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池田愛恵里がセレッソと友に歩んだ道。ピッチリポーターの魅力とは

2019.11.05 / 竹中 玲央奈

セレッソ大阪のピッチレポーターやスタジアムMCとして活躍する池田愛恵里さん。グラビアアイドル・タレントからスポーツ報道の世界に転身したその理由と、この仕事の魅力について語っていただきます。

 

「正直、最初の1、2年は本当にしんどいことも多かったです。なかなか思うように出来ず、取材が終わってから『私には向いてない、なんで私はここにいるんだろう』と思いながらスタジアムで毎回泣いていました」

(池田愛恵里)

 

サッカー中継において実況・解説と共に重要な役割を持つのが“ピッチリポーター”。

試合に臨む選手やスタッフと同じ目線に立ち、実況席や画面のむこうの視聴者が知ることのできない、ピッチサイドで起こっている出来事を伝えます。目まぐるしく動く90分間の試合における“温度感”を伝え臨場感を高めるという意味でも、中継で欠かせない存在と言えるでしょう。

 

池田愛恵里さんは、そんな大役を担うピッチリポーターの1人。グラビアアイドルとして活動しながら、弱冠22歳でこの世界に飛び込みました。180度と言っても良い転身を果たしたその経緯とは。そして、未経験からスタートしたスポーツ報道の世界で感じてきた葛藤とは。

 

甲子園の売り子から始まったスポーツ界への道

もともとお父さんが熱狂的な阪神ファンで、小学校の時から強制的に甲子園に連れて行かれていました。当時は野球のことが全くわからなかったんですけど、甲子園で感じられる観客の盛り上がり、みんなが「わー!」となるあの雰囲気がすごく好きで、通うようになりました。

 

そして「ビールの売り子の人たちは毎日ここで、この空気の中にいられるんだ。めっちゃ良いな。いつかやりたいな」と小学生のときから思うようになり、19歳から売り子を始めました。

 

実は、サッカーは全く見ていませんでした。やっていたスポーツはテニスだったのですが、そんなに強いところで活動していたわけでもなく。だから、阪神を見に行く以外はスポーツとの関わりはほぼなかったんです。昔の自分が今この仕事していることを知ったらびっくりするだろうな、と思います。

 

私が甲子園で売り子を始めたとき、東京ではおのののかちゃんの人気が出ていて“売り子ブーム”だったんですよ。その後、今の事務所に入ったときにグラビアの仕事が決まりそうだとマネージャーさんに言われて、その活動も始まったんです。

そしたら仕事がたくさん入り始めて。2011年頃ですが、そこから2,3年はグラビアの仕事を続けました。ピッチレポーターをやっていた時期とも被っています。

 

フォルラン選手がいた2014年に、グラビアのイベントに出てから宮崎のキャンプへ行ったのを覚えています。今では考えられないんですけど、DVDの発売があった関係でこのスケジュールで動かなければいけなかったんです。

 

人前に出ることは嫌いだった

ただ、この仕事を始めたときからタレントの仕事は向いていないとは思っていました。人前に出るのがすごく嫌いだったし、昔からあがり症だったんです。学校の授業で前に立って発表するのが本当に苦手だったし、何かで表彰されて体育館に上がるのも苦手でした。

 

でも、この仕事を始めたのは「人前に出ることに積極的になれるかな。変わるかな。」と思ったから。売り子を始めるときも、親からは「絶対そんなことできん。やめた方が良い」と言われたんですよ。人前で大きな声を出す仕事ですから。でも、そう言われたら余計やってやろうと思って(笑)。

 

実際に売り子をやってみたら緊張感もなくなり、見られることが嫌じゃなくなってきたんです。でも、グラビアに関しては楽しかった一方で直感的に「向いてないな」と思っていました。

 

始めたのが大学生の頃だったのですが、学校に行きながら売り子もやって、グラビアも…という感じだったんですけど、「卒業する時にこのままグラビアやっていくのはしんどいな」と思ったんです。

終着点として、目標として、バラエティに出ることが本当に自分の思いとしてあるのかと言われたら、そうではなかった。実際に全国区のバラエティに出してもらったときも出演させて頂いたことは本当に嬉しかったんですが、やっぱり自分には向いていないと自信がなくなってしまいました。それが4回生くらいの時だったので、就職しようと考えていましたね。

 

そんな、「これからどうしようかな」と思っていた時に関西テレビのセレッソ大阪の応援番組である“Golazo Cerezo”のMCのオーディションがあったんですよ。事務所から勧められて出ることになったのですが、それまでグラビアしかしてこなかったから上手く喋ることはできないし、その勉強もしてきていない。もちろんインタビューもしたことないし、サッカーもよく知らなくて。

だから「オーディションに行っても恥かくだけだから私は大丈夫です、受けないです」と伝えました。

 

でも、グラビアをやっていて全くサッカーを知らない同期の女の子から「私はオーディション受けるけど、愛恵里はどうする?」と言われて。「え、サッカー全然知らんやろ?」と驚きながらその子に言ったら「知らないけどやってみたら面白いかもしれないじゃん。やってみないとわからなくない?」と返ってきたんですよ。

 

「確かに、やってみないとわからないな」と思って、エントリーをすることにしました。そこから自己PRを送り面接を受けに行ったのですが、1次の集団面接で「自分の性格をサッカーのポジションで表すとしたらどうですか」と聞かれたんです。

「あ、終わった」と思いました。

 

周りはアナウンサーのような方も多くてサッカーを知っていたので、「周りを生かすことが好きだからボランチです」というような感じでしっかり答えられているんですよ。でも私からしたら「ボランチって何!?」というレベル。私の番になったときに「体を張れるんでゴールキーパーですかね?」と、今思ったら恥ずかし過ぎる回答をしていて(笑)

当然落ちたと思って帰ったのですが、1次合格。2次が最終面接だったのですが、ここまで来たら受かりたいなと強く思いました。でもセレッソのことを全く知らない。だからまずは選手名鑑を買って1週間ずっと読み続けて、選手の背番号から出身地、誕生日まで全員覚えました。それくらい熟読して。サッカーのことはわからないけど、取材するかもしれない選手のことはしっかりと知っておかないといけないと思ったんです。

 

いざ面接に入ってみると、面接官の方もそれに気づいてくれたみたいで「まさか全員覚えてきたの?」と驚かれました。インタビューの実践で、面接官を選手だと思って話を聞くという試験もあって、その中で選手名鑑から得た知識とかも盛り込みながらトライしました。ちゃんとしたインタビューができた気はしなかったのですが、結果はなんと合格でした。

 

初のヒーローインタビューはあの選手

晴れてGolazo Cerezoの番組のMCとなることに決まったのですが、転機がありました。Golazo Cerezoの放映局である関西テレビさんの方針に番組のMCにJリーグのピッチリポートも任せるというものがあり、私がピッチリポートをさせて頂くことになったんです。一緒にやった方がより選手のことを知れるから、というのがその理由です。当時は萬代裕子さんという方がピッチリポートをしていたのですが、萬代さんが産休に入ることが決まっていました。

 

そういった事情もあって、萬代さんのリポートを後ろから見させてもらうようになり、その年の秋ごろから天皇杯だけ担当させていただくようになりました。最初のピッチレポートは天皇杯のセレッソvsサガン鳥栖でした。

【参考】https://www.cerezo.jp/matches/2013-11-16/

 

そのときに、後々セレッソで一緒に仕事をすることになる尹(晶煥)監督にインタビューしているんですよね。試合は鳥栖が勝ったのですが、初のヒーローインタビューは豊田陽平選手でした。ただ、緊張しすぎて、何を話したか全く覚えていません。

 

でも、今思ったらデビューインタビューが豊田さんでめっちゃ良かったなと思います。すごく丁寧に答えてくれたんですよ。そしてこの前、セレッソvs鳥栖の試合で豊田選手が決勝点を決めて鳥栖が勝ち、彼をインタビューすることになりました。それが私のデビュー以来6年ぶりのインタビューで…とても感慨深かったです。「あの時、私は何を聞いたんだろうな」と思って。

 

最初のインタビューで“やらかし”はしなかったのですが、無難な感じで終始して、後からそのことを指摘されました。そのときに、自分がリポートを入れて後悔するのは良いけど、入れずに後悔するのは1番いけないと言われたんです。

失敗はめっちゃありますよ。かつてFC岐阜を率いてたラモス瑠偉監督をラモス“選手”と言ってしまったこともありますし、試合の笛が鳴ると同時に声を入れてしまったこともあります。笛の音は聞かせないといけないのに自分の声と丸かぶりしました。

 

中継後には反省会があって、あの場面のあのレポートは必要なかったとか、そういったことを制作の方達を交えてお話させて頂きます。指摘されることのほうが多いことはざらです。良いところを褒められるより改善点、反省点のほうが多いですからね。

この仕事をして感じたのが、試合に向けての準備の大変さです。とにかく時間がかかるんです。アナウンサーってこんなに大変なんだなと思いました。準備してきたものが100だとしたら、95ぐらいは捨てることになる。自分がとったコメントが、中継で使われないまま終わるんです。そんなことはもちろん知らなかったです。

 

対戦相手のことも知らなければいけないので映像を見るのですが、90分をただ見るのではなく、ゴールシーンやそこまでの過程を繰り返し見ることもあります。結局1試合を見終わるのに2時間以上かかる。前よりは効率良くできるようになりましたけど、それでもすごく時間がかかるので、前後のスケジュールには注意しています。

 

リーグ戦でピッチレポーターをやるようになってから取材の為に、セレッソの練習場のある舞洲に通っています。練習取材の仕方は、他の記者さんが話を聞いている姿から学んでいきました。

 

現場には知らない人ばかりで、女性は私1人。すごく緊張したのですが、初対面だし今後も取材を続けていくので、しっかりと挨拶するところから始めなければいけない。選手にはとりあえず「おはようございます」「お疲れ様です」と言って顔を覚えてもらうところからスタートなんだと言われました。とはいえプロサッカー選手にはオーラもあるし声がかけづらいところがあって…。でもそこは勇気を振り絞ってやりました。

 

毎試合、スタジアムで泣いていた

正直、最初の1、2年は本当にしんどいことも多かったです。なかなか思うように出来ず、取材が終わってから「私には向いてない、なんで私はここにいるんだろう」と思いながらスタジアムで毎回泣いていました。

自分の知識がなかったからというのもあるんですけど、選手に何を聞けば良いかわからないし、どうコミュニケーションとって良いかもわからないままで。

 

私自身、甲子園のあの空気が大好きだったからスタジアムで仕事をするということは自分にとってぴったりだと思っていたんですけど、楽しむ余裕もなくて。終わった後に「今日も何もできなかった、やばい」と毎回思っていました。

でも、初めてピッチレポーターとして現場に立ったときの興奮は凄かった。

 

監督と選手の声もしっかり聞こえて、体が当たる音とかも鮮明に耳に入るんです。当たり前なんですけど、「映像で見るよりこんな激しいんだ」と、むちゃくちゃ興奮しましたね。

ピッチサイドはこういう仕事をしていなかったら行けない場所なので、そこに立たせてもらっているというありがたみを感じますし、やりがいの一つかなと。サッカー好きの人達にとってはとんでもない特等席ですから。

 

正直、最初はそのありがたみを感じる余裕もなかったんですけど、途中でサッカーがすごく好きなディレクターさんが緊張していて余裕のない私の表情を見て察したみたいで、声をかけてくれたんです。

「俺はディレクターだからいつも中継車に乗っているけど、ピッチの側で仕事したいもん、めっちゃ羨ましいことやで。ピッチサイドに立てることの喜び、貴重さを感じながらやったら絶対楽しいから」と。

 

そこから考え方が変わって、仕事がすごく楽しくなりました。この仕事は本当にやりがいがあると思っています。

 

グラビアを辞めた理由

始めたころはそんなに長くは続かないと思っていたのですが、自分の声でスポーツの現場を伝えるこの仕事にとてもやりがいを感じて、もっと力を入れていきたいと思うようになりました。

最初はグラビアアイドルの活動も並行して行っていましたが、その時に「グラビアアイドルがピッチレポートをしている」と言われていて。

 

でも、プロのリポーターとしてやっていけるようになりたいと思ったので、グラビアは辞めました。

6年ほどこの仕事をしてきて最も印象に残っているのは、セレッソが昇格を決めた試合か、逃した試合のどちらかですね。大雨のキンチョウスタジアムで行われたファジアーノ岡山との試合で清原翔平選手がゴール決めた試合と、ヤンマースタジアム長居でアビスパ福岡と戦って引き分けてしまい昇格を逃した試合です。

 

昇格を決めた試合は山口蛍(現 ヴィッセル神戸)選手も泣いていたのがとても印象的でした。彼は私と同い年で、取材をし始めたときはイケメンの若いお兄ちゃんという感じだったんですけど、どんどん責任感が強くなっていって、あの時はキャプテンでした。色々な思いで戦っていたんだろうなと考えたら私も嬉しさがこみ上げてきて。ずっと見てきたつもりですし、どういう経緯でここまできて、これだけ泣いているのかもわかるんです。あのときは、初めて泣きながらインタビューをしました。

 

憧れのリポーターはあの人

未だ中継が終わった後に「今日の試合はよくできたな」と思いながら笑って帰ったことは1回もないんです。毎回電車の中で「あそこはああやって聞けば良かったな」とか「あそこはあのリポートを入れても良かったな」と思うんです。映像は電車の中で見始めることも多いんですけど、だいたい何分で自分がこのリポートを入れたかもわかるじゃないですか。

 

「来るぞ来るぞ…ああそんなタイミングで言わんでも。もうちょっと待ったら良いのに」とか「あれだけ予習していたのになんでできなかったんやろ」とか、反省ばかり。正直映像を見返すのは怖いです。

そんな中、上の人達に追いつきたいという思いが強くて、それが原動力になっているんです。他のピッチリポーターだと高木聖佳さんのことがめっちゃ好きなんです。

 

聖佳さんには憧れポイントがいっぱいあります。好きすぎて味スタの東京ヴェルディ戦を見に行かせてもらったくらい(笑)。どういう動きをしているのかをひたすら観察しました。そこで、自分よりもバタバタしていないことに気付きました。すごく冷静で視野が広いんですよ、聖佳さんって。「そこを見ていたんだ!」というところがたくさんありました。

大好きで、ずっと彼女の背中を見ています。なかなか近づけていないんですけどね。

 

興味のないことから“楽しさ”を見つけられるか

売り子をやっていた中で培ったコミュニケーション力は、この仕事でも活きています。甲子園では初対面のお客さんでも必ずしっかり話して、「次も話したい」と思ってもらえるようすることを意識していました。そうすると、次に来てくれたときにも絶対私から買ってくれるんですよね。

そういうことを4年ぐらいやってきた中で、今の取材に確実に活きています。人見知りな私でも意識して“やろう”と思ったらできたんです。

 

リポーターを始めた当初は、選手に挨拶するのも苦手に感じていました。でも、踏み込んで話しかけたらけっこう会話は続くし、その人自身に興味を持つようになるんです。だから、人見知りでも全く問題なくこの仕事ってできるんだな、ということがわかりました。

 

コミュニケーションを取ること、選手へのインタビューというのももちろん大事ですが、現場にいない人にどれだけ臨場感ある情報を与えられるか、というところがピッチレポーターの1番の役割だと思っています。スタンドに座って見ている人よりも、“ピッチの近くにいる”感覚を視聴者に味わってもらわないといけないんです。

 

そういう中で、仕事となったら遠慮せずに自分の思ったことは間違いじゃないと思って踏み出せる人がこういう仕事に向いているのかな?とも思います。「やらない後悔よりやって後悔した方が良い」というのはまさにそれ。自分が発しなかったら何も起こらず終わる90分の中、自分1人で戦わないといけないし、ヒーローインタビューの間までも全部自分で考えないといけない。

 

正解がない中、全てを自分がその場で判断して決めていかないといけないんです。判断力や瞬発力というか、そういうものも必要になってくる仕事ですよね。

今はまだまだ上の人達を見て追いつこうと必死ですが、ピッチリポーターを目指す人がもっと増えたら嬉しいなと思っています。