スポーツビジネス最前線を走り続けてきた半田裕が語る、業界で生き抜くための5つの要素

2016.10.31 森 大樹

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2011年にスポーツ基本法が変わり、スポーツ庁はいずれスポーツ省になって文科省から離れ、国におけるスポーツの仕組みは大きく変わると思っています。スポーツ=体育ではなくなります。

それに伴い、ビジネスとしてのスポーツも脚光を浴びることになるでしょう。その中でスポーツ界のいい部分をきちんとまとめ、新しい日本のスポーツ界を創造する人を僕は育てたいんです。(OSS株式会社代表取締役/バンタンスポーツアカデミー講師 半田 裕)

 

長きに渡って、国内外のスポーツビジネスの第一線で活躍してきた日本人の1人、半田裕氏。半田氏は世界的なアスリートマネジメント会社・IMGで多くの著名選手を担当した他、アディダス・ジャパン創設メンバーとして日韓サッカーW杯に携わりました。

それ以降はナイキ・ジャパン、ジャパン・スポーツ・マーケティング取締役を経て、2009年にOffice Strategic Service株式会社を設立。現在は複数のスポーツ関連企業の事業コンサルティングを行いながら、バンタンスポーツアカデミーにおいて、明日のスポーツ界を担う若者に教鞭を振っています。

スポーツビジネスの最先端を走り続けてきた半田氏に東京五輪を見据えたこれからのスポーツ業界、選手のキャリア形成、今まで関わってきた選手とのエピソードなどを伺っていきます。

何気なく誘われたアメフトがスポーツ界への道を開く。

私はプレーヤーとしてはハンドボールとアメリカンフットボールをメインでやっていました。

アメフトは社会人になってから、無理やり先輩にチームに入れられたんですけどね。

その先輩がチームの幹部だったので、同時に運営の方も手伝うことになりました。そこから28歳で日本社会人アメリカンフットボール協会(Xリーグ)の常務理事になり、それ以降13年間社会人として働きながら、ボランティアで務めていました。

協会ではマーケティングについての知識を活かせるようなことを頼まれたほか、プログラムや日程の作成、グラウンド確保など様々な協会の仕事をやるようになっていきました。…いつの間にか僕を誘った先輩は転勤でいなくなっていましたが(笑)

結局これが僕のスポーツに運営側として関わるようになったきっかけなんですよ。本業ではないところから、本当にたまたま広がっていっただけのことです。

でも、逆に僕が「人とのご縁を大切にしなさい」と言っているのはそういうことが起き得るからなんです。

僕が関わるようになった当時、駒沢第2競技場での社会人アメフトの試合には観客が500~1000人程度しか入っていませんでした。

でも、半ば素人の僕が観ても面白い試合をしていたので、これはもったいないと。そこで、前回の東京五輪に使われたその施設の古い音響から、試しに会場に音楽をかけてみたんです。他にもプログラムのデザイン変更や、回数券を作ってみると人が増えていきました。初めはやらされていたけど、そうしたらだんだん僕も楽しくなってきて。

そういった小さいことを積み重ねていって人が入るようになり、最終的に東京ドームでも開催できるようになりました。

僕から言わせれば文化祭も、駒沢第2の試合も、東京ドームの試合も、サッカーW杯も同じですよ。そして、その根本には“どうせやるならもっと楽しくやりたい”という、誰もが同じように持っているはずの気持ちがありました。

新卒では食品メーカーへ。スポーツ界の門を叩いたのは…?

僕は新卒でネスレに入ったのですが、26歳の頃、雑誌・POPEYEで初めてスポーツをビジネスにしている会社があることを知りました。IMGやジャック坂崎さん(トヨタカップ、フェドカップ、世界陸上開催実現に携わったスポーツマーケティングの第一人者)の会社などが載っており、こんな楽しいことをして、給料もらっている人がいるということをその時初めて知りました。ただ、この時点ではただの情報でしかなく、特に何か考えていたわけはありません。

でもいつからか食品メーカーとアメフトという全く畑違いの場所でやり続けることに疑問を持つようになっていたんです。

できればIMGのような会社にいながら、アメフト協会の仕事ができるのならその方が親和性も高そうだと。

では、その頃から何をしたかというと、とにかく「IMGを知っていますか?」と人に聞きました。インターネットも発達しておらず、僕の中でのIMGについての知識はPOPEYEで見た情報のみですから。

でも、ある日IMGを知っている人と出会い、紹介してもらうことができました。ちょうどその時IMGはIVYリーグ(アメリカ名門大学のアメフトリーグ)選抜と日本学生選抜の試合を行いたかったようで、日本でのアメフト試合開催についてノウハウを求めていました。僕はアメフト協会でまさにそこに関わってきていたので、IMGに入れることになりました。

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誰もが知る、あの超一流選手の担当に。

IMGでは自分が担当する選手が日本に来た時の滞在中のスケジュール調整・同行・空港までの送り迎えなどは全て任されることになります。

ナディア・コマネチが日本に来た時には「コマネチ!コマネチ!」のネタで有名なビートたけしさんと会わせたこともあります(笑)

アイルトン・セナがヘルメットを日本のメーカー・SHOEIと契約していた時は、一旦現物がIMGの事務所に送られてきていました。それで中身を確認して、セナが手にする前に被ってみたこともあります。

IMGでは企画書作成、営業、契約、来日した選手のアテンドまで、すべて自分がワンストップで行うんです。

同時に選手やチームに関する数字を背負うことになります。1年間の売り上げ目標があって、2億〜2億5000万円ほどのノルマが設定されていたはずです。だから数字を達成することへの厳しさはありました。そのせいか、実際僕が8年間所属していた中でも20〜30人は辞めています。

年1回副社長と面談があるのですが、その時に「半田くんいくら欲しいの?」と聞かれるんですよ。額に応じてノルマ設定されると考えると怖いですよね(笑)

とはいえ、選手も複数年で契約している人もいますし、IMGでしか売れないビッグネームもいるので、クライアントに対して強い立場でいられることもあります。

セナに至っては1億円以下の案件はすべて断ることになっていました。結局そのくらいの金額になってくるとCM撮影のための数日間の拘束など、選手にやってもらう内容にそこまで差がないからです。

逆に売れない選手もいます。そこの感覚はある程度分かるようになりました。今は選手のマネジメントについて志のある若い人が増えていますが、そんな簡単にお金に変えることはできないということだけは言えます。

日韓W杯を見据え、アディダス・ジャパンへ。

サッカーの仕事も増えていく中でクーバーコーチングのトム・バイヤーと親しくなりました。そのトムからアディダスがデサントとの契約が切れたタイミングで、「アディダス・ジャパン」を立てるということを教えてもらいました。そして、その代表がトムの友達であるクリストフ・ベズで、人を探していると言われたんですよ。

それがちょうど日本がサッカーW杯初出場を決めたフランス大会前年の1997年であり、2002年の日本開催も決まっていたため、まだサッカーはこれから伸びると思いました。

トムを通してクリストフ・ベズと会い、簡単なレジュメの提出と条件を提示したら、どんどん話は進んでいきました。でも最後にベズからどうしても会ってほしい人がいる、と。

それがロベルト・ルイ・ドレフィスでした。全世界のアディダスのトップで、たまたま東京に来ていたんです。

真夏の暑い日、銀座のホテルにスーツでネクタイを締めて行ったら、現れたのはヨレヨレのアディダスのポロシャツを着た人物。紛れもない、彼こそがロベルト・ルイ・ドレフィスでした。結局その場で2、3質問に答えただけで、合格しました(笑)その時点では、外からアディダス・ジャパンに入った日本人は僕以外1人もいないです。

そこから2002年の日韓W杯までは怒涛ですよ。1998年には長野五輪もありましたし、あっという間でした。

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迫り来る期限と巨大化する組織を作り上げる中で。

仕事の密度の絶対的な比較でいうと、IMGに入って4年間でネスレ8年分の仕事を、アディダスの2年間でIMG8年分の仕事をしたくらいのスピード感でした。2002年という期限が決まっていて、それをずらせないというプレッシャーもあるわけです。

加えて僕1人だったのを最終的に600人になる組織にまで作り上げ、チームとして進めていく必要がありました。これらは面白かったと同時にめちゃくちゃしんどかったです。

そんな中でサッカー日本代表のスポンサーを僕とベズさんで獲ってからはもう怖いものはなかったです。W杯と日本代表両方のスポンサーになっているのはアディダスだけなんですから、持っている権利のパワーは物凄いものがありました。

サッカーW杯開催国の代表はずっと大会自体のスポンサーでもあるアディダスと契約しているという不文律もあったので、それを達成した日本代表との契約は特に印象的で、僕にとっても大きな仕事の1つでした。

 

ナイキでグローバルな視点でのスポーツマーケティングを

日韓W杯が終わった後、僕はアディダスで140日休みが溜まっていたんですよ(笑)そんなに休んだら、もはや辞めるのと同じだと思ったので、ベズ社長からは休職でと勧められましたが、一旦辞めさせてもらいました。

休みに入り、家族と旅行に出かけたりしている中で、ナイキからのアプローチがあったんです。正直アメリカの会社がフットボールをやりたいなんて…とどこかでバカにしていました。

でも最終的にアメリカのナイキ本社に行った時に会ったのはヨーロッパ人が多く、フットボールの話も普通にできるし、IMG時代の知り合いもいたりして、何か相性が良い感じがしたんです。『フットボールで世界No.1になりたい』とはっきり言っていましたし、この人達となら面白いことができそうだと思ったので、最後はブランドというわけではなく、この人たちと働きたいと言う思いが強くなり入ることにしました。アディダスをやめてから3ヶ月後のことです。

ナイキではかなりの日数海外に行っており、世界中のナイキの同僚と連携しながら物事を動かしていくことと、ナイキが目指す、よりライフスタイルに近いスポーツの在り方の提供という点で、学びはたくさんありました。

ナイキまでの経歴で僕は世界のほとんどの大きなスポーツイベントやそれに携わる選手達と関わってきました。でもその一方で自分のアイデンティティはやはり日本にあると思っていました。

だから、その中でジャック坂崎さんがジャパン・スポーツ・マーケティングを立ち上げ、“日本版IMG”をやろうとしていたことが大変魅力的に感じたのでそちらに移り、さらにはその後のOSSの起業に繋がってきています。

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スポーツ界で働くために重要な5つの要素

マーケティングのスキル、ドキュメンテーション、プレゼンテーション、語学、コミュニーケション。この5つは必要でしょう。

特に即戦力になれる人は先に挙げた5つの項目を備えている傾向にあることが今までの経験で分かりました。それらを持っているなら、あとはネットワークづくりです。それがないと行きたくても入り口がないんですから。

少なくともこの5つの力があると分かっていれば、例えば僕のネットワークから誰かを紹介することもできるわけです。

スポーツ業界の入り口としては、分かりやすい商品やサービスを扱っているところがいいと思います。アディダスやナイキというのは物を作って売っているところですが、ジャパン・スポーツ・マーケティングやOSSというのは目に見えないサービスを提供しています。

今だとマイナースポーツ選手のために…とか、選手のセカンドキャリアについて…とか言う人は結構いて、その志は最高だけど、僕は“お金に変える”という部分がないと結局口だけの話になってしまうので、そちらの方面をやりたい人は経験を積んでからにした方がいいと思いますね。

セカンドキャリアは選手自身がまず、早いうちから考えるべき

最近アスリートのセカンドキャリア問題について、話題になりますが、僕は選手が引退した後、行く先は4つしかないと思っています。

1つ目はメディアで飯を食う。つまり話せる人になるということです。

2つ目は指導者になる。

3つ目は事業をする。

4つ目は普通に就職する。

若い現役選手に引退後の話をしても誰も聞きません。怪我や戦力外などである日突然現実にぶち当たって初めて気づくんです。

話がうまくなかったらメディアには出られないし、指導者も上がつっかえている。そこで手元に数百万円あれば焼肉屋や居酒屋を開くわけです。なぜなら一番分かりやすい事業だから。

サラリーマンはよほどの人でなければなれないでしょう。選手としてのプライドを捨てて、頭を下げなければならないのですから。

だからそうなる前の入団の時から、引退後についての話をする必要があるんです。話せば10人中1、2人くらいは将来について考えますよ。

将来について考える選手にはオフになったら、適正検査をして、先の4つのどれに向いているかを調べ、各々の内容についてイロハを教えておけば、いつ引退してもいいように備えられますよね。別にリーグ全体でやらなくても、クラブ単位でこういった取り組みをして、それをチームの特色にすればいいと思います。

ナイキ時代、Jリーグのセカンドキャリアのプロジェクトの一環で引退した選手の再雇用依頼が来たこともありました。しかし、人事に確認して用意されたポストは店頭スタッフ。これが現実です。

ですから僕は、選手には甘くないんです。引退後のことをまともに考えなかった人が、いきなり怪我をしてプレーを続けることができなくなったとしても、本人の責任ですから。でも逆に早くに気付いて、考えていた人には手を差し伸べたいです。

プロ野球やJリーグはもちろんのこと、世界トップレベルのレスリングや水泳、体操、柔道などの選手が引退後のキャリアをしっかり歩めるような道筋を考えていくのは協会であり、リーグであり、チームであると僕は思いますね。

憧れの選手の姿を追いかける子供達のことを、親御さんが安心して応援できるようになれば、競技の普及発展にも繋がるのですから、セカンドキャリアについてちゃんと考えていくべきなんです。

日本のスポーツ界は転換期に突入。そこで大切なのは“人”。

2011年にスポーツ基本法が変わり、スポーツ庁はいずれスポーツ省になって文科省から離れ、国におけるスポーツの仕組みは大きく変わると思っています。スポーツ=体育ではなくなります。

それに伴い、ビジネスとしてのスポーツも脚光を浴びることになるでしょう。その中でスポーツ界のいい部分をきちんとまとめ、新しい日本のスポーツ界を創造する人を僕は育てたいんです。

もう一つはラグビーW杯、東京五輪に向けて、最終的に60社以上の企業がスポーツに投資・支援をすることになります。成功すれば、スポーツに対して投資をしたことが、自社にとってメリットがあると感じてくれる企業が一気に増え、2020年以降もまた何かスポーツでやりたいと思ってもらえるようになります。

それと同時に企業からのお金を受け、スポーツによる価値提供・交換できる人がスポーツ業界内に増えていかないとビジネス側と対話ができなくなってしまいます。だからそういう人を育てておかないといけないんです。

ただ、日本国内のマーケットは横ばいか微増でしかありません。世界で物を売って成長したい日本の会社は日本国内ではなく、外国の案件に投資がしたいわけです。そして、今回の五輪でスポーツの価値を感じて、投資をしたいとなれば、スポーツマーケティングの窓口となってくれるようなグローバルな人材が求められることになります。だから語学が必要になるんです。

東京五輪に向け、日本には世界中から人が来て、歓喜の渦に巻き込まれることは間違いないでしょう。しかし問題はそこから先の話。スポンサーになった企業の中にスポーツの価値について考え、活かすためのスポーツマーケティング部なんかができてもいいと思っています。

お金とモノをどう科学反応させるのかを考え、最終的に実行するのはやっぱり人です。

でも、人を呼ぶためにはお金も必要なので、スポーツ界を集金力のある場所にもしないといけません。

未だにお金じゃなくて気持ちだと言っている人がいますが、そうではなくて、それなりの金額をもらえるような業界にみんなでしていきましょうよ、という話ですね。

そのためにはスポーツというところだけではなく、他の分野にも目を向けてほしいです。本業にこだわりすぎるのではなく、どうしたら他の分野を関わらせてお金にしていけるのか、考えてチャレンジしていけるように皆さんにはなってほしいです。

 

半田さんが講師を務める、“スポーツビジネス分野のプロを育成する専門の学校”、バンタンスポーツアカデミーの詳細はこちら