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遠山健太は、なぜプロゴルファーからトレーナーへ転身したのか?

2015.10.29 / 森 大樹

遠山健太

プロゴルファーを目指すも、怪我で断念

海外で生まれ育ち、ご自身はプロゴルファーを目指してプレーを続けられていました遠山健太氏は怪我でその夢を断念せざるを得なくなる。そして、それを機に、同じような境遇のゴルファーを救いたい、ということからトレーナーに転身。現在は合同会社ウィンゲートを立ち上げ、日本のスポーツにおける競技力を草の根から上げていくための取り組みをされている。

 

-遠山さんの今の活動について教えてください。

合同会社ウィンゲートを経営しており、今年で6期目になります。主なビジネスパートナーはフィットネスクラブで、(株)ティップネスさん、(株)東急スポーツオアシスさん、(株)ルネサンスさんの3社と業務委託契約をさせて頂いており、登録しているトレーナーに業務を再委託という形で、指導をしに行ってもらっています。

現在は私がトレーナーとして現場に出ることは少なくなってきていて、経営の方が7〜8割を占めるようになっています。

 

-どこも大手のフィットネスクラブですね。

彼らはアスリートではなく、一般の人を対象としているため、指導力だけでなく、営業能力、イベント立ち上げ、マーケティング能力なども問われています。

「売れるトレーナー」は毎回報酬を振り込む度に本当によくやってくれている、と感心します。一方で自分での売り上げがゼロの人もいます。そういった人をどう売れるように育成していくのか、ということも大切なので、定期的なスタッフ研修なども行っています。

 

-どのくらいの人数のトレーナーさんを抱えているのでしょうか。

登録トレーナーは100人近くいますが、社員は私1人です。いい意味でうちを早く辞めてほしいと思っています。辞めるということは、独り立ちできる、という事を指していますし、将来的には起業も考えてもらいたいですね。

あとはトレーナーの仕事としてスポーツの専門学校に講師として行ってもらうこともあります。

 

-それでは今までの遠山さんのスポーツ経歴を教えてください。

出身競技はゴルフです。そういうとお金持ちのように思われるかもしれませんが、僕は元々アメリカ生まれの台湾育ちで、特にアメリカでは1ラウンド回るのに9ドルもかかりませんから、庶民的なスポーツだったと言えるでしょう。今日本のツアーでは韓国勢が活躍していますが、当時は台湾勢もかなり強かったので、身近なスポーツでした。近所にプロ選手が住んでいたということもあって、よく練習に行っていましたね。将来の夢はプロゴルファーでした。

 

-ゴルフを始めるきっかけを教えてください。

小学2年生の時でした。父がゴルフ好きで、衛星放送で全米オープンを観ていました。当時帝王と呼ばれていたジャック・ニクラウス選手が下馬評通り勝つと思われていたのですが、最終日に青木功さんと激しいデッドヒートを繰り広げていました。それに影響を受けてゴルフを始めてみたいと父に言い、短いゴルフクラブを買ってもらって、一緒に練習していました。

ただ、親の方針でいろいろなスポーツをする機会はありましたね。小学校3年生から5年生の間、日本に一時帰国していた時は野球やサッカーをやっていましたし、台湾に戻ってからの小学校5、6年時にはソフトボールをしました。そして中学生からは日本人学校に通っていたのですが、人数が少ないことから剣道かバレーボールしか選択肢がありませんでした。というのも派遣されてくる先生が教えられる競技しかできないんです。

 

-選択肢が2つしかないのは厳しいですね。

バレーボールは女子がほとんどだったので、仕方なく剣道をすることにしました。そこできつい稽古を受けて、地獄のような日々を送ったので、剣道経験者とは話が合います(笑)でもおかげ様で体力の基礎はできたと思います。

その後はアメリカンスクールに通うことになります。そこでアメリカのシーズン制による部活に触れ、日本の文化を維持しながらいろいろなスポーツを経験できるようにしていきたいと考えるようになりました。

その間も学校外でゴルフは続けており、アメリカの大学に進学、卒業後はお金を貯めるために台湾で一年間母校の日本人学校で英語の講師を務めた後に、日本へ戻り、京都のゴルフ場に住み込みでゴルフ研修生の生活をスタートさせました。

 

-そこからゴルフのプロを目指すための日々が始まったわけですね。

今は仕組みも変わりましたが、当時のプロテストは予備予選が2次まで、本戦は5次まで選考がありました。

 

-そんなにたくさん勝ち上がる必要があるんですか!

しかも私がいたゴルフ場の会社は研修生の人数が多く、全員が予選に出られるわけではありませんでした。出るためにゴルフ場の支配人の推薦を得る必要があるんです。その試合は雪の中で行われたので忘れもしません。打つと辺り一面雪なので、ボールが見えないんですよ(笑)そこは勝ち上がりましたが、結局その次の予選で肩の怪我の影響もあって、良い結果を残すことが出来ませんでした。僕みたいに怪我で悩む人のためになりたいと思ったことが今のトレーナーの仕事を始めるきっかけになっています。

研修生として2年弱活動していましたが、本当に様々なことを経験しましたね。

 

-具体的にはどういったことを経験したのでしょうか。

 

京都は盆地なので季節が夏か冬しかないんです。特に冬は本当に寒くなります。そんな中、研修生5人は自分達で住めるように改造した小屋に住んでいました。小屋の天井には足跡が付いているんです。要するにどこかの足場で使っていたようなベニヤ板に近い木材で組み立てただけの小屋ということです。そこに暖房器具を持ち込み、プロを夢見て頑張っていました。

一度猿の集団に小屋の周りを占拠されたことがありましたね(笑)山の中なので、猿、イノシシ、イタチなどは当たり前に出ます。ちょうど冬前で食料がない時期だったのだと思います。私達は小屋に食料を持ち込んでいるので、それを嗅ぎつけて、狙われたということです。

 

-囲まれていることを知った時は驚きますよね。

初めに気が付いたのは僕で、二階の窓を叩く音で目が覚めました。それもかなり激しく叩くので、何事かと思って外を見ると猿がいました。野生の猿は危険なので、早朝勤務のグリーンキーパーの人達に追い払ってもらいました。

 

-本当に山の中なんですね。

夜になれば外灯もないので真っ暗です。練習場から小屋へ帰る時は懐中電灯で照らしながら歩いていました。ゴルフ場までの道のりにぼたん鍋の店がいくつかあったので、襲われたことはないですが、やはりイノシシも出るのでしょう。

夏場は何もしなくても朝起きると小屋の明かりに寄ってきた、カブトムシやクワガタが大量に採れました。それをゴルフ場に来たお客さんに売っていました(笑)慣れてくると予約が入ったりもします!給与も高くないので、ボールなどを購入するための我々の重要な資金源でした。

 

-怪我でゴルフの道を諦めた後、趣味としてプレーをしたいとは思わないのでしょうか。

実は私も今またゴルフを始めたいと思っています。…そんな時間はなかなか取れないのですが(笑)一度研修生同士で同窓会も兼ねてゴルフをしましたが、すごく楽しかったです!

研修生時代は戦略的にラウンドをしていましたが、今は楽しさだけを追求してプレーしています。皆プロを目指してやっていた仲間ですから、飛距離を出してバーティーを奪える反面、同じくらいOBも打っていましたね。それでもとにかく楽しくて、やはり私にとってゴルフは趣味でやるものだと実感しました(笑)

 

様々な偶然を積み重ね、トレーナーとしての道を広げる

-そしてゴルフ選手からトレーナーの道に進んでいます。

ゴルファーを目指していたので、トレーナーになるのは遅かったんです。専門学校には25〜27歳の時に通っていました。学生生活を入れるとこの業界は16年目ということになります。

 

-それまで選手として活動している時には体のケアなどの勉強をすることはなかったのですか。

そもそもケアをするという文化がありませんでした。トレーニングといえばみんなで腕立て伏せをしたり、朝走りに行ったり、ただひたすら打ち込んだりしていました。その打ち込みが怪我の原因になっていったわけです。アイシングをすることすら知りませんでしたからね。剣道部時代に水を飲まずに練習していたのもそうですが、一歩間違えれば本当に危なかったと思います。

 

-日本にはとにかく数をこなせばいいという風潮がある反面、体の正しいトレーニング方法やケアについては遅れているように思います。

今はトレーニングやケアといっても様々な方法があります。ただ、例えば一般的な腰痛は運動療法で改善することができます。例えばストレッチと有酸素運動ですね。正直私もそのことを現役時代に知っておきたかったです。

でも結果的に私はプロゴルファーにならずに、トレーナーの道に進んでよかったと思っています。ゴルフはプロ人数が多い上に賞金ランキング上位60位ほどの選手以外は、競技だけで生活することは難しいんです。最近はプロテストを受けなくても、大会に出場することができる仕組みができているので、なおさらです。

遠山健太

 

-遠山さんは資格をいくつかお持ちですね。

 

まず、トレーナーを目指す上で取得を目指したのが、日本体育協会公認のアスレティックトレーナー資格です。そのために専門学校に入りました。学校の授業の中にウェイトトレーニングも含まれていたのですが、私にはそれが合っていたようで、フィジカルコーチという選択肢に興味を持ち始めることになります。

しかし、専門学校だけでその分野の知識を極めることは難しいと思い、いろいろ調べていると東海大学スポーツ医科学研究所で人を募集しているということが分かりました。そこの(※)有賀誠司先生が学内外を問わず、面接を行った上で勉強会を開き、大学の各部活にフィジカルコーチを送り込むという取り組みを始めようとしていたので、私も受けに行って、活動させて頂けることになりました。有賀先生は私達に研修員医という肩書きをくださり、私は東海大学バスケットボール部のフィジカルコーチとして入ることになります。

※有賀誠司氏:東海大学スポーツ医科学研究所教授。ご自身も現役時代はやり投げ、パワーリフティング、ボディビル選手としてご活躍、国内外でタイトルを獲得した。これまで様々な競技の日本代表チーム・選手のトレーニングを指導している。

 

-東海大学自体に所縁のない人を入れて取り組みを行うというのはなかなか大胆ですね。

先生も大胆な試みをしたと思います。当時有賀先生はアメリカのトレーニング資格を発行団体である日本ストレングス&コンディショニング協会(NSCA)の編集委員もされていました。そこの資格には4年制大学を卒業していることを要し、競技者を育成するための「認定ストレングス&コンディショニングスペシャリスト資格(CSCS)」と一般人に指導する向けの「認定パーソナルトレーナー資格(CPT)」と2つあるのですが、私はアスリートを指導したかったので、CSCSを取得することにしました。受験にあたっては有賀先生が勉強会を開いてくださったおかげで、何とか1点差で危なかったのですが、合格することができました(笑)

 

-ギリギリじゃないですか!

でもその1点が私にとっての大きなターニングポイントになります。資格を取得した翌年の2003年に私は生活が苦しくなって、トレーナーを辞めようと考える時期が訪れます。東海大学での指導はボランティアで、しかも遠いので交通費がかなりかかります。普段はフィットネスクラブでアルバイトをして、その給料が交通費に消えていくという状態で、あとは貯金を切り崩して生活をしていました。

遠山健太

現在は専門学校などでも講師を務める遠山さん

 

-その中でも通い続けたのはそれだけ遠山さんに情熱があったということですね。

その状況を有賀先生に相談したところ、国立スポーツ科学センターのトレーニング体育館で人の募集があるので、受けてみてくださいと言われました。ただ、CSCSを持っていないと推薦ができないということだったので、もしあの時資格試験に落ちていたら今の僕はなかったかもしれません。CSCSの受講資格として救急法の資格を取る必要がありました。しかし試験が迫っており、救急法を受講できるチャンスは1回しかなく、定員が決まっているため、抽選でした。でも運良く受講票が来たんです!本当によかったです。

 

-様々な偶然が積み重なってチャンスを得たということですね。

常々有賀先生からはこの仕事は始めのうちは厳しいけれど、軌道に乗ればどんどん仕事が来るようになるので、しばらくの間は辛抱してくださいと言われていました。実際に非常勤ですが、国立スポーツ科学センターで働き始めると、早速全日本スキー連盟から仕事依頼の要望があって、フリースタイルスキーの代表チームに付くことになり、強化に携わることになりました。他にも日本工学院八王子専門学校から非常勤講師の話が来たりして、ようやく人並み以上の収入を得られるようになっていきました。

遠山健太

 

-トレーナーとしての道が一気に広がってきたという感じですね。

有賀先生は僕がそうやって4年間、苦労をしながら通っていたことを見ていてくださったのだと思います。貧乏しながら週7日行っている時もありました。バスケットボール部から必要とされているというのも大きかったです。ヘッドコーチの陸川監督は非常にトレーニングに理解のある方で、「遠山さん、ウェイトトレーニングの日を先に決めてください。その後に私の練習メニューを考えます」と言ってくださるんです。そんなにトレーニングに理解のある指導者の方は当時珍しかったと思います。まだ僕が入った当時、東海大学は関東大学リーグ2部にいて、陸川監督は就任2年目でした。僕はバスケットボール部が1部に昇格するまでの4年間を見させて頂きました。東海大学は僕が辞めた次の年、陸川監督就任5年目でインカレチャンピオン(大学日本一)にまで登り詰めています。

 

-トレーニングの重要さを理解されている指導者の方が結果を残すと、トレーナーとしてもやりがいがありますね!

そして現在東海大学はリーグ戦3連覇中、しかも前のシーズンは史上初の全勝優勝をしています。インカレは決勝で筑波大学に敗れたものの、素晴らしい成績を残しています。

 

-陸川監督はすごく優秀な指導者の方なんですね。

人の育て方がうまくて、しかもそれを上手に仕組み化しています。彼が指導した選手達の何人かは東海大学系列や他の高校で指導者になっていて、陸川さんに教えてもらったことを彼らなりに教えているんです。そうすると大学に上がってきてからも戦略を早い段階で理解できるでしょう。私の指導者としての考え方もそれを参考にしていて、学生時代に私が教えた人達が卒業して、今後は下に入ってきた人を育てていくという形を取っています。だから今私が直々に教えることは少なくて済むことになります。

 

【後編】へ続く