいて、2年目くらいまでは結構営業をまわってやっていたんですけど、やっぱり週2回では業務的に追いつかなかったんですよ。数字について言われるわけではないんですけど、1回お客さんを自分につけても、時間がなくて結局ほかの営業マンに投げることになってしまって。会社としても営業の経験は大切だと、いうことでやらせてもらってはいたんですけど、ちょっと迷惑をかけすぎていると思いました。だったら違うできることを探そうと思い、会社の中にいるアスリートと「阪神酒販アスリートクラブ」を立ち上げて、選手としてできる仕事をしようとしているところです。
――アスリートとしてできる仕事といえば、社内向けの講演会などが一例だと思いますが、そういった形で自分たちにしかできないことを全うしていくことになるんですね。
企業側としても、アスリートをどういうふうに使おうか、という考えはあると思うんですよ。どこで働いてもらおうか、どういうところで会社にメリットを持ってこようか、会社としてやりにくい部分は絶対にあるんです。だからこそ、アスリートは広告としての存在価値だけでなく、自分からもっとこうやりたいというのを言っていかないと意味がないと思います。競技をやっているだけでは、ただのスポンサーになってしまいますからね。メジャーな競技だったらそれでやっていけるとは思いますけど。
――田中さんには、緊張したときの対処法やルーティーンはありますか。
特にこれといったことはないですね。意図的につくらないというのもありますし、それをする余裕がないというのもあります(笑)「ルーティーンを作ってしまうと過去の成功体験の繰り返しで、それ以上のものが出てこない」という話を聞いたことがあるんです。たしかにそうだなと思うところはありますね。場面に応じて緊張している自分と向き合っていくことが重要だと思っています。
――メンタルトレーニングは受けたことがありますか。
1度だけメンタルトレーナーの方にお会いしたことがあります。手法として学ぶことはたくさんあるとは思いますが、毎朝早く起きてきつい練習を積み重ねることで鍛えられるメンタルのほうが、レスリングには重要だと思っています。そういうところでしか鍛えられないメンタルが勝敗を分けることは、格闘技なので絶対に出てきます。
――それでは、レスリング選手としての今後の目標を教えてください。
置かれた役割をしっかり果たしていかないといけないと思っているので、まずは会社に所属している以上、競技で実績をあげていくことです。リオ五輪に出るという目標は果たせなかったですが、直近の全日本選手権で優勝することが会社への恩返しになると思います。とにかく前を向いて、突き詰めてやらないといけないですね。
――今までで一番影響を受けた人を教えてください。
早稲田大学時代に出会ったOBや先輩方ですね。私は大学に入るまでは高校の教師を目指していたのですが、彼らにいろいろな世界を見せてもらって、他のやりたいことをたくさん見つけました。そういった視野を広げてもらったことが私の中では大きかったので、すごく感謝しています。
――大切にしている言葉や、座右の銘はありますか?
「雨が降れば傘を差す。こけたら立ちなはれ」という言葉は好きです。松下幸之助さんの言葉なんですけど、シンプルだし言い回しもいいですよね。でも、その時々で影響を受ける言葉はたくさんあって。自分からそういう言葉を求めて探す時もありますし、パッと言われたことがずっと残っている時もあります。影響を受けている言葉とか、好きな言葉がありすぎて、一番はこれっていうのは言えないですね。まだまだ探していきたい気持ちもありますし、軸をいろいろとぶらしたいんですよ。固執せずにフットワークを軽くしていたいというのはあります。
――最後に、読者にメッセージをお願いします。
こけたら立ちなはれ(笑)いろいろなことにチャレンジしないと成長はないと思うので、皆さんにもどんどん挑戦していってほしいと思います。あとは健康に気をつかって、自分の身体をいたわってくださいね。