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甲子園を目指し審判の道へ。アフリカでの普及にも尽力する小山克仁

2015.10.26 / AZrena編集部

小山克仁

小学生から野球を始めた小山克仁氏は甲子園を目指す球児だったが、惜しくも出場することはできなかった。進学した法政大学で選手としてプレーしていた中、大学3年時より指導者の道を志して、学生コーチへ転身。大学卒業後は仕事をしながらアマチュア野球の審判を始め、東京六大学野球の他、シドニー五輪の決勝戦なども担当してきたという経歴を持ち、今夏の甲子園準決勝でも審判を務めた。そんな小山氏は現在、アフリカ野球の普及・発展のためにも積極的に活動しており、タンザニア野球甲子園の開催に向けて資金の他、実際に現地に行って野球の指導を行っている。

4年間で一緒にプレーした選手のうち、17人がプロ入り

――今は審判としてご活躍されている小山さんですが、元々野球に出会ったきっかけは何だったのでしょうか。

小学校2年生の時に2つ上の兄が始めたことがきっかけで、一緒に少年野球チームに入りました。私が野球を始めた翌年の昭和45年に東海大相模が甲子園で優勝したのですが、その時の三塁手が同じ町内に住んでいたということもあり、憧れてどんどんのめり込んでいきました。高校は法政二高に進学して、そこから硬式野球を始めました。まだ当時はボーイズやシニアは盛んではなかったので、それまでは中学校の軟式野球部でやっていました。

――当時の法政二高は強かったのでしょうか。

強かったですね。私が2年生の時は春の県大会で優勝して、夏は絶対甲子園に出る!と思っていましたが、予選で負けてしまい、結局出場できませんでした。

――そのまま法政大学に進学し、野球を続けられていますが、途中で学生コーチに転身しています。

3年生の時に鴨田勝雄監督(当時)から指導者の道をアドバイスされました。どうしても甲子園に行きたいという想いがあり、元々そういう道を歩みたいとは思っていたので、ノッカーとして関わることにしました。

鴨田監督ご自身も現役の時に自分が選手としてこのままやっていくのは厳しいと判断し、途中で指導者になった人でした。それで自分も同じ道を進んで、別の形で甲子園を目指すために高校の教員採用試験を受けたものの、落ちてしまいました。ろくに勉強もしていなかったですから仕方ないですね(笑)

――選手としてプロになりたいとは思わなかったのでしょうか。

大学に入って周りの選手を見た時に自分には無理だと思いましたね。私が4年間で一緒にプレーした選手のうち、17人がプロ入りしていますから。

――そんなにたくさんプロ入りしたんですか!具体的にはどういった選手と一緒にプレーされていたのでしょうか。

まず、同期には小早川毅彦さん(83年ドラフト2位・広島)。銚子利夫さん(83年ドラフト1位・大洋)。1つ上には田中富生さん(82年ドラフト1位・日本ハム)、木戸克彦さん(82年ドラフト1位・阪神)、西田真二さん(82年ドラフト1位・広島)、2つ上には池田親興さん(83年ドラフト2位・日産自動車→阪神)、川端順さん(83年ドラフト1位・広島)、1つ下には秦真司さん(84年ドラフト2位・ヤクルト)、2つ下には若井基安さん(87年ドラフト2位・日本石油→南海)、4つ下には石井丈裕さん(88年ドラフト2位・プリンスホテル→西武)などがいました。他にもたくさんいますが、どの選手も第一線で活躍した方ばかりです。

――それで現在も勤められている海老名市役所に入ったということですか。

そうです。指導者の道は諦めて入ることにしました。でも働き始めて2年ほど経った時に職場の上司から審判のお誘いを頂いたんです。

小山克仁

――審判をやるきっかけはそこからということですね。お誘い頂いたその方が審判をやっていたのでしょうか。

誘ってくれたのは神奈川県大会の決勝戦で主審を務めるほどの方です。その人から「君の若さで始めれば、甲子園で審判をすることだって夢じゃないぞ!」と言われました。やはりその「甲子園」という言葉に反応した自分がいて、審判を始めることにしました。

――小山さんの甲子園に対する熱い想いが蘇ってきたわけですね。

その熱さが今まで私にずっと審判を続けさせてきました。審判の道はやればやるほど厳しいものです。限界がないですから。極めれば極めるほど、奥が深くなっていきます。そろそろ掴めてきたかな、と感じる頃には体力もなくなってきます。だから私は今が審判としてそろそろ潮時だと思います。

当時はプロ野球OBが審判をやる場合が多かった

――プロ野球の審判をやろうとは思わなかったのでしょうか。

プロの審判の世界はもっと厳しいと思っています。当時はプロ野球OBが審判をやる場合が多かったというのがあって、自分がやることは考えなかったです。技術的にはいけるかな、と思った時期もありますが、プロ審判の皆さんと交流を深めれば深めるほど、難しいことがわかってきました。

――プロの審判になるには厳しい条件もあるんですか?

今は、「NPB主催の審判学校で合格しないと採用されない」と、規定が変わりましたが、私が審判を始めた頃は身長175㎝以上で、その上で採用試験などを受験しないとプロ野球の審判にはなれませんでした。でもあくまで私は甲子園に行きたかったので、それは重要な問題ではなかったです。28歳の時に母校・法政大学のOBの方から声がかかって東京六大学野球の審判をやるようになってから、私の審判員人生の運命が大きく変わりました。その後、都市対抗や甲子園大会、五輪などの国際大会に行く機会も増えていきました。世界のあらゆる大会に行ったと言っていいかもしれません。

――アマチュア野球の審判になるためには何か資格を取らなくてはいけないのでしょうか。

今までは特になかったのですが、ちょうど今年の4月から審判ライセンス制度ができました。なぜライセンス制度が必要になったかというと、1つには審判界の高齢化があります。若い世代が審判にいないといったアンケート結果から、若手の育成を図る必要があるということです。2つ目には、全国には素晴らしい技術を持った審判の方がたくさんいるということです。その方たちが、頑張れば都市対抗野球や全日本大学選手権、そして、国際大会の舞台に立てるようにしなければ、若い世代が夢を持って取り組むことができない。そこでライセンスを作ることでそういった人々にも公平にチャンスができる仕組みを作りました。

野球場

――小山さんが審判をしてきて、今まで一番印象に残っている試合を教えてください。

十数年前の東京六大学の秋季リーグ戦、立教大学の優勝がかかった試合は印象的でした。対戦相手は東京大学です。9回2アウトになってから立教はバッテリーを交代させ、秋季リーグ戦中は、調子が上がらず登板機会のなかった4年生エースを出しました。その投手は三球三振を奪いましたが、ストライクスリーのコールをした時に審判をしていて、初めて涙がこぼれそうになったのを覚えています。このアウトで立教大学が優勝をしました。審判冥利に尽きる試合でした。それ以外は基本的にミスをした試合しか覚えていないんですよ(笑)

――やはりジャッジをミスすることもありますか。

毎試合あるわけではありませんが、細かい部分でのミスは過去の試合であります(笑)あの一球が流れを変えてしまったなと感じる時もあります。例えばある大会の決勝戦の時です。テレビやスタンドのお客さんは誰も気付かないですが、その場ではどちらとも判定できるようなプレーで、後からビデオで見返した時にこれはダメだな、と思ったことはあります。選手は分かっていたと思いますがね。

小山克仁

アフリカにおける野球の普及活動

――小山さんは審判としてご活躍する傍らで、タンザニアでの野球の普及活動にも関われています。実際に現地に行ってどのようなことを感じましたか。

今年の夏の甲子園でお父さんがナイジェリア人である、オコエ瑠偉選手(関東一高→楽天・ドラフト1位指名)の活躍が話題になったように、アフリカ人は身体的なポテンシャルは高いです。体も大きいですからね。でも私がタンザニア、ケニアに行って実際に子供に野球を教えてみて感じたのは、彼らはしっかりとした教育を受けておらず、躾もされていないということです。学校でも体育や道徳の授業がないことに驚きました。

――そうなると野球そのものを教えるのが大変ですね。そもそも野球をタンザニアで普及させるきっかけというのはどういった経緯があったのでしょうか。

2012年1月から「アフリカ野球友の会」代表の友成晋也さんがタンザニアに野球を伝えたことからタンザニア野球はスタートしています。その後、友成さんと共に青年海外協力隊員の皆さんがタンザニア各地に野球を伝えて普及し始めました。実際にタンザニアのセカンダリースクールの校長先生も教育に役立つということで賛同してくれたところから、国やスポーツ省を巻き込んだ動きになっていきました。

小山克仁

野球は下手な子に必ず機会が回ってくる

――具体的に野球のどういったところが教育にいいと判断されたのでしょうか。

競技を通して規律ということを学び、試合をする相手を尊敬し、正義の精神を学べたりするというのがあるでしょう。プレーを通して責任感の大切さを学ばせたいともおっしゃっていました。そして、野球は9人全員が公平に打席に立つ機会があります。1試合が終わるまで27アウトなので、最低でも1人3回は打つチャンスがあるわけです。今まで公平に扱われたことがない彼らにとって、誰にでもヒーローになれるチャンスがある、というのは魅力に感じたのではないでしょうか。

例えばサッカーは下手な子にはボールが回って来ないで終わってしまいます。でも野球は下手な子に必ず機会が回ってくるので、チームが勝つためにうまい子が教えたりするんです。そうやって互いに教え助け合う部分が野球のいいところだと話していました。守備でゴロが来た時は、まずは自分が捕球して、その上でチームメイトに投げなければアウトが成立しません。それも捕る側が捕りやすいボールを投げる必要があります。捕る側はしっかり捕球し、ベースを踏まなければなりません。そのように役割分担がされていて、責任を果たさないといけないのが野球ですからね。

――相手のことを思いやる精神を持ってプレーをすることが大切なんですね。その気持ちに応える=責任を果たすということでしょうか。

そうですね。特に日本人の規律正しく、プレーに徹することができるというところは世界で評価されていて、それがタンザニアでも日本野球を広めることにも繋がっています。日本では試合前に整列して礼をすることが当たり前になっています。一方今までタンザニアの子供達はそういった道徳や規律を習っておらず、集合の時もダラダラしていたり、時間に遅れたり、平気でしていました。一番初めに現地で強化練習をした日は設定した集合時間の1時間後にようやく集まりました。当然すぐに説教ですよ(笑)野球の規則で一番初めにできたのは時間厳守というルールで、全員揃わないと試合が始められないからだと話しました。

ただ、それで次の日から集合の15分前に来るように指示したところ、30分前には集まっていたのが彼らのいい部分です。以降ずっと続いているようです。私が行った時はU18W杯アフリカ予選大会に出場するためのタンザニアナショナルチームの強化合宿中で、短期間しか一緒にいませんでしたが、最終的に30分前に集まって、グラウンドの準備をするようにまで選手達は成長しました。

――小山さんがしっかりその重要性を伝えたからこそ、変わっていったわけですね。

当初タンザニアの野球では規律(discipline)が重んじられていました。私はそれに加えて、尊敬(respect)と正義(justice)が大切だということを伝えました。以降タンザニアでは、規律・尊敬・正義の3つの精神が野球の基礎となる考え方になっています。

小山克仁

――しかし、野球を広めるために先駆けて行った方の後に続く人を探していかないと根付かせることは難しいのではないでしょうか。

たしかに継続的に送りこまないといけないわけですが、現地に野球を広めることに対しての確固たる意志を持った人でないと継げませんよね。

――行ったことがない人からするとアフリカは壮大な草原が広がっていて、たくさん動物がいることをイメージしてしまいます。

そんなことはないですね。私がいた場所はタンザニアで大都市・ダルエスサラームだったので、そんな感じはありません。高層ビルがもたくさん建っていました。

――小山さんも現地に行って野球を教えたということですが、言葉の通じない子供に何か教えるのは大変なことだと思います。

彼らは英語を中学生から学び始めているのですが、スクール内では英語しか話せないエリアもあり、英語は上手に話しています。中にはスワヒリ語しか話さない子もいましたが、野球の用語は英語ですから、問題はなかったと思います。それ以前に、青年海外協力隊員の皆さんが現地で野球の基本を教えていますので、日本野球が根付いています。

――アフリカ系の選手は他の競技で身体能力の高さを発揮しているので、実際に野球が浸透したらどんなプレーをするのか見てみたいです。

そうですね。今回のU-18野球W杯に出た南アフリカの選手は白人が中心でしたが、黒人選手とイスラム系の選手も予選の時の9人のレギュラーには入っていました。

一方で予選に出たウガンダ、ケニア、タンザニアなどの選手は全員黒人選手です。いつか黒人のチームが野球で世界を驚かせるところを見てみたいものです。

小山克仁

アフリカ野球友の会・友成さん(右)と

――そのために小山さんは現在、タンザニアで野球を広めるための資金集めをしているそうですね。

「アフリカ野球友の会」が窓口となって、タンザニア甲子園大会を開催するために130万円を集めているところです。今現地で野球をやっているチームは8つあるのですが、遠いところは約20時間もかけて大会のためにダルエスサラームに来ることになります。そのための渡航費や宿泊施設の費用が必要なんです。

――今後アフリカで野球を広めていくためにどのようなことが必要だと思いますか。

まずは野球を伝えられる人材を確保することが必要です。そのためには継続的な財政支援が求められるわけですが、寄付金だけでは限界があります。そうなるとこれだけ野球が盛んな日本も国策にして支援していくべきではないでしょうか。日本は今、世界野球ソフトボール連盟(WBSC)野球世界ランキング1位の国ですから、普及発展にも貢献していく義務があるはずです。アフリカで野球の普及に貢献しているのは日本の青年海外協力隊員です。その後の技術支援にMLBがアフリカ各地でのクリニックを開催しています。日本の野球界もアジア以外の世界への普及活動にも支援の輪を広めていければと思います。

――日本は競技人口も多く、野球の強豪国なわけですから、もっと積極的に支援していくべきだと思います。

野球の競技人口は世界で3500万人(登録者数では1200万人)程度と言われていますが、そのうち500万人は日本人だと言われています。また、世界で1500人以上が野球をプレーしている国は、20か国しかないのが現状です。

小山克仁

――それでも実際に日本人もアフリカなどの現地に行って普及活動を行っている方がいます。現在はどういった方が行っていることが多いのでしょうか。

青年海外協力隊員や現地の駐在員さんといった基本的にアマチュアの人達が各地で野球のタネを蒔いています。昔から五輪などの世界の舞台で戦ってきたアマチュアの人達は野球をもっと海外に広めなければならないことを知っています。

シドニー五輪の時にIBAF(国際野球連盟)の副会長だった故・山本英一郎さんも南アフリカの出場を見て、今後アフリカに野球を普及させていく必要性をお話していました。そうでなければ五輪競技から外れてしまうとその当時から予測していたということです。

――そして北京五輪を最後についに野球は五輪の正式種目から外れています。

結局アフリカ勢もシドニー五輪に南アフリカが出場したのが最初で最後で、以降は五輪の舞台から姿を消しています。他の地域との予選で勝ち上がることができないからです。唯一南アフリカが出場したシドニー五輪でのアメリカ戦で、私は二塁審をしていました。試合は1-8でアメリカが勝ったのですが、南アフリカの1点は先制点で、しかもすごい当たりのホームランだったんです。アメリカのピッチャーはメジャーリーグでも投げているような選手で全球ストレート勝負でした。格下相手には変化球を投げないと決めていたのだと思います。アメリカはそういう野球をしてくるのだと改めて思いました。

――でもその1本のホームランにアフリカ野球のポテンシャルを感じたのではないでしょうか。

その通りです。南アフリカのチームにも3Aの選手が含まれていましたので、おそらく直球は打てると思います。でも変化球は慣れていないですし、それがメジャーリーグのピッチャーであればなおさら打てるわけがないです。格下が相手の時は変化球を投げないというのが、国際大会における暗黙のルールということです。

――しかし審判をしていて、それが守られない時もあると思います。

アジア大会の韓国対フィリピンの試合で、韓国のピッチャーが決め球に変化球を投げた時、球審だった私は「ストレート、オンリー!ハンディキャップ!」とキャッチャーに注意したことがあります(笑)それで次からピッチャーにはストレートだけを要求するようになりました。結局そうしないと試合が面白くなくなってしまいますから。

――審判でもそこは言うんですね!

言いますよ。タンザニアでも「バッターオンリー!」とずっと言っていました。キャッチャーの送球よりもランナーの足の方が速いので、みんな盗塁するんです。小学生の野球と同じですね。そうするとピッチャーは牽制を投げたがるのですが、試合が進まなくなってしまうので、「打者に投げなさい!」と叫んで注意していました。

――とりわけアフリカの選手は足も速そうです。

それが体育もなく、トレーニングをしているわけではないので、意外と速くないです。でも子ども時から教えてトレーニングをすれば、オコエくんのようにポテンシャルの高い選手はたくさんいるはずですよ。実際オコエくんも生で見た時は跳んでいるようでした。本当に速くて驚きました。今タンザニアに野球を根付かせたとしたら、数十年後、日本は勝てなくなっていると思います。いつまでも日本が強いと思っていてはいけないんです。人格形成にスポーツは欠かせません。一人で人格を形成するのは難しく、人は他人がいるから成長できるんです。強いライバルがいるから競い合ってうまくなるものです。日本も自らライバル国をつくる気持ちでアフリカに支援していかないといけません。

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